八ッ場ダム工事中止の反対論のおかしな論理

テレビのニュースを見ていたら、八ッ場ダムに対して、「もう工事の7割が終わっているのに、ここで中止したら今までの工事がムダになるし、これまで使ってきた金はどうなるのか?」というような論調で中止に反対するような意見が提出されていた。これは、一見もっともな理屈を言っているようにも聞こえてしまうが、よく考えるとおかしいのではないかと思う。

すでに7割やってしまったのだから、残りの3割も終わらせようというのは、それが必要なものかどうかという観点が抜け落ちてしまっている。とにかく、注ぎ込んだ金がもったいなから、残りの金も注ぎ込んでしまえというのは、暗黙の内に、その工事は必要だからやっているのではなく、ある量の金をばらまくことが目的でやっているのだと語っているのではないだろうか。もし残りの3割の金が必要だというなら、むしろ工事をせずに、金だけをばらまく方がまだいいのではないかと感じる。

八ッ場ダムに関しては、それが本当に必要な工事であるという報道が少ない。むしろ今となってはその必要性が全く失われてしまったという報道がなされている。必要がないのだから、やめる方が合理的だろう。しかし、やめることによって損害を被る人々がいるのも確かだ。その損害が本当に保障されるべきものであれば、残りの工事をする金よりも余計の金がかかったとしても保障するのが合理的な判断だろう。余計に金がかかるのだから、ムダではあるけれど、金を払うための工事をすべきだというのは、金の面だけのつじつまを合わせる論理であり、他の面の正当性をすべて無視する論理になるだろう。

民主党公共工事の見直しをするのは、本質的には、必要性によって工事をするかしないかを決定しようということだろうと思う。それは、今まで公共工事によるばらまきで経済を回してきた日本の経済構造を変えるという意思だろうと思う。もはやそのばらまきでは、経済循環が再生するような余裕がなくなってきたのだと思う。原則をどうするかという面で八ッ場ダムの問題も見なければならない。

八ッ場ダムはすでに7割も作ってしまったからという論理は、今までの構造を変える気がないということを告白しているようなものではないだろうか。民主党の工事中止の方針に反論するなら、必要ないという主張に対してこそ反論してほしいと思う。その反論が全く聞こえてこないということは、必要性に対しては反論できないのではないだろうか。

八ッ場ダムの工事中止は、それに対して利害がある人々も厳しく受け入れるべきではないかと思う。そして、その損害が補償を求める正当性があるのなら、民主党はどれだけ金がかかろうとも保障すべきだろう。それを今までの「ムダ使い」と一緒くたにして、金がかかるという批判をするのは的外れだと思う。

また、工事中止が、必要性という観点から正当性を持っているならば、それによって損害を被る人々に対してもっとも責任を持たなければならないのは、このような利権のためにムダ使いがなされた工事を計画した自民党政府ではないか。自民党の失敗こそが追求されなければならないだろう。その尻ぬぐいをしようとしている民主党に的外れの批判をするのは間違いだと思う。民主党に対する批判は、八ッ場ダム公共工事として必要かどうかという判断が正しいか否かということに絞られるべきだろう。もしその判断が間違えているなら、その点をこそ批判してほしいと思う。そして、この判断が批判できないものであるなら、そのような工事を進めてきた自民党政府の今までの失敗をもっと厳しく追及すべきではないかと思う。

民主党の記者会見における公約違反に至る合理的判断を想像する

鳩山首相の最初の記者会見がすべてのメディアにオープンにされなかったことでインターネット上で大きな批判の波が起こっている。特に神保哲生氏の「ビデオジャーナリスト神保哲生のブログ」に、その情報が詳しく報告されている。

神保氏やフリーのジャーナリストの上杉隆氏が、政権発足前から記者会見がオープンになることを確認する場面がネット上の映像で見られる。これは、マニフェストには書かれていなかったものの、民主党の公約として当然実行されるものとして誰もが受け取っていた。だから、それがオープンにならなかったら、そのことは明白な公約違反として批判されるのは当然予想されたことではなかったかと思われる。自民党を批判し、自民党政治との決別の期待で誕生した鳩山政権が、自民党と同じような国民からの密室政治を行うのではないかという疑いを持たれるような、記者会見における開放の約束の反故は、政権にとって大きなダメージになることも予測できたのではないだろうか。そうであるにもかかわらず、このようなことが結果的に起こってきたのは、いったいどのような合理的判断からなのだろうか。

記者クラブや官僚の意向に押し切られただけということであれば、それは単に民主党の力量不足だということになるだろう。しかし神保氏のブログでの「記者会見クローズの主犯と鳩山さんとリバイアサンの関係」という記事によれば次のように書かれている。


「両者の間を行ったり来たりしてようやく見えてきたことは、まず官邸の報道室に「雑誌と外プレだけでいい」という党の意向を伝えてきたのは、平野次期官房長官だったということです。これは官邸の報道室で確認済みです。
           (中略)
 実際は正確な事実関係が確認できているわけではないのに、メディアからの問い合わせに対して民主党が「官邸にはオープンにするようお願いしてある」などと説明をするものだから、官邸報道室主犯説が出回ってしまったようです。要するに、官邸の報道室にオープンにしなくていいと平野次期官房長官(当時民主党役員室長)が指示をしていることを、党側で正確に把握できていなかったか、もしくは平野氏が党側に本当のことを伝えていなかったかのいずれかが、一連の混乱の原因だったということになります。
 官邸報道室主犯説と、平野官房長官(当時は民主党役員室長)主犯説の2つの犯人説が乱れ飛び、「早くも官僚にしてやられた民主党」なんて話が出始めていましたが、今回の会見のオープン化問題に関する限り、どうも事実はそういうことではなく、あくまで次期官房長官による政治主導の決定の結果だったということのようです。」


これを見ると、民主党自体もこの記者会見の問題に主体的に絡んでいるようだ。するとそこには、今までの公約では記者会見をオープンにすると言ってきたが、いざ政権を取ってみたら、オープンにしない方がメリットがあるという判断がどこかで働いたのではないかという疑いを感じる。そうでなければ、公約違反をしてまで(批判されることがわかっているのにという意味)記者会見の問題を引き起こすという判断の合理性がわからなくなる。問題が起こってさえも、なおメリットがあるという判断がどこにあるのか。そのあたりのことを考えてみたいと思った。それが合理的に理解できれば、今後民主党がまた公約違反を起こしそうになったとき、同じような思考を展開するのではないかという目でそこに注意を注げるからだ。

