「抽象的すぎる」ということ


僕は、宮台真司氏のブログを読むのも趣味の一つなのだが、今日は久しぶりに「社会学入門講座」を読み返してみた。その「第一回「「社会」とは何か」」の中には「この問いは、経済学の営みが前提とする「市場とは何か」という問題に比べれば抽象的すぎ、私たちが日常用語の範囲で答えることは不可能でしょう」という言葉がある。

これは、「社会」という言葉の意味するところが抽象的すぎて、日常用語の範囲では説明できないということだ。日常用語は具体的な事柄を説明することは出来るが、抽象的な概念を説明するにはどうしても専門用語がいるということだ。

この部分の宮台氏の主張は、確かにそうだと共感するとともに、それを何とか克服したいものだという願望もわいてくる。僕の好きなもう一人の著者の内田樹さんなどは、入門者に対しては、専門用語などはもちろん知らないから、とりあえずスタート時点では日常用語の理解で進んでもらおうというような説明の仕方をする。

「他者」などという概念は、哲学的に細かいことをいえばたいへん難しい専門用語だが、「まあ他の人のことだわな」というような言い方で最初は済ませてしまう。そのうちに理解できればいいということだ。

このやり方は、正確さを欠くのではないかというような批判もあるだろうが、入門者にとってはいきなり抽象的な理解は出来ないので、まあ仕方のない方法だろうと思うし、あとになって抽象的なイメージがわかるようになれば、入門者にとってはいいのかなとも思う。

このやり方で行くと、「社会」というのは、まあ人が集まって生活している場のことかなとまずは考えておく。この「社会」は、歴史的にはフランス革命後に概念化されたと宮台氏は語っているけれど、今の時代に生きている我々は、具体的な社会の中で生まれて育っている。だから、最初は、抽象化されてはいないけれど、具体を捨てていない社会を体験し見ながら、それからいかに抽象の過程をたどっていくかというところに、入門者が抽象的概念を理解する道筋があるのかなと思う。

抽象的すぎる概念として、自分の専門の論理学で考えてみると、なぜ抽象的な概念を使って思考をするかという根本の問題が浮かび上がってくる。思考した結果が、現実の具体的な対処の方法などを導くことが目的なら、何も抽象的概念を使う必要がなくなる。ことわざなどを指針として、今これからどうしようかということを考える人は、過去の成功例などを思い出して具体的に思考すれば、それは目的が達成されるのではないだろうか。

「押してもだめなら引いてみな」という恋愛の指針になるようなことわざがあるが、これは恋愛の本質など関係なく、相手の気を引くには、押すだけでは失敗することがあるから、時には引いてみて、相手が関心を持つような動きをした方がいいだろうという具体的な思考につながる。具体的な思考も、具体的な問題の解決のためにはそれなりに役立つ。

それではなぜ抽象的思考を使って、抽象的すぎる対象を設定するかといえば、それは恋愛というような問題を考えるときも、恋愛の本質、いわば恋愛というものの全体像をつかみたいと思ったときに、それを抽象化して対象にすることで考えが発展するということではないかと思う。

社会の中での様々な問題を具体的に解決するには社会学が対象とする「社会」の概念は必要ないが、社会の全体像をつかんで、社会の法則性を認識したいと思ったら、抽象的すぎる「社会」概念が必要不可欠なものになるだろう。

論理学では、論理空間という抽象的すぎる対象を設定する。これは、論理の持つ完全性や無矛盾性という、その全体を貫く性質を思考するために設定される。そこでは、具体性が捨象されて、高度に抽象化された概念が駆使される。

たとえば、命題の真理性というようなものも、日常言語の範囲での説明をすれば、それはその命題が「正しい」と判断されたときに「真」になるというような説明が出来る。しかし、命題が「正しい」かどうかは、具体的な現実と対比させて判断しなければならないという具体性がいつまでもつきまとい、これは決して徹底した抽象化へは結びつかない。日常言語の範囲ではわかりやすい「正しい」という判断が、抽象化の過程では全くかけ離れたもの(「正しい」か「正しくない」かを全く考えない、それを捨象するという思考)になってくるので、この抽象性を理解することはたいへん難しくなる。

論理空間における「真」ということは、その要素として考えられた命題の集合に、1(真)か0(偽)の数値を対応させるという関数として抽象化される。そこでは、具体的な検討の結果として「正しい」か「正しくない」かということは全く考えの外に置かれる。ここでは、どうしてそれが「正しい」(真)ということが言えるのですか、というような問いを発してはいけないことになる。それは、関数として確定していることを前提としている。この抽象性は、論理学になれていない人にとっては引っかかりがあるのではないかと思う。

もっと単純な抽象化では、計算における数字の抽象化がある。羽仁進さんは、足し算を考えるときに、その場面の具体性が気になって答えがわからなくなったという子供の頃の経験をどこかに書いていた。

「1+1=2」という単純な計算においても、ここに具体的な属性を持ち込むと、羽仁進さんが、これを馬の例で考えたように、真理として成立しなくなってしまう。馬というのは、たいへん気質がナイーブな動物だそうで、気が合わない相手だと近くにも寄らないという。だから、1頭の馬がいるところに、もう1頭を連れてくると、下手をすると2頭ともいなくなってしまうという。そうするとこの計算は、具体的に思考すると「1+1=0」となってしまう。

これは数学的には間違いだが、それは数学的な抽象化された対象に対する思考としては間違っているというだけで、羽仁さんの具体的な思考に関していえば、論理的には完全に正しいと言えるだろう。

数学の抽象化も、計算という全体像を把握するために必要な抽象化ではないかと思う。この全体像を把握する目的には、絶対的に抽象化が必要だが、その目的を持たなければ、抽象化は必要ないとも言える。文学や芸術の創作の世界においては、創作が目的なら、抽象化は全く必要ないだろう。具体に即して思考を展開すればいいと思う。だが、芸術を芸術として「芸術論」を展開したいと思ったら、芸術の全体像をつかむ目的をたてなければならない。そのときは抽象化が絶対的に必要になるだろう。

抽象的すぎる「社会」概念がつかめるかどうかは、社会の全体像をつかみたいという、今ある自分の回りの出来事を超えて、その法則性を認識したいという目的を持って社会を見ることが大事だろう。そういう目的が意識されたとき、抽象化も見えてくるのではないかと思う。