「抽象的すぎる」ということ
僕は、宮台真司氏のブログを読むのも趣味の一つなのだが、今日は久しぶりに「社会学入門講座」を読み返してみた。その「第一回「「社会」とは何か」」の中には「この問いは、経済学の営みが前提とする「市場とは何か」という問題に比べれば抽象的すぎ、私たちが日常用語の範囲で答えることは不可能でしょう」という言葉がある。
これは、「社会」という言葉の意味するところが抽象的すぎて、日常用語の範囲では説明できないということだ。日常用語は具体的な事柄を説明することは出来るが、抽象的な概念を説明するにはどうしても専門用語がいるということだ。
この部分の宮台氏の主張は、確かにそうだと共感するとともに、それを何とか克服したいものだという願望もわいてくる。僕の好きなもう一人の著者の内田樹さんなどは、入門者に対しては、専門用語などはもちろん知らないから、とりあえずスタート時点では日常用語の理解で進んでもらおうというような説明の仕方をする。
「他者」などという概念は、哲学的に細かいことをいえばたいへん難しい専門用語だが、「まあ他の人のことだわな」というような言い方で最初は済ませてしまう。そのうちに理解できればいいということだ。
このやり方は、正確さを欠くのではないかというような批判もあるだろうが、入門者にとってはいきなり抽象的な理解は出来ないので、まあ仕方のない方法だろうと思うし、あとになって抽象的なイメージがわかるようになれば、入門者にとってはいいのかなとも思う。
このやり方で行くと、「社会」というのは、まあ人が集まって生活している場のことかなとまずは考えておく。この「社会」は、歴史的にはフランス革命後に概念化されたと宮台氏は語っているけれど、今の時代に生きている我々は、具体的な社会の中で生まれて育っている。だから、最初は、抽象化されてはいないけれど、具体を捨てていない社会を体験し見ながら、それからいかに抽象の過程をたどっていくかというところに、入門者が抽象的概念を理解する道筋があるのかなと思う。
抽象的すぎる概念として、自分の専門の論理学で考えてみると、なぜ抽象的な概念を使って思考をするかという根本の問題が浮かび上がってくる。思考した結果が、現実の具体的な対処の方法などを導くことが目的なら、何も抽象的概念を使う必要がなくなる。ことわざなどを指針として、今これからどうしようかということを考える人は、過去の成功例などを思い出して具体的に思考すれば、それは目的が達成されるのではないだろうか。
「押してもだめなら引いてみな」という恋愛の指針になるようなことわざがあるが、これは恋愛の本質など関係なく、相手の気を引くには、押すだけでは失敗することがあるから、時には引いてみて、相手が関心を持つような動きをした方がいいだろうという具体的な思考につながる。具体的な思考も、具体的な問題の解決のためにはそれなりに役立つ。
それではなぜ抽象的思考を使って、抽象的すぎる対象を設定するかといえば、それは恋愛というような問題を考えるときも、恋愛の本質、いわば恋愛というものの全体像をつかみたいと思ったときに、それを抽象化して対象にすることで考えが発展するということではないかと思う。
社会の中での様々な問題を具体的に解決するには社会学が対象とする「社会」の概念は必要ないが、社会の全体像をつかんで、社会の法則性を認識したいと思ったら、抽象的すぎる「社会」概念が必要不可欠なものになるだろう。
論理学では、論理空間という抽象的すぎる対象を設定する。これは、論理の持つ完全性や無矛盾性という、その全体を貫く性質を思考するために設定される。そこでは、具体性が捨象されて、高度に抽象化された概念が駆使される。
たとえば、命題の真理性というようなものも、日常言語の範囲での説明をすれば、それはその命題が「正しい」と判断されたときに「真」になるというような説明が出来る。しかし、命題が「正しい」かどうかは、具体的な現実と対比させて判断しなければならないという具体性がいつまでもつきまとい、これは決して徹底した抽象化へは結びつかない。日常言語の範囲ではわかりやすい「正しい」という判断が、抽象化の過程では全くかけ離れたもの(「正しい」か「正しくない」かを全く考えない、それを捨象するという思考)になってくるので、この抽象性を理解することはたいへん難しくなる。
