「反証可能性」について


sivad氏の「証明問題とニセ科学 」というエントリーに語られている「反証可能性」という言葉の理解の間違いを批判しよう。この間違いによって、彼がいかに科学と論理について本質的な理解をしていないかが分かる。彼は、このエントリーで次のように語っている。

「ここで用いられているのは、まず与えられた命題を自明に真とし、そこにつながりそうな根拠?をかき集める・でっち上げるやり方です*3。自然科学にしろ社会科学にしろ、「科学」と名の付くフィールドではこれは最悪のやり方で、いわゆるニセ科学・トンデモ系の論者にしばしば見られるものです*4。科学においては、ある仮説が与えられた場合その「反証可能性」を検討し、その命題を反証できるような実験や調査を行います。その結果反証されなければ、その命題は一つ上の「確からしさ」を得るのです。ニセ科学論者の場合、これを「最初から間違いだと決め付ける行為」だとよくいいますが、khideakiさんの反応にも類似点があります。」

まずは、この文章を正確に解釈する。彼は、この文章の冒頭で、次のような方法の批判をしている。

  与えられた命題を証明なしに真だと思い込む。
    ↓
  真だということを示すために、命題が真になるような根拠を探す。
    ↓
  真であると解釈出来る対象だけを示すことによって、命題が真であることを主張する。

この方法が論理的に間違っているのは、これを科学の証明に使おうとするからだ。彼も、その後の文章で、この方法が「いわゆるニセ科学・トンデモ系の論者にしばしば見られるものです」と語っている。

科学というのは、本質的に重要な性質は、「任意」の対象に対してその法則が成り立つという主張だ。対象の「任意性」こそが科学を科学たらしめている本質なのだ。だから、特別の対象に対して真であると確認したからと言って、それが「任意」の対象に対しても真だと言えないところに論理的な間違いがあるわけだ。

なお蛇足ながら付け加えておけば、特別な命題について真であることを証明することは、いつでも無駄なことになるわけではない。科学的な真理の証明には役立たないが、例えば裁判における特定の事実の証明であれば、特別な対象に対する命題が真であることを証明することは大きな意義のあることだ。問題は、それを証明して、個別の証明の積み重ねで科学が成立すると主張するところにある。

彼の語る文脈は、このように「科学」の真理性に関わって提出されている。従って「反証可能性」という言葉も、「科学」の真理性に関わって考察されているという前提で読まなければならない。彼は、「一つ上の「確からしさ」を得る」方法として「反証可能性」を捉えている。

「ある仮説が与えられた場合その「反証可能性」を検討し、その命題を反証できるような実験や調査を行います」と語っている。これは、ある主張が「科学」的真理であるかどうかは、それを反証するような可能性のある事柄を見つけ出して、反証するような実験を行って、その結果を見ることによって判断するのだと主張しているのだ。「その結果反証されなければ、その命題は一つ上の「確からしさ」を得るのです」と語っていることからそれがうかがえる。

つまり、それが「科学」であるかどうか、つまり真理であるかどうかは、反証可能性を一つずつ潰していって、それがつぶれていくことによって、だんだんと真理性が高まっていくのだと考えているのだ。しかし、このような思考では、いつまでたっても「任意性」に達することはないので、永久に「科学」つまり真理にはならない。これは、形を変えれば、「科学」はすべて「仮説」にとどまると主張しているのと同じことになる。

これは「科学」に対する無理解であると同時に、「反証可能性」と言うことに対する無理解の現れだと思う。以下にそれを説明しよう。彼はご丁寧にも「反証不可能性」にウィキペディアのリンクを張っているので、そこから「反証可能性」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E8%A8%BC%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7)と言うことの説明に飛んでみよう。そこには、次のように書かれている。

反証可能性(はんしょうかのうせい)とは、ある仮説が間違いかどうかを実験・観察の結果によって証明できる方法があることである。」

この文章を論理的に理解出来るのであれば、「反証可能性」というのは、ある命題が「科学」という真理であるかどうかを判断することとはまったく関係がないということが分かるだろう。それは、「仮説が間違いかどうか」に関係しているのだ。もし、仮説が間違いだと証明されたら、その仮説は単に科学ではないという判断がされるだけだ。科学であるという判断は、「反証可能性」という言葉をいくら見つめていてもでてこないのだ。

反証可能性」を見つけて、その実験を積み重ねていけば、その命題がだんだんと確からしくなるなどと言うことは、気分的にはそう思えるかも知れないが、論理的にはそうでない場合はいくらでも可能性を考えることが出来る。末梢的な部分を徘徊するような反証実験を繰り返せばいいだけのことだからだ。

例えば天動説というものに対して、観測上の実験がその反証になったと言われている。しかし、その計算のずれを修正して、新たな天動説を提唱すれば、その反証に対しては対処出来る理論が出来上がる。理論は、常に修正を加えていけば、新しい反証に対処した解釈が出来る。そうすれば、その新しい解釈によって出来た理論は、それまでのすべての反証に対処出来るのだから、だんだんと真理に近づいていっているのだろうか。

