誤読の原因


内田さんの次の言葉

「自分は「他者からの贈与」に依拠して生きているが、自分が「他者への贈与」の主体になること(それが「労働」ということの本質である)を拒否する。」
「2005年05月19日 資本主義の黄昏」


を誤読する人がかなり多いらしい。ここに書かれていることを<「労働」とは「贈与」である>と解釈する人が多いようなのだ。この文章が

  「労働」=「贈与」

という等式を表しているとする解釈は、僕にはどう考えても出てこない。しかし、これをそう誤読する人がいると言うことは、どこかに原因があるはずだ。それはいったいどこにあるのか考えてみよう。

まずは、この等式の意味というものを細かく分析してみよう。「労働」と「贈与」は同じ対象を違う側面から呼んだという言葉ではない。概念的にはまったく違うものだ。「労働」は「働く」という行為に関係しているもので、「贈与」は「あげる」という行為に関係しているものだ。まったく概念の違う二つの行為が等しいというのは何を意味するのか。

それは、この二つの行為で表現される内容の中に、等しくなるものが見つかると言うことである。この等式を数学的なものと考えるなら、それは量的に等しいものがあるということになる。「労働」はその行為によって新しい「価値」を作り出すものである。「贈与」も何らかの意味で「価値」あるものをあげる行為である。「価値」という点で一つの共通項を見つけることが出来る。そうすると、その「価値」の量が等しくなると言うことでこの等式を解釈することが出来る。

このような解釈をすれば、「労働」で生み出された「価値」が「贈与」としてすべて差し出されるという解釈につながってくる。このような解釈でイメージされる「労働」は、「労働一般」ではなく、「奴隷労働」という特殊な労働に限られるのではないか。この等式を、もしこのように解釈するのなら、それは

  <すべての労働は奴隷労働である>

という主張に論理的に結びつくのではないかと思われる。これは、資本主義の下における労働者を「賃金奴隷」と呼んだマルクス主義の思想に重なるものを感じる。マルクス主義的に、資本主義を批判的に見るのなら、資本主義における<すべての労働は奴隷労働である>という結論が出るかもしれない。

もし上の等式を合理的に理解しようとすると、このような結論が出てくる。それでは、内田さんの文章を誤読している人たちは、内田さんが、共産主義思想と同じように資本主義を批判していると受け取っているのだろうか。これはそうは思えないのだ。

内田さんの批判者たちは、内田さんは体制内思想を擁護する立場であると批判している。つまり、資本主義を批判しているのではなく、むしろそれを擁護していると言うことを批判している。だが上の等式を合理的に理解しようとしたら、それは現存の資本主義を批判する考えに結びついてくる。それでもなお資本主義を擁護するのだと批判する、この論理の混乱はどこにあるのだろうか。

上の等式を合理的に理解する他の解釈があるのならそれを聞いてみたい気もするが、もしそのような解釈がないのなら、内田さんが主張しているとされている

  <「労働」は「贈与」である>

という主張は、その批判者には合理的なものとして受け取られていないのだろうか。この主張を合理的なものと受け止めれば、その合理性の中に、例えば現実とは重ならない部分があるとか、前提としている条件がおかしいとか、論理的な批判が出来る。しかし、これを合理的に受け取らないのであれば、そこには論理的な批判はない。あるのは、「合理的でないことを主張するやつは馬鹿だ」という蔑視があるだけだ。

もし、内田さんが、合理的でないことを主張していると思っているのなら、それは内田さんをあまりに見くびっていることになるだろうし、僕はむしろ、そのように内田さんが語っていることは非合理的なことだと批判する人間たちは合理性を理解するだけの水準にないのだとしか思えない。

実際には、僕は内田さんが共産主義者だとは思えないので、上の文章から<「労働」=「贈与」>というような等式を導くこと自体が間違いだと思っている。内田さんは、そのような主張は少しも語っていないのだ。この誤読の原因をあえて見つけるとすれば、内田さんは非合理な主張をする人だという先入観の元に、この文章をご都合主義的に切り取って理解しようとすると、誤読が発生すると解釈出来る。切り取る部分を【】で囲んでみよう。