神保氏のブログによれば「記者会見を原則開放 岡田外相、全メディアに」という報道がなされているという。民主党も、批判の大きさが予想外だったのか、この失敗に対処しようとしているように見える。このように大きな批判の波が出るという予測は民主党になかったのだろう。その判断のミスが記者会見のオープンという公約の反故につながったものだと思われる。

批判の大きさについては判断を誤ったものの、批判があること自体は民主党も十分予測していただろうと思う。それでは、それがメリットと比べて影響を与えないと判断した、メリットの側の要素には何があるのだろうか。宮台真司氏の「民主党の重大な「公約破り」はじまる 許すまじ!」というエントリーには、次のような一文がある。


「平野官房長官、あんたに言っておこう。鳩山献金問題をメディア攻撃から防遏するには、記者クラブを使って統制したほうが好都合だと思ってるんだろうが、せこいんだよ。むしろネットでの発信者がこの問題について圧倒的に厳しくなるぜ。」


鳩山献金問題が防御できるということがメリットの第一に来るとしたら、判断としては合理性を感じられるだろうか。献金問題を突っつかれたくないと言うことが、今までの記者クラブの権益を守ってやることでマスメディアとの間で話がついているとすれば、その問題だけに関しては合理的な判断と言えるだろう。問題は、公約違反という批判の危険を冒してでも、献金問題に触れることを避けるということの方が重要性があるという判断だ。それだけ献金問題には、突っつかれると弱い部分があるということを暗黙の内に語っていることになってしまうだろう。そこに弱さがなければ、マスメディアの権益を守るということと引き替えに取引する必要はないと思われるからだ。

神保哲生氏は、この献金問題が起きたときに、その処理に対して大きな疑問を提出していたものだ。問題の部分が何も明らかにされていないのに幕引きをしたことで、その情報を持っているものがさらにそこをつついたときに、言い訳の出来ない窮地に追いつめられるのではないかということを語っていた。それを政権発足前に何とか処理しておかなければ、政権が発足した後では何らかの大きな問題が生じるのではないかという危惧だ。それが現実になったというのが、この一連の記者会見騒動ではないだろうか。

献金問題に関しては「鳩山氏の虚偽献金問題、いまだ多くの疑問」という記事が出ている。この記事に寄れば、「鳩山氏と秘書2人はすでに政治資金規正法違反(虚偽記載)容疑で東京地検に告発されており、捜査の行方が新政権を揺さぶる可能性もある」ということだそうだ。この問題が、法律違反として立件されたときは、鳩山政権に対するダメージは大きなものになるだろうことは予想できる。しかし、その防御がマスメディアとの記者会見での権益を温存するという取引で守れるものだったのだろうか。

神保・宮台両氏は、この献金問題についての疑問を次のように語っている。(「鳩山献金問題がまだ終わっていないと考えるべき理由」から引用)


・神保(ジャーナリスト): 個人献金の額には上限がある。これまでの説明だけでは、鳩山さんの個人献金が突出して多い理由が、鳩山さん自身が元々お金持ちの家の出であるため、個人資産やお母様からの援助を、法律の上限を超えた形で政治に転用するために、架空の名義やいろいろな人の名前を使って小口に分散して申告していた疑いが払拭できない。悪意を持って言えば、鳩山家やお母様の出である石橋家の資産を使って、民主党という政党を興し、党内で現在の政治力を得たのではないかと言われかねない状況だ。

・宮台(社会学者): 資産の格差があっても構わないのが我々の日本社会なのだけれども、資産の格差が政治的チャンスに大きく結び付いてはいけないということで、個人献金の額の規制がある。個人献金の額のデータから推測するところ、特定のごく少数の個人が限度額を超えて献金をすることをカモフラージュするために、小口に分けてダミー化させたという疑いがある。そうであるとすれば、鳩山さんは今日の地位や影響力を培うのに、鳩山さんにしか使えない多額の少数の個人の資産を使ったということになる。これはリベラリズムという政治理念に照らしてみると、かなり問題が大きい。

・神保: 実は5万円以下の献金については、その総額は公開された情報から明らかになるが、5万円以下の献金者の名前は出さなくていいというのが政治資金規正法なので、献金者の内訳はわからない。法的には少額献金者の名前を公開する必要はないが、今回、5万円以上の個人献金者の7割が嘘だったということを考えると、5万円以下についても、政治的、道義的な疑問を払拭するためには、名前の確認が必要かもしれない。ただし、献金をしていることを知られたくない人も多いはずなので、プライバシーの問題がある。たとえば名前を一般には公開はしないが、第三者性が担保される委員会が5万円以下の個人献金の個人名を確認して、その実在性や真偽のほどを確認するくらいのことまでやらないと、今回の疑惑はそう簡単には晴れなくなってきているのではないか

・宮台: しかし、疑いが晴れるどころか、実際に推測が当たっていた場合には墓穴を掘ることになるので、むしろそれを何としてでも覆い隠す動機はある

・神保: つまり、少額献金者も架空や嘘が多かったらどうするのかということだ。もしそうであれば、何があっても少額献金者の実名照会には応じないだろう。しかし、応じなければ、事実上、嘘だったことを認めるような意味を持ってしまうかもしれない。
 麻生さんが党や閣僚人事に失敗したりして、やや自滅気味なので、民主党としては下手に調査に応じたりせずに、このままの勢いで一気に押し切ろうという戦略なのかもしれない。しかし、仮にそれが功を奏して政権を取れたとしても、鳩山さんは、総理になってからもこの問題を突っつかれ続けることになる。やはりそれは良くないだろう


このような大きな疑問への対処として、正直に事実を出すべきだというのが神保・宮台両氏の考えのように感じる。それは、もしかしたら政治資金規正法という法律に違反するような事実が含まれているかもしれない。しかし、正直にそれをさらけ出すことによって、宮台氏は「神保さんのような疑いを含めたうえで、それを我々がどう評価するのかというように、もう一度我々の問題に投げ返される」ということで対処すべきだと主張している。政権の安定のためには、隠すよりも、それを有権者の判断にゆだねた方がいいということだと思う。

また神保氏は、「つまり、今日ここで提示した疑惑が、すべて当たっていたとしても、それを鳩山さんがきちんと説明をした場合は、結局、最後はそれをわれわれ有権者がどう考えるかの問題になるということか。ただ現時点ではその疑いが本当かどうかもわからないので、まずは疑惑を払拭できるような説明があることを期待したい。いずれにしても、すべてはそこからの話になるだろう。」という言葉で締めくくっている。いずれにしても、この献金問題の処理は、隠すよりも事実を明らかにした方が結果的にはいいだろうという判断だ。

