親族の構造が群構造として抽象される過程

楽天のブログに次のようなエントリーをアップした。


「レヴィ・ストロースの「親族の基本構造」における群構造の理解」「クラインの四元群と親族の構造」(ライブドアブログ)、「レヴィ・ストロースの「親族の基本構造」における群構造の理解」「クラインの四元群と親族の構造」はてなダイアリー)というエントリーで、親族の構造に関する婚姻規則についての数学的な考察を行った。ここでは数学的な群の説明に言葉を尽くし、議論の展開がきわめて数学的になった。群についてよく知らない人には分かりにくかったものと思う。

そこで説明したものを、数学的な言葉を使わずに、ある意味では文学的にそのエッセンスを感じられるような説明を考えてみたいと思う。数学的な概念を数式を使わずに正確に伝えることは出来ないが、そのイメージの本質というものが伝えられるように努力したいと思う。

レヴィ・ストロースが婚姻の規則の中に群の構造を見出したのは、そこに群が抽象されていく過程と同じものを見ていたのではないかという気がしている。だからそのイメージのエッセンスは、具体的な現象として目の前に現れている婚姻の習慣というものが、珍しい・面白いと思われる現実の様々な属性をはぎ落とされて、それが抽象的な考察の対象になるところに見えてくるのではないかと思われる。その抽象の過程が群の抽象過程と重なるところに、婚姻規則が群としての構造を持っているという発見につながるのではないだろうか。

さて、群というのは計算規則を抽象して求められた概念になっている。我々は足し算やかけ算の計算をする。これは具体的な計算においては全く違う計算として我々は経験している。「2+3」と「2×3」は、計算においては全く違うものだ。しかしこれは群においては同じものとして見なされる。違いが捨象され同一性が抽象されてくる。群というのは、具体的な計算の方法を見るのではなく、計算が持っているもっと基本的な性質の方に注目する。だから足し算やかけ算が具体的に持っている他の面が捨象される。

抽象というのは、このように注目する部分を引き出して、無視する部分を捨てることによって行われる。そうすると、そもそも数字そのものが一つの抽象を経て得られた対象であることが分かる。3という数字をそのままベタに体現する具体物はどこにもない。3という数字は、数えられる物が3つあったとき、その物とともにそこに見られる、認識の対象として我々に対して存在するだけだ。その3は現実には、具体物である、例えば家が3つだったり、車が3つだったりするだけだ。そのような具体物がない3だけが存在するのは、抽象的世界に踏み込んだ数学の中だけである。

現実から抽象された数学世界で、この数の計算を考えるという具体的な操作をしたとき、この抽象の中の具体がさらに抽象されて群という対象が求められる。つまり群というのは、抽象の抽象というメタレベルの高度の抽象を経て得られる対象となる。ここに群の理解の難しさがあると僕は思う。

数を抽象するときに、抽象が徹底せずに具体性を引きずっていると、抽象の結果として展開される計算が曖昧なものになってしまう。以前に羽仁進さんのエピソードとして、馬が1頭ずつ他の方向から来たときに、「1+1」という計算が、具体性を捨象できずに答えられなくなってしまうことを紹介した。馬の特性として、気が合わない相手とは一緒にいられないので、1頭はどこかへ行ってしまうかもしれないし、2頭ともどこかへ行ってしまうかもしれない。そうすると「1+1」の可能性は、0かもしれないし、1かもしれないし、2かもしれないということになって答えられなくなる。

数の計算という演算の性質を見るときも、個々の計算(足し算やかけ算)の具体的な属性が捨象できないと、群としての抽象的性質が分からなくなるかもしれない。個々の計算の個性を取り去って残る、群としての抽象的な性質というのは次のようなところに注目することになる。


・計算というのは、2つの数に対して、ある規則に従って一つの数を対応させる「変換」として捉える。

・この「変換」には、組み合わされるもう一つの数を変化させないもの(足し算では0,かけ算では1)がある。「恒等変換」というものがある。

・同じ「変換」を連続して行うときは、その順番によらずに結果が同じになる(足し算もかけ算も、どこから計算してもいいということ)。これは「結合律」と呼ばれる性質になる。

・ある「変換」を元に戻す「変換」がある。つまり、連続して行うと「恒等変換」である0や1になる数がある。足し算における「aと−a」、かけ算における「aと1/a」などがそれにあたり「逆元」と呼ばれる。


以上の性質は、個々の計算がどのようにされるかという個性に関係なく、具体性が捨象された抽象的な性質となっている。このようなものに注目して、このような性質を持った構造がどのような法則性を持っているかを考察することが数学における群の考察になる。