【自分は「他者からの贈与」に依拠して生きているが、自分が】「他者への贈与」【の主体になること(それ】が「労働」【ということの本質】である【)を拒否する。】

ここから、【】の部分を切り取ったあとの文章は次のようになる。

「「他者への贈与」が「労働」である」

確かに、これなら<「労働」が「贈与」である>という解釈が出来る。しかし、上の文章からこの部分を抜き取ることには、何ら正当性はない。単に文法的に意味が通じる文章が一つ出来たと言うだけのことで、内田さんの主張と関係しているのは、含まれている単語が同じだと言うだけのことだ。

内田さんの上の文章を、<「労働」は「贈与」である>と解釈するのは、文法的にも論理的にも誤読そのものであると僕は思う。これを正しく文法的にも解釈するなら、「それ」で指されているものが「労働の本質」とイコールであるという解釈を取らなければならないだろう。つまり、この文章の解釈の等式は、

「自分が「他者への贈与」の主体になること」=「「労働」と言うことの本質」

でなければならない。本質とは何であるか。それはその概念において最も重要だと考えられるもので、それを欠いてしまうとその対象がその概念で呼ばれるのはふさわしくないと思える何かだ。

この本質規定の前提としては、内田さんが語る

賃金と労働が「均衡する」ということは原理的にありえない。
人間はつねに「賃金に対して過剰な労働」をする。


というものを考えないとならない。原理的にあり得ないというのは、具体的現実を観察して結果的にそう判断出来ると言うことではない。抽象的な規定(言語表現)から論理的な帰結として導かれると言うことだ。

「賃金」とは何か。「労働」という行為に対して支払われる「対価」のことだ。内田さんの上の主張は、「労働」の結果として生み出される価値は、行為の対価としての「賃金」と「均衡する」と言うことは原理的にあり得ないと言うことだ。

「賃金」というのは、自分で自分に払うことはない。他人を雇って他人の労働の成果を所有するために払うものだ。自分で自分の労働の成果を全部消費出来るなら、これはその労働の享受と労働の成果は均衡すると言っていいだろう。しかしそれは「賃金」との均衡ではない。

「賃金」は常に雇い主が払うものだから、雇い主が賃金を払う動機というものがなければならない。「賃金」と「労働」とが「均衡する」ような額を払うという動機が存在するだろうか。もし博愛主義的な雇い主がいたとしても、その行為は競争に敗れることによって消滅していくだろう。雇い主は、常に自分が払う賃金以上の成果を期待して賃金を払う。だから、賃金と労働の成果が均衡することは原理的にあり得ない。

賃金以上にもたらされる労働の成果は、自分がそれを受け取れないのであるから、結果的に「他者への贈与」となる。「賃金」をもらうような「労働」において「他者への贈与」がない「労働」は原理的にあり得ない。この「他社への贈与」において、自分が主体になっているということが「労働」と言うことの本質だと内田さんは語っているのだ。

自分が主体となっているというのは、それを作り出したのが自分だと言うことを言っているだけだ。「労働」による過剰分は、自分が作り出したものであって、自分はそれを第三者的に傍観していただけではないと言うことだ。「労働」をしているのなら、それは自分が作り出したと考えるのが論理的には当たり前ではないだろうか。主体になっていないのであれば、それは「労働」にはなっていない、と考えられるのではないだろうか。それがなければ「労働」とは呼べないという何かを、「労働」の本質と呼ぶのであれば、内田さんが語ることは、まさに「労働」の本質なのだと思う。

内田さんの文章の、文法的・論理的に正しい解釈はこのようなものだと思う。内田さんの文章はある種の判断を語ったものであるから、論理的な文章である。論理的な文章は、その表現がまずいものでなければ、かなりの限定された意味に確定する。数学などでは他の解釈を許さない表現に確定されなければならない。

内田さんの文章がまずいのだという批判なら、どこがまずくて誤読されるかを指摘しなければならないだろう。そういう批判であるなら、僕はまだ見るべきものがあるかとも思うが、上の文章の判断をまったく別のものと解釈する誤読による批判は、もう一度内田さんの文章を読み直した方がいいのではないかと思う。

内田さんの文章はわかりやすく、論理的にも非常に明快だ。それを誤読するというのは、内田さんならこんなことを言っているに違いないという先入観でその文章を読むからではないかと思う。文章表現そのものの分析から意味を読みとるのではなく、先入観というバイアスがかかった見方で単語だけを拾うという読み方をするから、内田さんは誤解されるのではないだろうか。内田さんにその責任の一端があるとしたら、その結論が常識に反するような発見を多く語ると言うところだろうか。しかし、これは内田さんの独自性を感じさせるところであるから、それまでも責任をかぶせるとしたら行きすぎだろうと思う。やはり、内田さんの文章を読むときは、先入観を捨てて文章そのものを文法的にも論理的にも正確に理解することに努めるべきだろうと思う。