この判断において民主党はミスを犯したような気がする。ここで事実を明らかにするよりも隠すという方向を選んだために、後に公約違反とも言えるような記者会見の扱いが生まれてきたのではないかという感じがする。民意の大きなうねりによって誕生した民主党政権であるにもかかわらず、その民意の判断が正しい方向を取るということが信じられず、献金問題でたたかれるのを恐れて今回の記者会見のマスメディア以外の他メディアの締め出しを判断したとしたら、次に何か大きな公約実現への抵抗があったときに、同じように民意の判断をバックに戦うというようなことが出来なくなるのではないかという危惧を抱く。民主党献金問題に触れられるのを恐れたというのは推測に過ぎないのだが、他に合理的な説明が見あたらない。今回の記者会見における公約違反の判断について、それを合理的に説明する他の理由があれば知りたいものだと思う。

高速道路の借金

高速道路の借金について、山崎養世さんの『道路問題を解く』(ダイヤモンド社)という著書から抜き書きしてその部分を考えてみようと思う。この借金に関しては、マスコミの報道では、高速道路の通行料金収入の一部を宛てて返済する計画が語られている。そしてそれは、マスコミに寄れば今のところは順調に返済されているらしい。この借金が、もし料金収入がなくなれば返せなくなるし、ましてや国民の税金でこれを返すという民主党案(これは山崎さんのアイデアだと思うが)には、「道路を使わない人たちにも道路の借金の負担を押しつけている」という批判が語られている。

この批判は全く的外れではないかというのが、山崎さんの本を読んだあとでの感想だ。この借金の問題は、多くの人が批判的に扱っているだけに、高速道路の問題を論理的に理解する鍵になるものではないかと思われる。詳しく考察してみたいと思う。

高速道路の借金の本質的問題は、借金をしてまでも作り続けるという現在の制度が全く不合理でそれを変えなければならないということだ。高速道路を造るのに、これからも借金が必要なのかどうか。山崎さんの論理展開では、この借金は全く必要のないものとして主張されている。借金で作り続けるという制度は、自由に金をばらまくためにこそ必要なもので、まさに利権を温存するために残されたものであるという主張だ。

これが本質的な問題なら、そこから派生する現実的な問題は、今までにしてしまった借金の返済をこれからどうするかという問題だ。道路公団民営化の方針では、高速道路の料金収入から返済することになっているが、これが果たして完済可能なものかどうかを山崎さんは考察している。そして、今の道路公団改革のやり方が、実は全く危険な、将来大きなリスクを伴うものになっていることを指摘する。山崎さんは、この著書の37ページで次のように書いている。


「一般道路の問題は、税金のムダ使いの問題です。しかし、高速道路の問題はそれより深刻です。巨大な借金を抱えているために、将来、国民が巨大な損失を負担するリスクがあるからです。」


高速道路の借金は、現在40兆円あるといわれている。この額の巨大さがまず一つの問題で、今の民営化案による計算では、この借金が45年かけて返済される予定だ。そうすると、金利を合わせた総額では、金利を4%と想定した場合でさえ84兆円になるという。(このあたりのデータは山崎さんの『大人のための税金の絵本 高速道路はタダになる!』(新風舎)からとっている)

山崎さんに言わせると、この4%というのは超低金利であり、これ以上下がることはないだろうが、いつあがるかはわからないものだという。しかもこれからあがりそうな要素はたくさんあるので、45年間も4%で行くことはあり得ないとも語っている。もし金利が6%を超えると、その返済総額は100兆円を超えるという。

単純計算すれば、84兆円を45年間で返すとなれば、年平均で2兆円を少し欠けるくらいのお金が必要になってくる。もし100兆円を超える総額になれば、2兆2000億ほどの平均の返済になる。高速道路の料金収入は、現在の段階で約2兆5000億だという。この収入は現在の段階でのものだ。将来的には人口が減っていくことが予想される日本では、この料金収入も増える可能性はきわめて少ない。むしろ減っていくと考えた方がいいだろう。この借金返済の計画はきわめて甘いといわざるを得ないのではないだろうか。

また、今の高速道路の制度では、まだ借金が終わりではないという。新しい高速道路はまた借金で造られていく。この借金が45年の間に10兆円とも20兆円ともいわれている。この新しく造られる高速道路は、果たして料金収入で採算がとれるところがあるだろうか。これもきわめて疑わしいという。この借金は、現在の黒字路線である東名や名神の収入を当てにして借金をしているようにしか見えない。だが、その東名や名神も将来的には収入が減っていくのではないだろうか。どうも借金の返済計画は将来破綻する可能性が大きいような感じだ。

この借金の破綻が起こったとき、もし民間企業であれば、その企業が倒産して終わりになるかもしれない。銀行のように、その破綻が国民全体に及ぶと考えられた場合は、それを国家が救済するというケースがあるかもしれないが、高速道路の場合はどうなのだろうか。この借金を国家が負担することになっていれば、それは国民全体が背負う負担になる。山崎さんは、40ページで次のようにこのあたりのことを解説している。


「今の日本では超低金利ですが、将来は、金利の上昇要因が目白押しです。世界的なインフレ傾向など、海外の要因もあります。国内では、財政赤字がふくらみ続けています。国はお金が必要です。その上、日本人の貯蓄が細ってきています。引退世代が資産の取り崩しを始めているからです。つまり、お金への需要は高く、供給は減るわけですから、お金の値段である金利が上がることが予想されます。さらに、国内で資金が足りず、海外で日本の国債を売ることになれば、金利は跳ね上がるでしょう。そのとき、高速道路の借金の返済が出来ないツケを、国民が払うのです。
 こんな理不尽のことが起こりうるのは、高速道路の借金は、最後には国民が払う仕組みになっているためです。どういうことでしょうか。
 それは、民営化といいながら、旧道路公団の借金は、民営化後に発足した高速道路会社が持っているわけではないのです。借金を、日本高速道路保有・債務返済機構(略称は高速道路機構)なる新たな独立行政法人に「飛ばし」たためです。この法人は職員が85人の国営ペーパーカンパニーです。資産があるといっても、全国の高速道路が売れるわけではありません。旧国鉄の汐留や梅田の操車場跡地のように、使わないから売却できるというものはないのです。つまり、売れる資産はないのです。
 それならば、将来金利が上昇して、巨額の借金の返済が出来なくなり、損失が発生したらどうなるのでしょうか。そのときは、資産もなく従業員もほとんどいない高速道路機構が抱えた借金は国民が負担するしかないのです。なぜなら、高速道路機構の借金は、国が貸し付けていたり保証しているものがほとんどだからです。高速道路機構が返せなくて、損が出たら、国民にツケを回す。借金爆弾です。これが道路公団民営化の実態です。
 日本の高速道路は、不便なだけではありません。国民は、高い通行料金と税金を払い続けたあげく、巨大な借金爆弾が爆発するリスクを、いつの間にか負わされているのです。」


