2007-01-01から1年間の記事一覧

加速度は見えるか?

我々は物理学でニュートン力学の法則を学ぶときに、力は加速度と比例することを教えられる。それは真理であることが確定しているもので、それをちゃんと確認することなく、言葉の上でそれが正しいものだと思い込んで覚えることになる。我々には加速度という…

関数は見えるか?

中学校の数学教育において関数の概念を教えることはかなりの難しさがある。関数の計算を教えるのはそれほど難しくはない。グラフと式の対応関係は方程式に還元できたりするので、一定の手順を覚えるアルゴリズムとして教えることが出来る。掛け算の意味がわ…

因果関係は見えるか?

因果関係というのは、とのあいだに結びつきがある、関係があるということを認識するものだが、これは認識論的にはかなり難しいことではないかと思う。単純に外界を像として反映しているだけでは関係という認識は出来ないからだ。因果関係ではとという二つのもの…

「ノーミソの目」で見る

「ノーミソの目」という言葉は、仮説実験授業研究会でユニークな発表をしていた徳島の新居信正さんがよく使っていた言葉だ。僕は、新居さんが語っていた「ノートはノーミソを写す鏡である」という言葉が、自分の体験ともぴったり合ったこともあって、この言葉が…

我々は同じものを見ているのか?

『科学理論はいかにして生まれるか』(N.R.ハンソン・著、講談社)という本の冒頭に、二人の観察者が同一の対象を見ているのかどうかという議論が語られている。細胞を観察する微生物学者の例はちょっと難しい。それは「細胞」というものの厳密な定義を僕が…

思考と言語の関係

ウィトゲンシュタインは、思考の限界を確定するために、言語の有意味性の限界を確定しようとした。言語表現において、それに有意味性を与えるという行為が、人間が思考をしているということを示していると捉えていたのではないかと思う。このあたりは、言語表現の…

ウィトゲンシュタインの哲学の基本理解とその応用

僕は、ウィトゲンシュタインの哲学の理解に対して、直接ウィトゲンシュタインの著作から学ぶのではなく、野矢茂樹さんや橋爪大三郎さんの解説から間接的に学んでいる。それは、ウィトゲンシュタインの哲学というのは、直接その著作から学ぶには難しすぎるか…

応用問題について

算数・数学教育では、「応用問題」というものが課されることがある。これは、基本的な計算技術を学んだ後で、その計算を実際に応用して答えを求めようとするような問題を考えるものだ。計算して答えを出すだけなら、これには深い理解はいらない。アルゴリズ…

「猥褻行為」は存在するか

『社会学の基礎』(有斐閣Sシリーズ)という、大学の教科書として書かれた本の「行為と役割」という章を宮台真司氏が執筆している。ここでは行為の同一性に関して議論を展開しているのだが、二つの行為を比べてそれが同一であるか違うかという判断を3つの…

トートロジー(同語反復)という論理法則

カール・ポパーの「反証可能性」という言葉を、必要条件と十分条件という観点から考えてみようと思っている。「反証可能性」という概念は、その考察の対象が「科学である」ということに関して必要条件となるが十分条件ではないというようなことを考えている…

数は実在するか

以前のエントリーで、負の数を実体的に表す物質的存在はないという議論をいくつか展開したが、存在論というのは現実に対して何らかの考察をするときに前提となる重要なことではないかと思う。この存在論の発想が違ってくると、それを基礎にした論理展開も微…

原則を貫く政治家としての小沢一郎氏 1

小沢一郎氏の辞任会見から始まった一連の混乱が収まりかけてきた今、改めてこの騒動は何だったのかということを整理してみたいと思う。小沢一郎氏は、僕自身は余り好きなタイプの人間ではなかったが、宮台真司氏が高く評価していることもあり、政治家として…

囚人のジレンマ−−信頼への裏切りがもっとも利益になるという皮肉な判断

ゲーム理論で有名なものの一つに「囚人のジレンマ」と呼ばれるものがある。これは詳しくは「囚人のジレンマ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」で紹介されているが、簡単に要約すると次のようになるだろうか。共犯だと思われる二人の被…

自己実現幻想の弊害−−いつまでも子どもから脱しきれない若者たち

内田樹さんが「人生はミスマッチ」というエントリーでたいへん面白い文章を書いている。このエントリーの冒頭で内田さんは次のように書いている。 「リクルートの出している「RT」という冊子の取材が来て、「高校の先生に言いたいこと」を訊かれる。 中高…

支配という現象の論理的考察

今週配信されているマル激のゲストは岡田斗司夫さんで、ダイエット問題から入ったその話はたいへん面白いものだった。岡田さんは、100キロ以上あった体重を50キロも減らしたダイエットで有名になったが、その方法論がたいへん論理的で説得力のあるもの…

集団自決という現象のディテール(細部あるいは末梢的なこと)

