2007-08-01から1ヶ月間の記事一覧
メンデルの法則は、学校教育でも学習されるくらいなのでよく知られている法則性ではないかと思う。これは、「メンデルの遺伝法則」で紹介されているものを見ると、次のような特徴で語られていると考えられる。生物のある外形的特徴が、親から子どもへと受け…
ことわざが語ることというのは、ある種の法則性を語っているのだが、これは科学的なものではない。経験から得られた教訓のようなもので、以前もそうだったからこのようなことが起こるかもしれないというような感じの法則性になる。これが科学の持っているような…
宮台真司氏の社会学入門講座の「連載第二回:「一般理論」とは何か」では、「一般理論」というものが語られている。これが「理論」と呼ばれているのは、何らかの法則性を語っているからだと思われる。しかも「一般」であるということからは、これが本質論的段階にあ…
宮台真司氏の「連載第一回:「社会」とは何か」という文章の中には、「不透明な全体性としての社会の秩序は、いかにして可能か」という問いかけがある。社会の中のさまざまな出来事が、確率的な偶然性だけに従って起こるなら、その秩序というものは単純なものに…
法則性は言葉で表現しただけでは、それがどの段階にあるかは分からない。認識の段階として、どのように理解していれば三段階論におけるどの段階に相当するのかという問題を考えてみようかと思う。題材としては、宮台真司氏の社会学入門講座から拾ってみよう…
三段階論において現象論的段階で言われる「現象」や、実体論的段階で言われる「実体」というもののイメージは、多少の差異はあっても大筋では同じものであることが多いのではないだろうか。「現象」は、表に現れ・目に見えたそのままのものを記述すればいいのだと…
武谷三男さんの三段階論というのは、法則的認識というものが、本質的な段階にまで高まっていく発展の様子を三段階のものとして解明したものである。これは、板倉聖宣さんによれば三つでなければいけないものらしい。二つになったり四つになったりすることは…
板倉聖宣さんは「武谷三段階論と脚気の歴史」の中で、武谷三段階論は「法則性」の認識の発展の段階を語ったものだと指摘している。重要なのは、その認識が「法則性」の認識であるということで、科学としての認識と言い換えてもいいだろうと思う。ところで科学は…
板倉聖宣さんによれば「武谷三段階論と脚気の歴史」で語っているように、現象論的段階というのは、それを越えて実体論的段階に行こうと決心したからといって、主観でそれを克服できるものではない。客観的状況によってそれは決まる。どれほど自分が願ってい…
板倉聖宣さんが、「武谷三段階論と脚気の歴史」という文章の中で武谷三段階論に関して語っているのだが、その中の「法則的認識」という言葉が気になった。武谷三段階論というのは、科学的認識の発展段階を三段階に分けて、その必然的移行について語ったものだ…
萱野稔人さんは『国家とは何か』の中で、マックス・ウェーバーの次の言葉を引いて論理を展開している。 「国家とは、ある一定の領域の内部で−−この「領域」という点が特徴なのだが−−正当な物理的暴力行為の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」 この言葉…