論理空間における「真」ということは、その要素として考えられた命題の集合に、1(真)か0(偽)の数値を対応させるという関数として抽象化される。そこでは、具体的な検討の結果として「正しい」か「正しくない」かということは全く考えの外に置かれる。ここでは、どうしてそれが「正しい」(真)ということが言えるのですか、というような問いを発してはいけないことになる。それは、関数として確定していることを前提としている。この抽象性は、論理学になれていない人にとっては引っかかりがあるのではないかと思う。
もっと単純な抽象化では、計算における数字の抽象化がある。羽仁進さんは、足し算を考えるときに、その場面の具体性が気になって答えがわからなくなったという子供の頃の経験をどこかに書いていた。
「1+1=2」という単純な計算においても、ここに具体的な属性を持ち込むと、羽仁進さんが、これを馬の例で考えたように、真理として成立しなくなってしまう。馬というのは、たいへん気質がナイーブな動物だそうで、気が合わない相手だと近くにも寄らないという。だから、1頭の馬がいるところに、もう1頭を連れてくると、下手をすると2頭ともいなくなってしまうという。そうするとこの計算は、具体的に思考すると「1+1=0」となってしまう。
これは数学的には間違いだが、それは数学的な抽象化された対象に対する思考としては間違っているというだけで、羽仁さんの具体的な思考に関していえば、論理的には完全に正しいと言えるだろう。
数学の抽象化も、計算という全体像を把握するために必要な抽象化ではないかと思う。この全体像を把握する目的には、絶対的に抽象化が必要だが、その目的を持たなければ、抽象化は必要ないとも言える。文学や芸術の創作の世界においては、創作が目的なら、抽象化は全く必要ないだろう。具体に即して思考を展開すればいいと思う。だが、芸術を芸術として「芸術論」を展開したいと思ったら、芸術の全体像をつかむ目的をたてなければならない。そのときは抽象化が絶対的に必要になるだろう。
抽象的すぎる「社会」概念がつかめるかどうかは、社会の全体像をつかみたいという、今ある自分の回りの出来事を超えて、その法則性を認識したいという目的を持って社会を見ることが大事だろう。そういう目的が意識されたとき、抽象化も見えてくるのではないかと思う。
コミュニケーションについて
僕が定期的に購読しているblogに「カフェ・ヒラカワ店主軽薄」というものがある。ここで「不可視のコミュニケーション。」というエントリーを読んだ。とてもおもしろいものだと思った。特に、コミュニケーションというものに対する視点がすばらしいと思った。
ここでヒラカワさんは、
「Communicationはビジネスにおいても、日常の生活においても頻繁に用いられる言葉だが、実はコミュニケーションに相当する適当な日本語というものがない。
勿論、「伝達」といった訳語はあるが、それは一方の情報が他方に伝えられるいうただCommunicationの機能を表すに過ぎない。Communicationの要諦は、一対一、一対他の間に共有する何ものかが生まれ出るということであり、「伝達」では、その「生まれ出る」というイベントそのものをうまく捕捉できない。」
と語っている。コミュニケーションというのは、単に伝達することでもなく、伝達されたものを受け取るものでもなく、それが対となって総合されていなければコミュニケーションとは呼べないのではないかという指摘だ。
この言葉を読んで、学校教育などで語られている「コミュニケーション能力を育てる」という目標のことなどを考えてみた。この能力は、具体的には「伝達能力」であり、「読解能力」としてとらえられていることが多いのではないだろうか。
しかし、それが片方だけの概念としてとらえられていると、ヒラカワさんが指摘するような双方向性が見失われてしまうのではないかと思う。そして、この双方向性こそが、本来の意味でのコミュニケーション能力に関わるものではないかという直感が僕にはある。
コミュニケーションは、相手との対応によって、相手の伝達や受け取りに応じて臨機応変に変わっていくようなものになるだろう。それは、そのコミュニケーションが行われる場がどのようなものであるかによって大きく左右されるのではないかと思う。