長い引用になったが、これを読むと、マスコミ(特にワイドショー)の報道とは違って、高速道路の借金は今のままの制度を続けていけば、返せない危険があるどころか、さらにふくれて永久に重しとして国民にのしかかってくる危険があることがわかる。民主党案が、たとえ今の段階で税金をつぎ込むように見えたとしても、この負担が結果的に、今の制度が破綻する将来と比べて軽いものになるならば、選択肢としては大いに選ぶ価値があるものになるのではないだろうか。

マスコミの報道では、この借金爆弾に関して知らせたものを見たことがない。これは、マスコミがそのことを知らないとは思えない。マスコミの取材力があれば、この程度のことはすぐに調べられるだろう。それでもあえて報道しないとすれば、マスコミがそれを隠しているのか、あるいは山崎さんの情報が間違えているのかどちらかということになる。僕は、山崎さんを信頼しているので、細かい数字の点でのミスはあるかもしれないが、本質的な指摘では間違いないだろうと思っている。もし、マスコミがこの情報を隠しているとすれば、その意図を考えてみるのもおもしろいだろう。なぜ借金爆弾を語らないのか。

もし、今の制度(道路公団の民営化)が全く期待できないものであれば、もう最後に期待するのは民主党案しかないのだから、多くの人はそちらの方に関心を持ち、世論も大きく流れていくだろうと思う。この世論の流れを押しとどめる意図がマスコミにあるとすれば、それは民主党の失敗を誘導し、再び利権を温存する自民党政治に戻したいという意図をマスコミが持っていることの表れではないかとも感じる。今後のマスコミ報道を見守っていきたいものだ。

高速道路の借金が、やがては大きな破綻を呼び、国民すべてに大きな負担を強いるということがわかれば、高速道路の借金は受益者負担であって、それを利用する人間が負うべきだというようなことは言えなくなるだろう。今、税金でも何でも使ってそれを処理しなければ、将来の負担がもっと増えるというなら、おそらく現在の負担の方を選択するのではないだろうか。将来の負担は自分の問題だ。それが見えるような想像力を身につけたいものだと思う。

高速道路の借金の問題は、今のままではそれが将来的に破綻するということが我々にとって今の最重要な関心事になるだろう。そのほか、山崎さんが提出する解決策なら、他のどのアイデアよりも負担が軽くなるかどうかということが次の関心事になるだろうか。また、破綻するしかないような道路公団の改革がなぜなされたか、ということが日本の政治の未来を見る上では大切なことになる。高速道路がなぜ借金で造り続けられなければならないのか。そのからくりを知ることで、自民党政治が作り上げた利権構造というものが浮かび上がってくるのではないか。そしてそれを壊さない限り、国民にとっての真の利益がもたらされないということもわかってくるのではないかと思う。借金の問題を入り口にそのような方向にも考察の範囲を広げていきたいと思う。

山崎さんの論理的思考

高速道路の無料化に関するライブドアブログのエントリー「高速道路の無料化」トラックバックをもらった。生粋さんというハンドルネームの方で、「高速無料反対は世論操作か」というエントリーで、山崎さんの主張に関する疑問を提出している。これは、大変参考になったので、今後の山崎さんの主張の理解に大いに役立てたいと思った。

しかし、僕が山崎さんの主張に共感し支持しているのは、その原則からの論理展開の見事さにあるので、この疑問だけではその論理展開を覆すほどの理由が生じるようには感じなかった。

山崎さんは、高速道路は原則無料であるべきだということから出発している。それは、世界の他の国もみんなそうしているから日本もそうすべきだという、現状追認の考えからきているものではないと僕は感じている。むしろ論理的な前提として「無料」ということを置かないと合理的ではないのではないかという思考の展開からきているものではないかと思う。「無料」こそが合理的な選択なのだから、世界の国の中で、道路行政を合理的に展開しようとしている国では、論理的帰結として「無料」が潮流になることが当然ではないかという考え方だ。むしろ有料化しているところは例外であり、それなりの理由がなければ有料化していないと受け取るべきではないかということだ。合理的思考を展開すれば「無料」が当然であるから、それが原則「有料」になっている日本では、どこかに不合理なゆがみがあると予測できる。それが山崎さんの基本的な論理展開だ。

それではなぜ高速道路の「無料」こそが論理的に合理的なのかといえば、そもそも道路を造る目的がどこにあるかということを考えることからきている。道路は、それを造った以上利用されなければほとんど何の意味もないと考えるのが合理的ではないだろうか。利用されない、ただ工事のためだけにきれいにした道路に何の意味があるだろうか。今利用されていないとすれば、その利用されていない原因を正しく突き止めて、利用されるように改善していくことが原則的に正しいだろうと思う。それが「無料化」の方向であり、有料にしておくことは、今のように利用されない高速道路という状態をいつまでも続けることになるだろう。

例外的に有料化されているところでは、その例外の理由がなくなるまでは有料化が続けられることもまた論理的には正当性がある。しかし、その理由がなくなれば速やかに無料化という原則が実現されるべきだろう。山崎さんの論理展開はそのようになっている。

山崎さんが展開する高速道路無料化への反対論というのが、原則「有料」であるということを主張するための論理的根拠を与えているなら、それは末梢的ではなく本質的な議論として受け止めていいだろうと思う。しかし、今ある例外的な理由の元で「有料」になっているという議論になっているとすれば、それは本質ではなく抹消を論じているのではないかと僕は感じる。マスコミの論調はすべてそのように僕には見えている。

高速道路は莫大なお金をつぎ込んで作られている。それが有効に利用されて、国民の利益となる方向こそが原則的に正しいだろう。まず僕は山崎さんのこの基本的考え方に共感した。そして、今の高速道路が有効に利用されていないことの原因・日本の高速道路が持っている不合理な面の指摘に、なるほどと納得するものがあった。それはかなり複雑にいろいろな面に関わっているため、議論が分散しているようにも見えて、それを理解するのはなかなか難しい。

道路は国民生活を豊かにするためにこそ有効に活用されなければならない、ということを原則的なものとして、高速道路が抱える様々な面を一つ一つ理解していくことを考えたいと思っている。そして、その理解から生まれる解決策として、山崎さんが提出するものが論理的に納得できるものであるかどうかを考えていきたいものだと思う。その一つとして、高速道路が抱えている借金の問題を、山崎さんが語ることから理解していきたいと思う。次のエントリーでは「高速道路の借金」というテーマで書いてみたい。