マル激の議論を論理的に理解してみる


2週間前にマル激で配信された『拒否出来ない日本』の著者・関岡英之氏を迎えての議論が気になって、もう10数回繰り返して聞いている。論理トレーニングの応用問題として、ここで展開されている議論の分析というものをしてみようかと思う。まずは、議論されている事柄を拾い出して、その構造を分析し、主題となる主張を中心に議論の構造というものを理解していこうかと思う。

議論のテーマを箇条書きにすると、次のようなものではないかと思われる。

1) 建築基準法問題
   どういう勢力が、どういう動機で動いて、何が行われたのか。
   日本の制度改革が、アメリカの仕組みをそのまま持ってきているようになっているのが、実は失敗ではないのか。
   利権を巡る勢力争いにおいて、アメリカの力を借りることが有利な背景がある。そのため、正当性を巡る争いではなく、たとえ不当であっても利権さえ手に入ればいいという方向へと改革が流れている。建築基準法で言えば、建築として正しいかどうかよりも、基準さえクリアしていれば何でもいいという方向になっている。

2) 『拒否出来ない日本』のテーマ
   日本の改革の方向が、よく調べてみれば、すべてアメリカの意向に沿う形で行われている。
   日本で国内問題として論じられていることが、実はすでにアメリカから要求されていたことにつながっている。これは内政干渉ではないか。

3) 年次改革要望書の問題
   小泉内閣の基本方針と要望との一致。
   アメリカによる竹中大臣への高い評価。
   郵政民営化の要望とその達成への高い評価。
   小泉さんの持論とアメリカの要求との合致、それに伴う小泉さんの権勢の拡大。
   郵政民営化批判議員の年次改革要望書批判とのつながり。民営化反対が改革反対のマイナスイメージだったために、年次改革要望書の批判がまったく知られることがなかった。
   専門家・国会議員でさえもよく知らない年次改革要望書
   年次改革要望書を報道しないマスコミの問題。

4) 二流問題
   アカデミック・ハイラーキーにおける二流の人間の行動
   一流の人間への嫉妬・権力と結びついた権勢
   それらの行為の動機はどこにあるか(顕在的動機・潜在的動機)
   簑田胸喜問題

5) 経済学の真理性
   経済学は科学的真理を追究するものであるか。
   経済学は、現実にはその結論が政治的に利用されるイデオロギーである。

6) アメリカへの奉仕・追随
   あからさまにアメリカへ追随するつもりがなくても、結果的にアメリカに有利な行為をすることになる日本人。
   アメリカが提唱するグローバル・スタンダードは、本当にスタンダードなのか。
   正しいものへの奉仕ならそれはケツ舐めの追随ではなくなるか。

7) ルール主義・談合主義
   アメリカのスタンダードは、原則としてのルールを決めておき、それは厳格に守るが、それを守っていればあとは自由。
   談合主義は、協定によって自由が制限されてはいるが、それによって守られるものがある。つまりセーフティネットが作られる。
   ルール主義は優勝劣敗のネオリベになりやすく、談合主義は腐敗した利権構造が出来やすい。
   持たざるものの夢の実現にはルール主義が有利。一旗あげようとする人間は、アメリカンドリームを目指す。
   コーポラティズム(談合)の恩恵(それが腐敗する要因は何か)

8) 共同体の解体と日本の空洞化
   アメリカのルール主義の浸透によって、共同体的な温情主義が消えていったことの影響。
   民衆の覚悟が出来ていないところでの、ルール主義の自己責任論。
   東京裁判史観の流れ(日本だけが悪いという思考のつながり、東京裁判→日米構造障壁協議)、日本の制度はすべて不正だという考え。

9) 愛国の問題
   国益の問題と、心情的国粋主義の問題
   『諸君』『正論』的言論状況(二流問題と関係して)
   靖国天皇の問題は分かりやすいが、日米構造協議の問題は分析を必要とする難しい問題なので、それを理解する土壌がなければ真の国益の問題を語ることが出来ない。

10) メディアの問題
   その利益構造と報道の内容の問題(報道されないものは何か)


とりあえずはメモだけをアップしておこう。これらを細かく分析して、全体の主張の柱と、その議論の展開を構造的に理解してみたいと思う。