僕は50代のおじさんだが、その僕が女子高生のコミュニケーションの場に入っていっても、全くコミュニケーション能力を発揮できないだろう。そこでの関心がどこにあるのか、そこでの常識的判断がどのようなものなのかの知識が全くないからだ。逆に言えば、社会生活を長くしてきた人間の場に、高校生くらいの年で入っていこうとすると、そこでのコミュニケーション能力はまだ育っていないのが普通だろう。
コミュニケーションは、相手の反応、それが行われる場などが関わって複雑に展開される。だから、それを一律に育てるなどと言うことは出来ない。よく考えるとかなり難しい概念だと言うことがわかる。
また、相手に迎合的に言葉を駆使する能力も本来のコミュニケーション能力にはならないだろう。その場にふさわしい言葉遣いを使いなさいという指導も、それが何故に正しいのかという理解を欠いて、教えられたからそうすると言うことになれば、それは他者に対して迎合的になることを勧めることになってしまうだろう。
ヒラカワさんは、日本人的な感覚からコミュニケーションを捉えれば次のようになるのではないかと指摘している。
「トークイベントはこういった地点から開始され、ラグビーにおける身体と身体の触れ合いの中で一瞬にしてお互いの全てが了解されるという増保身体論、師匠と弟子との間では何も教えず、何も聞かず、弟子はただ師匠を見、師匠は弟子にその存在を示すということのなかで暗黙のうちに以心伝心の交感が行われるという柳家小ゑん師弟論、言葉は書き付けた瞬間に別のものを伝えるという言語伝達の不能の中に、言語の可能性も存在しているという小池言語論、上司の思いは、それが言葉として部下に伝わるプロセスで必然的に減衰するという古田減衰論が語られた。
このCommunicationのプロフェッショナルたちの言葉から浮かんでくる日本語は、儀であり、礼であり、惻隠であり、阿吽の呼吸といったものだろう。そのような言葉でしか語りえない交感というものが確かに存在していたし、今もそれは存在している。」
これはたいへん頷ける指摘だ。このような、説明の難しい他者との関わりの中にこそ、コミュニケーションの本質が見えるのではないかと僕も思う。
宮台真司氏は、コミュニケーションを「行為の連鎖」としてとらえるという社会学的な視点をどこかで語っていたが、この行為の連鎖という集合が、体験的に獲得され、その合理性を理解したときに、我々は本当の意味での「コミュニケーション能力」を身につけたと言えるのではないだろうか。
ヒラカワさんの最後の指摘である
「Communicationを機能であると捉えれば、おそらくはいかにして円滑なコミュニケーションは可能かといった説得のノウハウ論に行き着く平凡な会話にならざるを得ない。それではつまらない。それは素人が素人に語る自慢話にしかならない。そして、それではCommunicationをただ自己表現の手段、訓致と恫喝といった相手を制御する方法論へとミスリードしてしまう。」
という点も、コミュニケーションを考える上での重要な視点として受け止められる。コミュニケーションは、あくまでも双方向性を持っているもので、一方的に相手に働きかけて、相手をうまく動かすことが出来る能力を指すのではないと言うことだ。
追記
民主党の、「2020年までに温暖化ガスを1990年レベルから25%を削減する」ということに対して、かなりのネガティブキャンペーンがマスコミを中心に行われている。これに対して、新しいマル激では、それが可能だという主張を展開する放送を配信している。そのポイントは、発電に使われている石炭燃料の転換にあると主張していた。つまり、最大にして唯一とも言える抵抗勢力が電力会社のようだ。発電におけるこの転換が可能なら、民主党の目標が達成できるという。これをどのように理解すればいいかを考えてみたいと思う。
マル激に出演してこの論理を展開したのは、環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也氏で、その主張は「飯田哲也のエネルギー・フロネシスを求めて」に詳しく書かれている。これも合わせて読み込んでみたいと思う。