追記

僕はマスコミの主張よりも山崎さんが語ることの方を信用している。それは、山崎さんが語ることの具体的内容を自分で検証して、正しいことを確認して信用しているということではない。残念なことに、市井の一市民である僕にそれだけの情報収集力はない。誰かが提出する情報を信じて論理を展開しなければならない。

普通は何か権威あるものの情報が信じられるものになるだろうが、高速道路の問題に関しては、権威があると思われているマスコミが全く信用できない。うさんくさいものを感じる。利害によって報道の内容がゆがめられている印象を受けるのだ。その点、山崎さんの主張は論理的に首尾一貫しており、利害からも離れた位置にいて発言しているように感じる。山崎さんに対する信頼感は、そのようなところから生まれてくるのだろうと思う。

高速道路の無料化

新しく配信されたマル激では高速道路の無料化を巡って、山崎養世さんをゲストに招いて、その疑問点に逐一答えるという放送をしていた。この高速道路の無料化については、あれだけ民主党に投票した国民が、これには大多数が反対しているという奇妙な世論調査が提出されている。

この世論調査は、放送の中でも指摘されていたが、世論操作ともいうべきものであって、マスコミがその疑問点だけを大宣伝しているために不安をあおって反対世論を高めたと受け取った方がいいようなものではないかと感じる。どんな考え方であっても、その全貌を理解するのは難しいところがあり、重箱の隅をつつくように不安材料を見つけ出そうと思えば、それはいくらでも見つけられるものではないかと思う。山崎さんの話を聞けば、その不安や疑問がいかに末梢的なものであるかがよくわかるのだが、なぜかマスコミには山崎さんの話がなかなか出てこない。このマスコミのネガティブキャンペーンに負けずに、民主党は公約通りに高速道路の無料化を実現してほしいものだと思う。

山崎さんは、以前に郵政民営化に反対するという主張をマル激で見たときに初めて知った人だが、宮台氏が驚嘆するように、その論理展開の見事さにすごい人だと僕も感じたものだった。山崎さんの論理展開の見事さは、その全体性の把握の正確さ・深さ・見通しの広さにある。マスコミの論調を見ると、目先の損得勘定からネガティブに欠点だと指摘できるところを探し出して宣伝しているように見える。今まで取っていた通行料金がなくなれば、その分どこから金が取られて、誰が損するかということが声高に言われている。しかし山崎さんは、料金を取るということが、道路行政の中でどのような意味を持っているのか、また日本全体の財政においてどのような意味を持っているのか、官僚機構の無駄遣いといわれている天下りや利権の中でどのような構造的位置を占めているかということから話を始めている。

マスコミの論調は、目先の事実の整合性のつじつまを合わせる論理であるから、他のことを想定の外に追い出してしまえば論理的には整合性を持つ。しかし、その論調は、全体性の中で位置づけてみると、それに矛盾する命題がいくらでも出てきてしまうという論理的な破綻をするような論調だ。論理レベルとしてはきわめて低いものである。だが、山崎さんは、全体性の中で、基本命題となるものを設定し、そこから論理的な帰結として展開していく中で、結果的に高速道路を無料化することが正しいというものが導かれていくような展開をしている。見事な論理レベルの高さではないかと思う。

山崎さんの主張の中心は、高速道路をただにして、経済的な利益を配分することで大衆の支持を得ようというような考えではない。そういう損得勘定での主張ではないのだ。中心となるのは、道路行政の持っている利権構造を壊すために何をするかということなのだ。道路行政というものが、国民の財産を増やし、国民の幸せを増大させる方向ではなく、その利権にぶら下がる人間の私益を増やすための構造を持っているという、その構造を壊すということが中心の主張だ。

この利権にぶら下がる一部の人間にとっては、山崎さんの主張は全く賛成できないものだろうが、そうでない大部分の大衆にとっては、これが理解できれば賛成する人が大部分になるだろう。道路行政が、一部の人間の私益のために利権の構造を持っているということは、道路改革を進めたときに多くの人がわかっていたと思うのだが、道路公団が「改革」されたときに、その構造が壊れたと勘違いしてしまった人が多いかもしれない。だが、山崎さんの指摘では、その利権構造はまだ温存されているという。

その象徴的な現れは、国際的に見て突出している道路支出の額だと山崎さんは指摘する。ヨーロッパの国よりも遥かに多く、国土が何十倍も広い、車社会のアメリカに近い額の金が道路につぎ込まれているという。日本の道路行政は、道路を国民のために造ることが目的ではなく、道路に関連している人間たちに金をばらまくために行われているという。全くの利権構造ができあがっているという。

日本の高速道路は、日本の復興期に建設が始まったので、当初は資金がなく借金で始められたという。借金で始められたために、それを返すために通行料の徴収が必要だったという。この当初の措置は正しかったと山崎さんは指摘する。しかし、高度経済成長が始まり、日本に車があふれるようになると、自動車にかけられた税収が飛躍的に伸び(山崎さんに寄れば高速道路建設当初の200億円が100倍の2兆円になったという)、もはや借金で作る必要がなくなっているのに、このあともずっと借金で作り続けるような構造を持っているという。これこそが利権の構造を生み出していると山崎さんは指摘する。

借金をし続けるためには、借金を返す財源を作らなければならないが、それが通行料金になるという。つまり、通行料金をゼロにするということは、借金をし続けるということが出来なくなることにつながるという。

この借金についても、山崎さんの指摘は多くの人が耳を傾けるべき重要なものがある。それは、今のような超低金利の時代だからその問題が劇的な形で出てくることがないが、少しでも金利が上がれば、その利子を返すだけで手一杯になり永遠に借金の返済が出来なくなるという。そうすれば、将来にわたる国民の負担はさらに重いものになるという。

また、この借金は新しい高速道路を造るために使われるそうだが、新しい高速道路というのは、料金収入が黒字になることが見込めるところは一つもないという。今の高速道路は、1キロ走るために25円必要になるという。100キロで2500円だ。高速道路を利用するのは、それが早く行けるというメリットがあるからだが、50キロ程度走るだけではそのメリットは少ない。やはり100キロ以上は走らないと、高速道路を使う意味がないだろう。時間短縮のために2500円をつぎ込むだけの余裕があるかどうか。今でさえ3分の2の高速道路はガラガラだという。誰も利用しないのだ。