夜間中学には日本語学級という、日本語を勉強するクラスがある。今でこそ、そこは外国から日本へ来た人々(結婚で来たり、再婚の母親に呼び寄せられたり、仕事で来日した父親の家族として来たり、その理由はさまざまである)が、日本語の授業を受けるために必…

存在の問題の難しさ−−その弁証法性

「『論理哲学論考』が構想したもの8 複合的概念が指し示すものの存在」のコメント欄に、Kさんという方からのコメントが送られてきた。僕は、このコメントを見たとき、最初は「揚げ足取り」をしてきたのではないかという印象をもった。だから、このコメントを…

「存在」という属性

野矢茂樹さんは直接書いていないのだが、「存在」という属性をどう捉えるかというのを、単純なものと複合的なものという発想からの応用問題として考えてみようと思う。野矢さんの解説によれば、ウィトゲンシュタインが真に存在するとして考えたのは、指し示す…

「事実」とその「解釈」について

沖縄の集団自決という深刻な問題についてちょっと触れたので、何らかの反応が返ってくるかと思ったが、それにちょっと疑問を差し挟んだだけで罵倒するようなコメントが送られてきた。このコメントについては、論理的な対話など出来ないと判断したので反映さ…

『論理哲学論考』が構想したもの8  複合的概念が指し示すものの存在

ウィトゲンシュタインの世界においては、「事実」から切り出されてくる「対象」は単純なものに限られていた。それは、その「対象」の像として設定される「名」という言語表現が、論理空間を作る要素として取り出されるからだ。現実世界から論理空間を作り出すとき、…

『論理哲学論考』が構想したもの7  対象の単純性について

ウィトゲンシュタインが「対象」の単純性について語っていることを理解するのは案外難しいのではないかと感じる。それは、存在という属性をどう捉えるかということと深く関わってくる。「対象」というのは、世界を構成する「事実」から切り出されてきた要素として…

論理語「ならば」の考察−−必然性あるいは因果律について

論理語「ならば」について野矢茂樹さんが『『論理哲学論考』を読む』で語っているのは、その真理領域の関係についてだ。「AならばB」という命題があったとき、Aを真理とする状況である真理領域が、Bを真理とする状況であるBの真理領域にすべて含まれて…

弁証法における矛盾

shさんという方から「『論理哲学論考』が構想したもの6 論理語は「名」ではない」のコメント欄に、弁証法における矛盾という概念に対する違和感を語るコメントをもらった。僕も形式論理からスタートした人間だけに、若いころは弁証法が語る矛盾に大きな違和感…

『論理哲学論考』が構想したもの6 論理語は「名」ではない

野矢茂樹さんは、『『論理哲学論考』を読む』の中で、否定を表す「ない」について、それが現実に「対象」を持たないことを指摘していた。これは現実に「対象」を持たないので、「対象」の像として定義されている「名」ではないこともそこで指摘されている。…

『論理哲学論考』が構想したもの5 論理空間における否定

野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』では、否定の「ない」という言葉は「名」ではないという考察がされていた。つまり、否定表現に相当するような「対象」が現実に存在しないということが指摘されていた。否定は、「事実」から「対象」が切り出され、…

『論理哲学論考』が構想したもの4 ラッセルのパラドックスの解決

ウィトゲンシュタインが語るラッセルのパラドックスの解決は、数理論理学を勉強してきた人間にとっては実に意外な展開での解決になる。ラッセル自身は、タイプ理論というものを創設して、パラドックスの原因となるものを排除することでこのパラドックスを解…

『論理哲学論考』が構想したもの3 「事実」と「事態」(現実性と可能性)

ウィトゲンシュタインは、現実の「事実」というものから出発して、まだ現実化してはいないが、その可能性があるものを見るということを思考の働きとして想定しているように感じる。人間の認識の積極面を思考というものに見ているようだ。そして、思考の限界…

『論理哲学論考』が構想したもの2 可能性の世界としての論理空間

ウィトゲンシュタインは、現実世界を出発点として、そこから思考の原理を引き出そうとする。この現実世界は、「事実」を集めたものとして想定され、物という「個体」を集めたものとは考えられていない。野矢茂樹さんは、『『論理哲学論考』を読む』という本の中…

『論理哲学論考』が構想したもの1 事実とその対象への解体

野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』という本を頼りに、ウィトゲンシュタインが構想した世界の全体像の把握というものを考えてみたいと思う。ウィトゲンシュタインのような天才と同じ考えをもつというのは、かなり無謀な目標のように思われるかもしれ…

論理の正しさはア・プリオリ(先験的)なものか?

僕は以前は、論理の正しさといえどもそれはやはり経験から得られるものだと思っていた。論理は、この世界の捉え方として、最高度の抽象ではあるが、それは現実を捉えたものであることは確かだから、論理は現実との一致を究極の目標として展開されるものだと…