この「25%削減」に対して、池田信夫氏が「支離滅裂な「鳩山イニシアティブ」」というエントリーで批判をしている。その内容を見ると、飯田氏の主張と真っ向から対立しているようにも見える。池田氏も、かつてマル激にゲスト出演したことがあり、二人とも専門家としての信頼性があるようにも見えるのだが、この問題に関してはどちらを信用すべきだろうか。
「25%削減」問題に関しては、そのネガティブキャンペーンがされていたときに、宮台氏が一言「デマゴーグです」ということを語っていた。マスコミで流されていたことのどこに嘘があるのかは、そのときは僕には具体的にはわからなかったが、宮台氏に対する信頼感からいえば、この時期にゲストに読んだ飯田氏をこそ、この問題では信頼することが出来るのではないかとも感じる。宮台氏が語った「デマゴーグ」の中身も、今週のマル激から読み取ってみたいと思う。ちまたに流布している世論と違って、僕は、この目標は達成可能ではないかという観点からそれを見ていきたいと思う。
それにしても、この目標といい、障害者自立支援法の廃止といい、民主党がやっていることは、今まで左翼と呼ばれてきた人たちが主張することと見事に重なる。民主党は左翼になったのだろうか?いや、今まで左翼と呼ばれてきた人たちの主張が、実はリベラルと呼ばれるものだったのではないかと思う。今までの日本では、実は真ん中を行く中道が左翼になっていただけなのではないかと今更ながらに感じる。
自民党は再生できないだろう
自民党総裁選が終わり、河野太郎氏がまたもや主流となることなく終わった。それでも、前回の総裁選では20人の推薦人が集まらずに、立候補すら出来なかったことを考えれば、少しはましになったのかもしれない。しかし、自民党の中にある危機感というものが、谷垣氏の圧勝を見る限りではこの程度のものだったのかということでがっかりする。投票率の低さを見ると、危機感を通り越してもはやあきらめが自民党には蔓延しているのだろうか。
河野太郎氏は、テレビのインタビューで、「自民党を真っ向から批判しているのなら、むしろ自民党を出た方がいいのではないか」ということに答えて、「自分が今は中心にいるのを感じる。その中心にいる自分が外に出る必要はなく、中心で改革を進める道を選んだ」というようなことを語っていた。だが、総裁選の結果を見る限りでは、自民党は河野氏をその中心に据えることをしなかったと言えるだろう。
自民党は、これから谷垣氏を中心としてその再生を図ることになるのだが、谷垣氏に根本から自民党を変えるだけの力と決意があるとは思えない。河野氏が批判していたように、「全員野球」という言葉で、今まで自民党の負の遺産を作り上げて、それを引きずってきた人間をもともに取り込んでこれからも活動していこうというのだから、選挙で批判を浴びた面を改革できるとはとても思えない。自民党はこのまま衰退して消えていくのではないかと思う。
おまけに、谷垣氏は麻生氏と比べれば人格的に高潔なように見える。麻生氏のように、なりふり構わず、民主党の弱点と思われる点をしつこく攻撃し続けるということは、性格的にも出来ないのではないだろうか。しかし、過去の負の遺産を引きずる自民党には、それ以外の戦術がありそうにない。今度の総選挙でも終始麻生氏は、民主党に対するネガティブキャンペーンをやり続けた。建設的な政策が一つもないのだから、それ以外にやりようがなかったのだと思う。建設的な政策を出そうと思えば、もはや民主党に反対することが出来なくなっていたのだろう。末期状況での政策を見ても、民主党が主張してきたことを微妙にごまかして取り入れていったように見えるところに、自民党の政策の欠点があるのではないだろうか。
この自民党が、今までの党内の力関係が変わらないまま、民主党に対抗していくような建設的な政策を打ち出していくことが出来るだろうか。それはほとんど期待できない感じがする。民主党の政策は、実現可能性が批判されているが、実現できるかどうかが問われるということは、それはある意味で理想的な旗を揚げているからだとも考えられる。理想的すぎるから実現できないのではないかという批判だ。これは、たとえその具体化がすべて成功しなかったとしても、民主党がどのような党であるかということの確率には、理想的すぎるくらいのスローガンを掲げるのは悪くないと僕は思う。少なくとも、それが理想的すぎて実現が出来ないのだというネガティブキャンペーンしか張れないよりは、理想を提出する方が優れているだろう。