今年の夏は沖縄に旅行をして、沖縄自動車道という高速道路を走ってみたが、道路はガラガラだった。米軍のトラックが目立つくらい自動車の数が少なかった。沖縄自動車道は、端から端まで走っても料金は1000円だった。つまり距離にして40キロ程度だったのだろう。40キロを高速で走るとどのくらい時間が短縮できるか。ほとんど意味がないように感じた。30分短縮するのもかなり飛ばさなければならないだろう。誰も利用しないわけだ。

ほとんど使う意味のない高速道路を使わずに、大部分の人は一般道を走ることになるが、そうすると一般道は混雑することになる。そこで今度は、一般道にバイパスを通したり、整備したりという必要が出てくる。世界一高い建設費のかかる高速道路を造っておいて、そこは誰も使わずに、一般道が混むのでまた道路に金をつぎ込むというのが、道路行政の利権構造にもなっているようだ。

山崎さんに寄れば、日本の高速道路というのは、利用させないために高い料金を取っているようなものだという。今すぐにでも、地方だけでも高速料金を無料にすれば、一般道の混雑は緩和され、緩和されることによって交差点の信号待ちや、渋滞のアイドリングによるCO2の排出も減るだろうという予想も出ている。

自民党がやった休日の1000円を上限とするETCのサービスについては、山崎さんは全く発想が違う政策だという。あれは、全くの損得勘定から出されたものに過ぎない。日本の道路行政の全体を見通して発想されたものではないのだ。休日にあのようなサービスをすれば、高速が渋滞するのは当たり前だが、あの政策はその人出を当て込んでいるので、むしろ渋滞することを想定しているのではないかとも思える。環境破壊に通じるような政策だ。

しかも、サービスをETCに限定することで、ETCに関係するところの利権がまた潤うという構造を持っている。つまり、自民党の政策は、利権を壊すどころか、利権を温存しさらに私服を肥やすために利用されるようなものになっている。

高速道路の無料化というのは、単に高速道路がただになれば得をするというような単純な話ではない。むしろ、日本の道路行政を健全な方向に向かわせるものであり、これを突破口として本当の意味での構造改革に進むきっかけともなるものである。自分に得かどうかというようなことを判断基準にするのではなく、日本の将来を見据えてそれに賛成するか反対するかを考えるべきものだろう。その視点が、マスコミの報道では全く語られていない。民主党には、この公約をぜひ実現してほしいものだと思う。この高速道路の無料化が実現すれば、民主党が掲げる他の改革もその実現が期待できるものになるだろう。高速道路の無料化の実現がなるかどうか期待して注目したい思う。

それにしても、マスコミの報道は論理レベルも低いが、倫理レベルも低いのではないかと感じるものが多い。民主党子育て支援としての子供手当の問題も、個人的な損得の面からのみ報道されている。子供がいれば得をするけれども、子供のいない家庭は損をするので反対だということを、子供のいない夫婦にいわせるような報道が続いている。

これなどは、日本の有権者は、個人的なエゴを判断基準の一番に置いているので、それこそが世論にとって一番大事だと主張しているようなものだ。日本人は、これほど民度が低く、エゴの固まりで損得でしか物事を判断しないのだ、と思われていいのだろうか。今度の選挙で民主党を選択したということは、今の自分の損得に民主党が応えてくれることを期待していたのではなく、将来の子供たち、あるいは老後の自分たちの生活が、今のままでは破綻が免れないと思ったからこそ、利権を温存する自民党では全く期待できないものを変えてほしいと思って民主党に投票したのではないだろうか。たとえ今は子供がいない人たちでも、将来は今の多くの子供たちが社会を支えて、その貢献によって幸せな老後が送れるかどうかが決まるのではないだろうか。そのために多少の負担をするのは、市民としての義務だろう。

もしエゴと損得で選ぶのなら、利権のおこぼれに預かれるように自民党にすり寄っていけばいいのだと思う。だが、もうおこぼれを配るほどの余裕も自民党にはないのだと思う。自民党にお灸を据えるために、民主支持ではないけれど、あえて民主党に投票したのだと、マスコミはそのような論調を提出しているが、そのような意識で投票している人が多かったとしたら、民主党の改革は失敗し、もっとひどい状況になって、利権の自民党が復活してしまうだろう。神保哲生氏が語るように、民主党を選んだということは、自分の損得勘定をお任せするのではなく、もっと広い視野で将来にわたって何を選択するかということを我々が選んだのだという意識を持つことが必要だろう。

民主党の力が足りなくて改革がうまくいかないこともあるだろう。利権に絡んでいる人間たちの抵抗はかなり強いものがあると思う。しかし、そのときにも、民主党がだめなら自民党があるさというような判断停止の状態ではなく、民主党が本来の改革の方向(全体性の把握による最適なシステム構築)を向いているなら、その失敗を成功の方向に向かせるべき協力していくことが目覚めた市民の選び取る方向ではないかと思う。その意味でも、高速道路の無料化の方向を強く支持して、何らかの協力をしたいものだと思う。


*追記
 自民党が、内部改革をして、たとえば河野太郎氏のような全体性を見つめることが出来る政治家が主流となるように再生するようなら、もちろん民主・自民両党で切磋琢磨して日本の政治レベルを上げてほしいものだと思う。だが、河野太郎氏が傍流として生き続けるなら、やはり自民党には期待できないと思うだけだろうと思う。

NHKの研究 その3

ここ数日間、どちらかというと積極的にNHKのニュースを見てみた。目についたニュースは、やはり裁判員制度に関するものだった。これは実際に大きなニュースであり、このことに時間を割き、詳しく報道すること自体は間違いではないと思う。しかしその報道の仕方には何か違和感を感じた。

裁判員制度については、マル激でその疑問点がかなり語られていた。手放しで賛成できるようなものではなかった。だから、報道では、評価すべき点と同時に批判すべき点が語られるべきではなかったかと思う。そうでなければ公正ではないのではないか。NHKのニュースでは批判が全く語られていなかった。それは公共性を欠くのではないかということを強く感じた。

NHKの報道では、今までの裁判に比べて、市民の目が随所に感じられたと報道されていた。しかもそれが肯定的に評価されていた。礼賛に近い感想を述べていた専門家もいた。しかし誰もが諸手を挙げて賛成するほどこの制度は「我々にとって」いいものなのだろうか。

