コミュニケーションについて

僕が定期的に購読しているblogに「カフェ・ヒラカワ店主軽薄」というものがある。ここで「不可視のコミュニケーション。」というエントリーを読んだ。とてもおもしろいものだと思った。特に、コミュニケーションというものに対する視点がすばらしいと思った。

ここでヒラカワさんは、

「Communicationはビジネスにおいても、日常の生活においても頻繁に用いられる言葉だが、実はコミュニケーションに相当する適当な日本語というものがない。

勿論、「伝達」といった訳語はあるが、それは一方の情報が他方に伝えられるいうただCommunicationの機能を表すに過ぎない。Communicationの要諦は、一対一、一対他の間に共有する何ものかが生まれ出るということであり、「伝達」では、その「生まれ出る」というイベントそのものをうまく捕捉できない。」

と語っている。コミュニケーションというのは、単に伝達することでもなく、伝達されたものを受け取るものでもなく、それが対となって総合されていなければコミュニケーションとは呼べないのではないかという指摘だ。

この言葉を読んで、学校教育などで語られている「コミュニケーション能力を育てる」という目標のことなどを考えてみた。この能力は、具体的には「伝達能力」であり、「読解能力」としてとらえられていることが多いのではないだろうか。

しかし、それが片方だけの概念としてとらえられていると、ヒラカワさんが指摘するような双方向性が見失われてしまうのではないかと思う。そして、この双方向性こそが、本来の意味でのコミュニケーション能力に関わるものではないかという直感が僕にはある。

コミュニケーションは、相手との対応によって、相手の伝達や受け取りに応じて臨機応変に変わっていくようなものになるだろう。それは、そのコミュニケーションが行われる場がどのようなものであるかによって大きく左右されるのではないかと思う。

僕は50代のおじさんだが、その僕が女子高生のコミュニケーションの場に入っていっても、全くコミュニケーション能力を発揮できないだろう。そこでの関心がどこにあるのか、そこでの常識的判断がどのようなものなのかの知識が全くないからだ。逆に言えば、社会生活を長くしてきた人間の場に、高校生くらいの年で入っていこうとすると、そこでのコミュニケーション能力はまだ育っていないのが普通だろう。

コミュニケーションは、相手の反応、それが行われる場などが関わって複雑に展開される。だから、それを一律に育てるなどと言うことは出来ない。よく考えるとかなり難しい概念だと言うことがわかる。

また、相手に迎合的に言葉を駆使する能力も本来のコミュニケーション能力にはならないだろう。その場にふさわしい言葉遣いを使いなさいという指導も、それが何故に正しいのかという理解を欠いて、教えられたからそうすると言うことになれば、それは他者に対して迎合的になることを勧めることになってしまうだろう。

ヒラカワさんは、日本人的な感覚からコミュニケーションを捉えれば次のようになるのではないかと指摘している。

トークイベントはこういった地点から開始され、ラグビーにおける身体と身体の触れ合いの中で一瞬にしてお互いの全てが了解されるという増保身体論、師匠と弟子との間では何も教えず、何も聞かず、弟子はただ師匠を見、師匠は弟子にその存在を示すということのなかで暗黙のうちに以心伝心の交感が行われるという柳家小ゑん師弟論、言葉は書き付けた瞬間に別のものを伝えるという言語伝達の不能の中に、言語の可能性も存在しているという小池言語論、上司の思いは、それが言葉として部下に伝わるプロセスで必然的に減衰するという古田減衰論が語られた。

このCommunicationのプロフェッショナルたちの言葉から浮かんでくる日本語は、儀であり、礼であり、惻隠であり、阿吽の呼吸といったものだろう。そのような言葉でしか語りえない交感というものが確かに存在していたし、今もそれは存在している。」

これはたいへん頷ける指摘だ。このような、説明の難しい他者との関わりの中にこそ、コミュニケーションの本質が見えるのではないかと僕も思う。

宮台真司氏は、コミュニケーションを「行為の連鎖」としてとらえるという社会学的な視点をどこかで語っていたが、この行為の連鎖という集合が、体験的に獲得され、その合理性を理解したときに、我々は本当の意味での「コミュニケーション能力」を身につけたと言えるのではないだろうか。

ヒラカワさんの最後の指摘である

「Communicationを機能であると捉えれば、おそらくはいかにして円滑なコミュニケーションは可能かといった説得のノウハウ論に行き着く平凡な会話にならざるを得ない。それではつまらない。それは素人が素人に語る自慢話にしかならない。そして、それではCommunicationをただ自己表現の手段、訓致と恫喝といった相手を制御する方法論へとミスリードしてしまう。」

という点も、コミュニケーションを考える上での重要な視点として受け止められる。コミュニケーションは、あくまでも双方向性を持っているもので、一方的に相手に働きかけて、相手をうまく動かすことが出来る能力を指すのではないと言うことだ。