河野太郎氏が主流になれなかった自民党にはもはや何の期待もしないが、河野氏は速やかに自民党を離れて渡辺氏と合流するなりして、自分の理想とする対抗軸で民主党に対する政治活動をすべきだろうと思う。真っ向から批判した全員野球をやろうとしている谷垣氏の元で自民党にとどまるとしたら、それは河野氏の政治姿勢が問われることになるのではないだろうか。河野氏が渡辺氏と合流して、民主党に対抗する新しい政治の潮流となることを期待したいと思う。
追記
山崎養世さんの高速道路無料化に僕が共感するのは、それが全体を見通した長期的展望に立った提案だからでもある。地方に空港があれば便利だという状態を作り出すには、地方にも都市部に匹敵するような人口が分散しなければならないだろう。地方の過疎化をそのままにしておいて、空港だけを立派にし、新幹線を通そうとしても、それはガラガラの誰も通らない高速道路を建設するのと同じことになる。無駄なものだ。
高速道路の無料化は、地方に人口を分散させるという目的もそこにはある。アメリカは、無料の高速道路網を作ることによって。人口を都市部から地方へと分散させたという。その同じ効果を山崎さんは予測している。高速道路網が便利に使えることによって、まず企業が地方に分散してもやっていけるようになり、企業が地方に行けば、それに伴って人も地方に行くという予想を立てている。
もしそのように地方に人が分散すれば、お盆や正月のたびに都市部から大量の人々が帰省するというシーンもなくなるだろう。また、地方の交通も充実していくようになるのではないかと思う。
自民党の負の遺産は、計画性のない、利権を一番の目的とする政治決定によるものが多いのではないかと思う。民主党政権によってそれが少しでも改革されればと思う。
自民党政権の負の遺産
八ッ場ダムの中止の問題は民主党新政権が苦労しているものの一つだが、これはそもそもの原因が自民党の政治的判断が先の見通しのないずさんなものであったがために起こった問題ではないかと思える。製造計画から50年以上を経てもなおダム本体の工事に着工もしていないという計画は、それが緊急に必要なものではなかったということを証明するようなものではないだろうか。
「八ッ場ダム工事中止の反対論のおかしな論理」のコメント欄で小林とむぼさんから教えてもらった「八ッ場あしたの会」のサイトには、ダム工事を推進する側の主張の間違いが具体的に指摘されている。中止に対する反論は、少なくともこの具体論に対して何らかの反論をするのでなければ、それはあまり信用できないものとなるだろう。
今までの自民党政権を続けるのであれば、この間違いがさらにふくれ続けるだろうと多くの人が判断したからこそ、今回の選挙では、自民党政治を真っ向から批判していた民主党に支持が集まり、自民党政治の流れを止めるためにこそ政権交代が選択されたと僕は受け取っている。
現在の問題のすべては、自民党政治の失政にあり、民主党新政権は、その尻ぬぐいをするだけではなく、問題の根本解決をするという困難な課題を担うように求められている。これは大変気の毒なことではあるが、自民党に変わって政権を担うという覚悟で出てきた民主党は、この困難に負けることなくその重責を担わなければならない。また、この困難な問題と取り組むことによって、民主党は本当の意味での政治的な力をつけることになるだろう。困難を先送りすることによっては実力はつかない。民主党にはぜひがんばってもらいたいと思う。
負の遺産として日本中が注目している八ッ場ダム中止の問題では、マスコミによる前原国交相の「まずは中止が前提」という姿勢を批判する論調がある。しかし、これは政権交代ということの意味を考えてみれば、「前提にする」ということが原則であり当然のものではないかと思う。これを、前提とするのではなく白紙の状態で話し合うなどといえば、それは日和見の姿勢であり、困難を先送りするような姿勢として批判されなければならないだろう。日本の政治の中で、大型の公共工事が止まることがなかったのに、それを止めようとする困難に正面から取り組んでいるのが前原大臣の姿のように僕には見える。それは非常に立派で誠実な態度のように僕は感じる。マスコミが語るようなかたくなな堅い姿勢ではないと思う。