土曜日のマル激では、このことについてNHKの報道とは全く違う視点からこのニュースの解説がなされていた。さすがにマル激という感じだった。宮台氏は、NHKの報道では礼賛に近い形で語られていた裁判に市民感覚を導入することの根本的な問題を指摘していた。それが本当にいいものかどうかは、かなりの深い議論が必要になる。市民感覚が導入されたからといって、それだけでいいものになるわけではない。この視点がNHKの報道からは全く抜けていたのは、それがジャーナリズムではなく、裁判員制度を推し進めようとする統治権力の宣伝にしか過ぎないのではないかという感じを抱かせた。

マル激で指摘されていた問題に、傍聴席に普通の人が入れないというものがあった。これなどは、メディア自体が不当なことをしているので、NHKでなくてもメディアでは報道されないような視点だろう。この裁判は大きな注目を集めていたが、その傍聴券を求めるために、メディアから委託された、傍聴券を取るためだけに並ぶ人間が何人もいたという問題だ。マル激では、傍聴券をもらった本人でなければ入れない、というような規制をすることでこのような不当なやり方は防げるのではないかと指摘していた。

またNHKのニュースでもそうだったが、この裁判そのものの内容を客観的に報道したものが民放のテレビなどでも見あたらなかった。落ち度のない被害者に対して、非常に残酷な殺し方をした被告というようなイメージがその報道からは感じられた。裁判員の質問において、凶器が被告の娘の遺品だったことが問題にされていたことが報じられた。これなども、そのような大事なものを使って犯罪に走るという、被告がいかにもひどい人間だというイメージを与えられる。また犯行の際にあまりためらいの感情が働いていないように見えるような被告の様子が報じられると、そこには情状酌量の余地がないように感じられてしまう。しかしそれは本当に客観的な報道だったのだろうか。

マル激では、このトラブルが突発的なものではなく長く続いていたもので、また被告が70代の孤独な一人暮らしであったことなどが具体的に語られていた。それまでのトラブルでは、殺意を抱くというところまで行かなかったのに、なぜこのときはそのような状況になったのか、何か特別な状況はなかったのか、ということがそのような具体的な状況の説明からは想像できる。犯行そのものはひどいものであり罰されなければならないものだとは思うが、その犯行に至る過程というものはもっと語られてもよかったのではないかと思う。

マル激のように、被告に同情するような情報を与えろということではない。それが全くないということが公共性を欠いたものではないかということだ。被告がひどいことをしたという報道はたくさんあるのに、被告の方に同情したくなるような報道は全くないというのは、公平とは言えないのではないか。両方の情報を出すことが公共性ではないのだろうか。

裁判員制度の報道において、それに疑問を提出するような報道が全くなかったのは、ある種の政治的偏向ではないだろうか。裁判員制度を推進したい人間にとっては、それがいかに優れた面を持っているかという面だけを報道してくれれば、これは大変ありがたい宣伝ではないかと思う。その宣伝としての意味しかない報道ではなかったかというのが、NHKのニュースを見ての感想だった。NHKはやはりまだ公共性を獲得していないのだなと感じた。

本多さんが『NHK受信料拒否の論理』で書いた政治的偏向は次のようなものだった。


「だが、戦後のNHKは、自らの戦争責任の反省を、どれだけしてきたか。具体的な形で、何をしたのだろうか。ちょっと思い出してみるだけでも、「反省」どころか、まさにそれこそ正反対のことをし続けてきたことは、衆目の認めざるを得ないところであろう。日本軍国主義の最大の犠牲者は朝鮮と中国だろうが、その中国が戦後まもなく革命によって政権交代したとき、全マスコミの中で、NHKは最後までこれを「中共」と呼び続け、正式の国名(または略称としての「中国」)を使わなかった。そしてNHKテレビは、毎晩放送が終わるたびに、中国人などから見れば侵略の象徴としての血塗られた日の丸をはためかせ、それだけならまだしも、同時に天皇をたたえる歌『君が代』を演奏し続けている。この歌は、中国・朝鮮はもちろん、アジア人から見れば『虐殺の歌』として響くのだ。侵略と虐殺の頂点にいた天皇。それをたたえる歌を連日流しているNHK。これは戦後の自民党内閣が佐藤政権まで一貫してとり続けてきた中国敵視政策と、何ら変わるところはない。従ってまた、自民党が田中内閣になったとたん、それまでの自民党の政策に何の反省もなく、いい加減な姿勢で平然と中国へ出かける神経と、いまNHKが中国に出ようとしている神経とも、ぴったり符合する。」


NHKがこのように時の統治権力の意向に従って報道する姿勢というのは、現在の裁判員制度の報道においても、本多さんが書いた時代とそれほどの違いがなく続いているのではないかという感じがする。

この日の丸と君が代については、まだやっているのかどうか確かめようと思い、昨日の3チャンネルの番組終了の時間にちょっと見てみたのだが、やはり今でも日の丸と君が代は放映されていた。

NHKはその予算編成などで国会の承認を経なければならないということがあり、国会の多数を占める与党(時の統治権力)の支配を受けるということは、ある意味では論理的必然性を持っている。政治的偏向をするのが当然で、偏向していないとすればよほどの努力がされているのだと考えた方がいいだろう。だから、今のNHKの政治的偏向に対する批判は、それが偏向しているという結果をとらえるのではなく、偏向を食い止めるために、どれだけの努力をしているのか、あるいは努力をしていないのかという点をこそ見て批判する必要があるだろう。ニュース(報道)に関する面では、そのような努力はほとんど見えてこない。ドキュメンタリーに関しては、そこによい作品があることは確かなので、そこにおそらく何らかの努力がなされてきた歴史があるのではないかと思う。

8月30日には総選挙という政治的に大きなものがある。この報道においてNHKが政治的偏向を示すような報道がないかどうか注意して見ていくことにしようと思う。

NHKの研究 その2

前回のエントリーで、受信料を払っていないのでNHKを見ないようにしていると書いたのだが、よく考えてみるとそれはちょっと間違えたかなという気がしている。受信料を拒否している人には、「見ないから払わない」という人が多いようだ。これはそれなりに論理的な筋は通っていると思う。NHKが配信している放送を、一種の商品だと解釈すれば、見ないものに(つまり使わないものに)金を払うという論理的必然性はない。

「見ないから払わない」ということに論理的な違和感はないのだが、そうではなく、抗議の意思の表明としてまず「払わない」ということが先行した場合、その結果として「見ない」ということは条件によっては間違えることになるのではないかという感じがしてきた。僕は、受信料というものを単に商品の値段のような経済的なものとしてとらえていない。NHKが真の公共性を持つものなら、その公共性を保つための支援の表明としての「市民」の義務のようなものととらえている。公共性があるのなら当然払うべきものだと思っている。その公共性に疑問があるからこそ「払わない」ということで抗議の意思を示している。

