2007-03-01から1ヶ月間の記事一覧

埋葬記録への疑問

『「南京事件」の探求』という本の中で著者の北村稔さんは次のように書いている。 「中国語の同時代資料も、「30万人の大虐殺」を彷彿させるものではなかった。かえって、「想像以上に落ち着いていた南京」を垣間見せるものであった。それにもかかわらず、戦…

3000人という数字の重み

「資料:「犠牲者数」をめぐる諸論」というページに、「雑誌「偕行」の「証言による南京戦史」最終回に掲載された、加登川氏の見解」というものが紹介されている。ここでは、実際に南京の戦闘に参加した日本軍兵士の体験をもとに、南京で何があったのかを証言…

数字を語ることに意味がないと思いながらも、あえてこだわって語る

「南京大虐殺」と呼ばれる出来事について、そこで虐殺された人々の数が30万人だったという言説は、すでに完全に否定されているものだと僕は思っていた。少なくとも、この数字に蓋然性がないということは、立場を越えて明らかにされていると思っていた。だか…

数値データを語ることについて

以前のエントリーで、僕は本多勝一さんの次のような文章を引用した。 「末子の弟は、まだ満なら一歳あまりの赤ん坊だった。空腹のあまり、母乳を求めて大声で泣いた。ろくな食物がないから、母乳は出ない。運悪く10人ほどの日本兵の隊列が土手の道を通りか…

「南京大虐殺」30万人説について

南京事件に関連して、虐殺された人の数が30万人だというのは、その数字の出し方も曖昧にされているし荒唐無稽な「白髪三千条」という比喩的な意味しか持たない、ということで「蓋然性」が低いという議論をしてきたのだが、どうも議論がかみ合わないのを感じて…

だますこと・だまされること

板倉聖宣さんが、『物の見方考え方第2集』(季節社)の中で手品とトリックの違いについて書いていた。どちらも「だますこと」に関連して結果的に人を欺くことになるのだが、手品の場合は始めからそれが嘘であることを宣言して人を欺くトリックになっている。…

論理の理解は難しい

南京で虐殺された人々が30万人もいたということに「蓋然性」がないというのは、簡単な論理の問題だと思ったのだが、なかなか論理というのは理解が難しいものだなと思う。僕は、宮台真司氏が「南京大虐殺はなかった」というような言説を語ったときに、かなりの…

「差別」はすべていけないことか

僕は、「差別糾弾主義者」に対して、その「差別」の糾弾の仕方に不当性を感じていた。彼らの主張の一部に正しいものが含まれていたとしても、その糾弾の仕方では、糾弾される当の対立者にはもちろんのこと、それを眺めている第三者からも反感をもたれて支持はさ…

「論理的」とはどういうことか

論理というものに慣れていない人は、「論理的」という意味を勘違いして使っているのではないかと思うときがしばしばある。日本の学校教育では論理についての教育をしないので、論理を知らない人のほうが大部分だと思うが、論理というのは、基本的に推論の部分…

南京における虐殺という現象を「言語ゲーム」的に考えてみる

本多勝一さんの『中国の旅』から南京事件に関する記述を拾って、そこでの「虐殺」の現象がどのように考えられるかを、「言語ゲーム」的な発想で考えてみようかと思う。「言語ゲーム」の概念については、まだ充分わかったわけではないが、真理の決定における言語…

「蓋然性」は論理の問題

ある事柄に対してその信憑性が高いとか、それが存在する確率が高いという判断は、何か別の事実やデータを持ち出してそれを根拠に主張することではない。事実というのは、論理的に言えば真理のことであるから、真理であれば100%確かでなければならない。…

「南京大虐殺」はあったのか?

宮台真司氏が「南京大虐殺」というものに疑問を呈して、それが「なかった」と受け取れるような発言をしたときに僕は大きな違和感を感じていた。しかし、その「なかった」という意味は、「南京大虐殺」そのものを否定するいわゆる「否定派」と呼ばれる人々の…

「言語ゲーム」の本質

ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という考え方はとても分かりにくい。つかみ所のないものという感じがする。この難しい概念を理解するために、本質という面からこの対象に近づいたらどうだろうかと考えてみた。どのような対象が「言語ゲーム」と呼ばれ、ど…

武谷三段階論における「本質」

武谷三男さんの三段階論を辞書で引くと「科学的認識は「現象論・実体論・本質論」の三段階を経ながら発展するとしたもの」という説明があった。ここに書かれている「本質論」の「本質」とはいったいどのようなものを指すのだろうか。それは、「現象」や「実…

「言語」の本質とは何か

三浦つとむさんは、『日本語はどういう言語か』という本で、言語の本質を語る際に、絵画や映画との比較から始めている。これは、表現一般というものをまず考えて、言語もそのような表現の一種としての性格を持っていることを前提として、それではそのような…

立場によって「真理」は違うか

本多勝一さんは、かつて「事実と「真実」と真理と本質」という文章で、これらの言葉を比較して、その意味を論じたことがあった。そのときに、これらの言葉の辞書的な意味を調べた部分で次のように書いていた。 「そこで平凡社の『哲学辞典』を引いてみますと…

「本質」とは何か

「社会科学の科学性について」というエントリーにコメントをもらった佐佐木晃彦さんの「② <本質=関係>把握としての弁証法」というページを訪ねてみた。三浦つとむさんから学んだというその内容はたいへん興味深かった。ここで語られている内容そのものも…

蓋然性の問題

宮台真司氏が、以前に「南京大虐殺はなかった」というような発言をしたことがあった。これに対して僕は、かなり大きい違和感を感じたのだが、単なる感情的な「愛国心」からこのような言葉が出てきたのではなく、宮台氏が言うからには、何らかの確たる根拠が…

「疎外」が生む問題に対するマルクスの解決

「疎外」という現象は、人間が作り出したものであるにもかかわらず、人間のコントロールの範囲を越えてしまって、それが独自に活動してしまうことによってさまざまな問題を生じるようになる。これをどう解決するかということを考えるのに、とても分かりやす…