この前原大臣のもう一つの難題として出てきたのが、日本航空の経営再建の問題だ。これは、公共工事と企業の経営の問題という、一見違う問題が提出されているように見えるが、実は自民党の失政としてはある共通点があるのを感じる。それは、長期的な見通しのなさと、全体性の把握のない、個別の地域のエゴと利権に偏った自民党の政治家の姿勢による失敗という面だ。
日本航空というのは、日本の航空網を整備するために作られた、国が経営に責任を持っているような会社だった。国営企業のようなものだった。それが民間企業として再スタートしたときに、採算の合わない路線の整理などが出来ずに経営が悪化したという。
日本航空が、純粋の民間企業だったらすでに倒産してもおかしくないような経営状況らしい。だが、日本航空が巨大な企業であるということと、交通という公共的な面を持っている会社だということで、それをつぶすことが出来ないということが、困難な問題として浮かび上がっているらしい。
テレビのニュースでは、その象徴として長野の松本空港のことを報じていたようだった。ちょっとしか見なかったので細かいところまでは覚えていないのだが、その建設費は約350億をかけたと言っていたようだった。ところが毎日の発着便は大変少ないということも言っていた。「信州まつもと空港」のホームページを見ると、一日の出発便も到着便もそれぞれ3便しか書いてなかった。大阪・札幌・福岡へ行く便がそれぞれ一つずつだ。350億円かけて作った空港が、一日これだけの便しか飛ばないというのは、それで建設の目的が果たされているのだろうか。
そもそも、長野の人にとって航空機を利用すると言うことにどれくらいの利便性があるのだろうか。人口規模から言っても都市部の人口とは比べものにならないくらい少ないのではないだろうか。絶対的な利用客数の数は空港を作るのに見合うような予測をしていたのだろうか。また、この空港へのアクセスについては、長野県公式ホームページの「信州まつもと空港」というところにバスの時刻表が出ていたが、乗り換えをして2時間以上(3時間近く)かかるようなものだった。このように不便な空港で、多少早く到着すると言っても、誰が飛行機など使うだろうか。飛行機は、電車などと違って1時間近く前から空港に行っていなければならない。利便性はないのではないだろうか。
このような空港であるから、とても採算がとれないと言うことなのだろうか、この空港で飛んでいる飛行機は日本航空のものしかない。他の民間企業はとても飛行機は飛ばせないという判断ではないだろうか。
ではなぜ日本航空は、このような空港でも飛行機を飛ばすのか。それは日本航空という企業が、自民党政治との癒着の強い企業だったからではないかというのがニュースを見て受けた印象だ。日本航空の経営は、最終的には自民党政府が何とかしてくれるから、多少の無理をしてでも政治家の要請に応えようとしているという感じだろうか。それではなぜ政治家が、このような利便性のない空港に飛行機を飛ばすように要請するかと言えば、それはそこに空港を作ってしまったからという他はない。もし日本航空が飛行機を飛ばさなかったら、まつもと空港では発着する飛行機がなくなってしまい、空港を閉鎖せざるを得なくなってしまう。もしそうなったら、誰の目にも、それ(空港建設)が無駄な公共工事であることがわかってしまう。それを避けるために、自民党の政治家は、何とか飛行機を飛ばすことを要請したのだろう。そして、そういう政治との持ちつ持たれつの関係が日本航空にあったので、今日の経営悪化を招いていると言えそうだ。
まつもと空港だけでなく、ある一時期に全国に大きな空港が次々に作られた頃があった。本当に必要かどうかが疑問視されているにもかかわらず、それらの建設は続けられた。飛行機は、電車や車と違って日常生活に不可欠だと言うほどの交通機関ではない。狭い日本の国内で、それほどたくさんの飛行機が飛ぶ必要はおそらくないだろう。この工事は大部分が無駄な公共工事だったに違いない。だが、それはとどまることがなかった。