さて、このような抽象の過程をレヴィ・ストロースが語る婚姻規則の場合にも当てはめてみてみると、そこに群の構造が見えてくる。レヴィ・ストロースはカリエラ族の婚姻の規則を、その部族の人間が所属する4つのセクションA,B,C,Dとの関係から観察できるものとして記述している。この4つのセクションは、結婚できる相手を特定する規則と結びついていて、下のような規則になっている。

   夫(男) 妻(女)  子
    A    B    D
    B    A    C
    C    D    B
    D    C    A

ここで右に、生まれた子供のセクションも記述しておいた。これは、このセクションの分け方が厳格に決まっているという現象を示している。現象として現れるのはこのような具体性である。この具体性に引きずられていると、ここに群の構造を見出すことは難しい。なぜなら、これらは具体物(個々の人間)の属性であって「変換」ではないからだ。群の構造は「変換」にこそ見なければならないというのは、群の抽象の過程が語っている。

この婚姻規則に「変換」を見つけるために、婚姻のタイプというものを考える。それは次のM1〜M4で表されるようなものだ。

        夫   妻   息子   娘
   M1   A   B    D   D
   M2   B   A    C   C
   M3   C   D    B   B
   M4   D   C    A   A

ここでは、子供のセクションを息子と娘の両方を書いておいた。婚姻においては夫になるか妻になるかということが重要になってくるからだ。この婚姻のタイプもまだ「変換」ではないから群の構造をなすわけではない。しかし、ここに一つの変換を見ることが出来る。

婚姻のタイプは、セクションがAとBであれば、それは男女がどちらに所属していても婚姻の相手として許される。だが相手がCとDであればそれは婚姻の相手としては選べない。そこで親と子のセクションをよく見てみると、それは婚姻が許されないセクションとして対立するセクションになるように決められている。A,Bのペアの親からはCあるいはDの子供が生まれてくる。C,Dのペアの親からはAあるいはBの子供が生まれてくる。

親子によって夫婦のセクションのペアが入れ替わる。ということは、孫の世代になると再び同じセクションのペアになるわけだ。親と子は、婚姻のタイプが変わる。しかし2世代後になると再び同じものに戻る。ここに婚姻のタイプの「変換」というものが、婚姻という行為が同じ変換だと見なすと、それを2回繰り返すことによって元に戻るということがわかる。これは「恒等変換」の存在を示唆する。

同じ「変換」を2回繰り返すと、それが「恒等変換」になるということは、その「変換」が自身で「逆元」にもなっていることを表す。クラインの4元群というのはそのような構造を持った群になっている。

数学的表現を使うと、交叉イトコ婚という規則(息子は母親の兄弟の娘と、娘は父親の姉妹の息子との婚姻をするという規則)も群の構造から導かれる。習慣として観察される多くのことが、実は群の構造から必然的に導かれるものとして発見できる。この必然性は、その習慣が存在する理由として捉えることが出来るだろう。その構造があるからこそそれが行われているのだとする考えだ。

そこに構造があるということは、それが固定的で変化せず、その構造が厳格に守られるということを意味する。ある意味では、そこでは人間の行動は形式システムと変わりがないということになるだろう。決められた規則通りに行動し、決して例外的なことはしない。

宮台氏の文章には、古代の人々は、誰もが同じ感覚を持ち、同じ考えを抱いていたというような記述があった。そのような社会では、例外的なことを希望する個性ある人間は出てこないだろう。つまり、構造は厳格に守られて行くに違いない。構造の発見は、現代社会のような混沌とした対象よりも見つけやすいだろう。構造主義レヴィ・ストロースから始まったというのもそのような必然性を持っていたように感じる。

群の構造は変換の中にこそ発見できるという抽象の過程がある。だから、社会の現象の中に「変換」という解釈が出来るものが見つかれば、そこに群構造の発見が出来る可能性があるだろう。また、クラインの四元群は、同じことを繰り返すと元に戻るという「変換」の性質と結びついている。同じことを繰り返すと元に戻るような現象というのは、実は我々の周りにいくつかあるのではないだろうか。そうするとそのような現象の背後には、クラインの4元群の構造が見出せるかもしれない。

群の構造が抽象できた対象には、群の持つ必然性が見えてくる。この必然性が、なぜそのような現象が起こるかという「なぜ」の解明に役立つのではないかとも感じる。このことを次は考えてみたい。近親婚の禁止というタブーはなぜ存在するのか。それは長い間生物学的な問題とされていたが、実は群構造からの必然性で説明できるのではないか。レヴィ・ストロースは、それは女の交換の「ため」にあるという。その意味は本当はどういうものなのか。また、父子と叔父甥の間にある親密さと疎遠さの関係も、それがなぜあるのかという説明が、群構造から行えるのか。これに関しては、内田樹さんの『こんな日本で良かったね』という本にも関連した記述が見られる。これと合わせて考えてみたいと思う。