それでは、その公共性が現在はどうなっているかという判断をどこでしたらいいだろうか。NHKの放送を全く見ないで、その判断が出来るだろうか。娯楽番組を見る必要はないが、少なくとも報道の傾向を見るために定期的にニュースを見る必要があるのではないかという気がしてきた。

NHKは、その存在の条件(予算を国会が決定するという)から、時の統治権力の意向を強く反映するという政治的な偏向があるということは以前から指摘されている。実際に、番組の内容に問題がないかを、放送する前に自民党の政治家に伺いに行くということもあった。これは著しく公共性に反することだが、それはニュースの内容を知らなければ判断できない。

小沢氏の秘書が逮捕されたときも、NHKはそれをことさら重大な犯罪を犯したように報道したとマル劇でも神保・宮台両氏が批判していた。もし小沢氏がその報道にあるように批判されるなら、自民党の政治家も同じ扱いをしなければ公平ではない。この報道に関しては公共性を欠くようなものが随所に見られたという。それは、僕は直接は見ていない。NHKを見ないようにしていたからだ。

だが、今後は公共性の判断のために、ニュースはむしろ積極的に見るべきではないかという気がしている。ドキュメンタリーに関しても、「プロジェクトX」のようなものには、企業宣伝とどこが違うかという疑問も感じる(やらせもかなり多かったようだし)が、かなりいいものがあるのは確かなので、これも公共性の反映としていいものは見る必要があるのではないかと感じている。ただ、僕の父が批判していたが、いいドキュメンタリーがあっても、見やすい時間帯ではなく夜中にやられたりするので問題だと指摘していた。この番組の配信時間の編成は公共性という観点から問題ではないのかと僕も感じる。戦争体験を伝えるドキュメンタリーが夜中にやられていたのを父は怒っていた。それはもっと多くの人に見られるべきだと考えていたからだ。

ゴールデンタイムにそもそも娯楽番組を放映し、しかもそれに大金をかける必然性というものが公共放送にあるということにも疑問を感じる。だから、娯楽番組はその内容を見る必要は全く感じないが、その放映の時間帯と制作費のかけ方には関心がある。それが得られる情報を探したいものだ。テレビの草創期には、国民へのサービスとしての娯楽番組の放映も試験的には意味があっただろうが、現在の状況では、視聴率を稼ぐ必要のない公共放送のNHKには娯楽番組は必要ないと僕は思う。すべてやめてほしいくらいだ。意義があるとしたら、視聴率が稼げないために民放では決して放映されないような娯楽(芸術)作品が放映されることだろう。少なくとも視聴率の点で民放と争うような娯楽番組は全く必要がない。

さて、本多さんの『NHK受信料拒否の論理』を改めて読み返してみると、これが30年以上も前の状況を語っているのに、今でも全く変わっていないのではないかと思われる問題点があるのを感じる。朝日文庫版の37ページには「あなたの払った受信料は、かく浪費される」という表題で、お金の使われ方について書かれている。受信料に関わる公共性においては、それがどのように使われているかということは非常に重要な問題だろう。それが「浪費されている」としたら、そこには公共性への大いなる疑問が生じる。

本多さんは「一般の新聞社や民放の最前線の取材記者なら誰でも知っていることだが、何か事件があったとき、その現場に投ずるNHKの人件費や機材費などは、他の社と比べてケタ違いに多い。ほとんど「湯水のごとく」に金をかける」と書いている。この報道が、本来の重要なものに金をかけているのなら問題はないが、当時のものではたとえば「札幌のプレ・オリンピック」というような「国民の運命とは本質的にあまり関係のない種類の報道」にこそ大金が投じられているという。

このNHKの体質が、さらに次のような金の使い方を知らされると公共性に対する疑問はますます大きくなる。


「これはサイゴン(現在はホーチミンと言うようだが、本書が書かれたときの表現のままにしておく)に限らず、NHKの海外支局のあるところは皆そうらしいが、たとえば支局長が交替する。旧支局長が新支局長を連れて、取材先に挨拶回りをしたり、サイゴンの各報道記者たちに紹介するていどが、まず一般新聞の支局の場合だ。ところがNHKは、このとき大金をかけて「おひろめパーティー」を開く。サイゴンならコンチネンタルという第一流のホテルの大ホールを借り切って、プレス関係はもちろん、主な国の大使館関係者やサイゴンの政府の要人たちを招待する。あれがどのくらいかかるものなのか、この種の大パーティーを主催したことのないものには見当がつかないが、サイゴンにいる日本人記者はあまり出席しない。招待状が来てもやはり決して出席しなかった朝日の奥尾幸一記者の表現を借りれば、その気持ちの半分は「ああいう豪勢なことをやれるカネモチNHKへのひがみ」から、他の半分は「報道機関にあるまじき不潔な行為への反感」から、顔を出したがらないようだ。」


これは30年も前のことなので、今でもそれが続いているかどうかはわからない。もしかしたら今ではもうこんなことは出来なくなっているのかもしれない。しかし、それを調べようとしても調べる手立てが一般市民にはどこにもない。

このような「おひろめパーティー」が私費で出来るはずはないので、何らかの公費(受信料として集められた金)が使われているはずだ。そうであれば、それはどこかの会計記録に表れていなければならない。だから、この種のことが今でも行われているかは、NHKがどのようにしてお金を使っているかの具体的な消費の内訳が明らかにされることによって我々は知ることが出来る。そこで、いろいろとインターネットを検索して調べてみたのだが、総収入と総支出の額はわかるものの、具体的にどこにどれだけの金が使われているかは知りようがなかった。それが知り得ないと言うことに、公共性という点で問題はないだろうか。

もしかしたら、知っている人は知っているのかもしれない。どこかにあるのだが僕がさがし切れていないだけなのかもしれない。しかしそれでも問題はある。それは、このように重要な情報は、調べたいと思ったときに簡単に手に入るように提供されていることが公共性ではないかと思うからだ。NHKが必要なところに適切に金を使っていると胸を張って言えるのなら、すべてを明らかにしてもいいのではないかと思うし、それこそが公共性だと思う。

本多さんの本では政治的偏向の問題も指摘されている。これも30年前と今の状況に果たして変わりがあるのか、それとも未だにそれは続いているのか。いや、むしろもっとひどくなっているという状況にあるかもしれない。お金の問題と政治的偏向の問題は、公共性の表れの中でも、もっとも顕著にそれが表れてくる問題かもしれない。本多さんの指摘を考えつつ、現在がどうなっているのかという情報が得られるようなものを求めていきたいと思う。