それは、自民党政治というものが、地方に公共工事を持って行って、それで地方にお金を落とし、政治家には地方の票が入るということで物事が回っていたからだった。それは、日本全体の国家の発展という観点は全く度外視されていた。また、高度経済成長の頃は、そのサイクルがいつか終わりが来るなどということを誰も予測していなかったのかもしれない。だが、いつまでも金が回り続けるということはなかった。その破綻が今起きているのだろう。
日本航空の再建問題は、いくつかの地方の空港が廃墟になるという痛みを伴うものになるのではないだろうか。それは、八ッ場ダムの工事中止現場が、もしかすると廃墟のようになるかもしれないという痛みと共通するものではないかと思う。見通しのない、ただ単に金を落とすことが目的だった無駄な工事が、その廃墟化の原因だと思う。この痛みの最大の責任者は自民党の政治家だ。民主党はその尻ぬぐいをしているに過ぎない。もちろん、廃墟になるという痛みを避けて、何とかいい方向での解決が出来れば誰もが幸せになるのだろうが、これまでのツケを払うということが全く避けられぬ以上、何らかの痛みは覚悟して受け入れなければならないだろう。これは偽の改革だった小泉政権の時の痛みとは質が違うものではないかと思う。小泉政権では、痛みを特定の層に押しつけて、利権にぶら下がっている人間は、かえって私腹を肥やした感じがするが、今度の民主党が選択する痛みは、本当の意味での再建のための痛みになるのではないかと感じている。それを国民の一人一人は見ていかなければならないだろう。
日本航空の再建問題は、地方の空港建設という無駄な公共工事とつながっているように思う。八ッ場ダムの問題も、その利便性という問題で、やがては地方に負担だけがかかるような無駄なものになるのではないだろうか。八ッ場ダムをやめるということは、この無駄なサイクルによる負担の増大を押しとどめるという意味で非常に重要なものではないかと思う。
以前にサブプライムローンの問題の時に、こんな話を聞いたことがある。サブプライムローンは、最初の3年くらいが低金利で、ほとんど利息だけの支払いで何とか生活していけるという。しかしその後は金利が上がるので返済が難しくなるような構造を持っていたという。そこで借金をしている人たちは、3年ごとに借金を借り換えてまた低金利のサブプライムローンで生活を続けるということで生活の破綻を免れていたという。
これは、3年で購入した住宅を転売して、それで最初の借金を返して、また新たな借金で家を購入するという繰り返しだったそうだ。これは、そのようにしてお金が回っていれば、つまり家が常に売れるという状態が続くことを意味しているが、誰もが幸せという仕組みだった。しかし、ひとたび家が売れないということで、お金が回るのが止まることが起これば、すべてが破綻するという仕組みでもあった。
家が売れなければ、サブプライムローンの借り手は最初の借金が返せない。そうすると4年目くらいからは高金利の返せない借金に苦しむことになる。そのようなことが起これば、そのように危険な家にはますます買い手がつかなくなり、家の値段は下がる。最後は巨額な借金だけが残って、サブプライムローンの借り手は生活が破綻し、それに投資している人々も大きな損害を被るということになる。
いつかは金の流れが止まるということは多くの人が感じていた。だが、それが起こる前にこの流れを止められる人は誰もいなかった。自民党政府が作ってきた、金が回るシステム(公共工事によって地方に金をばらまくというもの)も、その金がいつかは止まるという予測は誰にでも出来ただろう。しかし、それは誰にも止められなかった。もっと早くその流れを止めていれば、今のような大きな痛みを伴う破綻はなかったかもしれない。小泉改革が偽の改革だと思うのは、この破綻の流れが止められなかったからだ。
民主党政権になって、ようやくこの流れがストップしようとしている。今この流れを止めなければ、後になればなるほど痛みは大きくなるのではないかと思う。先の見通しのない、利権を獲得するためだけの金の流れを止めること、これこそが民主党政権の大きな使命ではないかと思う。
誰のための無料化か?