天動説は、実際には、修正すればするほど計算の狂いが生まれて、観測結果の差の修正に追われることになる。これは、計算の修正という末梢的な部分での反証だけに目を奪われているとこのような結果になる。もっと本質的な、地球と太陽の質量の関係に関わる反証可能性を考えれば、天動説の決定的な間違いも見出されることになるだろうが、末梢的な部分での反証だけでは理論は少しも真理に近づいていかないのだ。

反証可能性」は「仮説」が真理であると言うことの確信は与えてくれない。むしろ、「反証可能性」がないと思われるものは、「科学」として証明することも出来ないという結論を与えてくれるのだ。しかし「反証可能性」がないという判断は、これはとても難しい判断だ。なぜなら、現実の多様性を考えれば、「反証可能性」がないというのは、ある種の無限の可能性がないことを言わなければならないからだ。

だから、「反証可能性」がないという判断は、確固たる論理的判断ではなく、ある種の解釈による判断になるだろう。ウィキペディアの例(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%91%E4%BC%BC%E7%A7%91%E5%AD%A6)では、

「例えば降霊会を開いて霊を呼び出す実験が失敗したとする。科学の方法に於いてはこの失敗によって、少なくとも今回用いた方法(条件)によって霊を呼び出せるという仮説が否定されたと考える。ところが、一部の心霊学者はこれを「霊の実在を疑う者がいたための失敗」等と考える。このような主張(考え方)を認めると、いかなる事実が示されようとも此の方法で霊を呼び出せるという仮説を否定することはできない。即ち、反証不可能なのである。」

と語っている。これは、「反証可能性」がない、すなわち「反証不可能性」を語っているのではなく、「反証」の結果得られた結論を、解釈によってどうにでも変えられると言うことを語っているに過ぎないように僕は思う。つまり、結果を解釈するだけの理論は、科学とは呼べないよということをいっているだけだ。

科学は、結果を解釈するのではなく、未知なる結果を正しく予測出来なければ科学と呼ばれる資格はない。結果を解釈するだけの理論に対して、それでは「反証」をしても仕方がないという意味で「反証不可能性」を語っているだけだ。論理的な意味での「可能性」がないことを言っているのではない。

反証可能性」という言葉で語られているのは、解釈するだけの理論は科学ではない、と言う科学者の素朴な直感を難しい言葉で言い換えただけのことなのである。それでは、理論が「科学」になる、すなわち真理になるという判断はどこで出来るのか。それは、理論の考察の対象に「任意性」があることが証明されたときに、その理論は「科学」としての資格、つまり真理であると判断されることになるのだ。

この「任意性」に関しては、板倉さんは「未知の事実を正しく予測する」と言うことによって担保する考えを提出している。僕はこれに賛成だ。未知の事実というのは、自分で都合良く選ぶことが出来ない。理論が正しくなる範囲のものを恣意的に選ぶことが出来ないのだ。だから、これに「任意性」を認めるというのは現実的な判断になると思う。

このような「任意性」(未知なる事実)によって確かめられた「科学」は、それの反証になるような事実が発見されたときは、その「科学」そのものが否定されるのではなく、「任意性」の方が修正される。つまり、その法則の限界が具体的に定められたと受け止めるのだ。その限界の中では、なお「任意性」が保たれるとするのが正しい「科学」の受け止め方だ。

エンゲルスも、『反デューリング論』の中でボイルの法則に関して、気体が液化する限界において、その法則が成り立たなくなることを語っているが、それによって「ボイルの法則」そのものが捨てられはしないと言っている。それは、そのことによって「ボイルの法則」が正しくなる条件が正確に求められたのだと、「科学」理論に一定の修正を求めているだけだ。それが「科学」であることを否定してはいない。

「科学」は「任意性」を考察出来なければ正しく受け止めることは出来ないだろう。「反証可能性」が科学の本質だと思っているようでは、そのことは分からないだろう。また彼は、「反証可能性」を語ることが、「ニセ科学論者の場合、これを「最初から間違いだと決め付ける行為」だとよくいいますが」と語っている。この部分は、文法的に理解するにはちょっと曖昧な表現なのだが、「これ」は「反証可能性」を指しているものと思われる。

つまり、「反証可能性」を語ったときに、それを「「最初から間違いだと決め付ける行為」だ」と言えば、それを言う人間は「ニセ科学者」だと彼は語っているのだと、この文章を解釈出来る。僕が、そういう行為をしたと彼は言いたいらしいのだが、彼が間違っていることは論理的に分析出来るのであって、彼が「反証可能性」を語っているかどうかとはまったく関係がない。

彼は、科学者というものが、反証的な実験なしに間違いが判断出来ると言うことが理解出来ないのかも知れない。例えば、霊魂の存在を主張するような理論があったとき、まともな科学者であれば、その理論を証明するような実験は一切信用しない。それを科学であるとは認めないのだ。その実験は「任意性」を証明することが出来ないからだ。

特殊な一個人に霊魂が存在すると解釈しても、そう解釈するのは科学は何ら考察の対象にはしない。科学はそんなことには関心を持たないのだ。それが、普遍的にどの人間にも存在すると証明されるかどうかにしか関心はない。もし、そのような「任意性」を証明するような実験が存在すれば、霊魂は科学の対象になるだろう。しかし、それはあり得ないと科学者は考えている。霊魂は、解釈によって常に変わりうる概念でしかないからだ。科学はそういうものは対象にしない。