ニュースステイションの報道で、渋滞の高速道路の利用者の声を伝えているものがあった。その声の一つに、「行楽に行く余裕のある人たちのために無料化をしなくてもいいんじゃないか(むしろ、そういう人たちからは金を取った方がいいというニュアンスを感じた)」というものがあった。これなどは、無料化になって、今の1000円の時以上の渋滞になってはたまらない、という気持ちが込められているのを感じた。
これは、無料化というのが、いったい誰のためにやるのかということが間違って伝えられていることの現れではないかと強く感じた。今の休日の1000円を上限とする割引というのは、普通乗用車が対象であるから、確かに行楽客のための割引になっている。だから、この連休に渋滞が起こることは十分予想されたことで、渋滞を前提としてこの割引がなされているといってもいいだろう。
高速道路が無料化されるというときも、対象が行楽客のみになるのであれば、この報道にあったような利用者の懸念が現実のものとなるだろう。しかし、無料化というのはそもそも、高くて全く利用されていない地方の高速道路を、生活の利便性をあげるために無料化するということが本質的な目的なのだ。行楽客の利益のために無料化するのではない。
休日が渋滞するのなら、仕事で高速道路を利用する人は、休日には仕事を入れないようにするだけのことだろう。無料化されてもそれは同じだ。もし渋滞がいやなら、行楽客はそれこそ、行楽に行く予定を休日に入れなければいいだけのことだ。
高速道路の無料化は、大金をつぎ込んで作った地方の高速道路が全く使われていないという、この不合理をまず解消することが目的だ。そして、この不合理を解消することが、道路に関係する利権を壊す第一歩になる。というものが山崎養世さんが展開する論理だ。
全く使われていない高速道路が効率的に使われることによって、物流の輸送にまず影響が出るだろう。その次は、自動車による行動範囲が広がることによって住環境が地方に分散するという効果が期待できる。
行楽に行く余裕がある人からは通行料を取ってもいいという人が多いなら、今と逆に、平日には無料にし、休日に料金を取るようにすればいいのではないかとも思うが、そのときは料金所の設置などで効率が下がることを計算すると、すべてを無料にする方がいいだろうと思う。問題は、休日の渋滞が常態化するようなら、利用者がそれに賢く対処するということも必要ではないかと思うだけだ。誰もが休日に自動車を使って行楽に出かける必要はないのではないかと僕は思う。無料になれば、そのときに行かなければ得をしないなどということもなくなるのだから。
高速道路の無料化は、今のように1000円割引を使っている人のために無料化するのではないのに、どうしてそのような人たちに、この政策の賛否を聞くのだろうか。反対の声を出させたいがために聞いているのではないかとも感じてしまう。これはマスコミの世論操作ではないのだろうか。