2007-10-01から1ヶ月間の記事一覧

集団自決という現象のディテール(細部あるいは末梢的なこと)

夜間中学には日本語学級という、日本語を勉強するクラスがある。今でこそ、そこは外国から日本へ来た人々(結婚で来たり、再婚の母親に呼び寄せられたり、仕事で来日した父親の家族として来たり、その理由はさまざまである)が、日本語の授業を受けるために必…

存在の問題の難しさ−−その弁証法性

「『論理哲学論考』が構想したもの8 複合的概念が指し示すものの存在」のコメント欄に、Kさんという方からのコメントが送られてきた。僕は、このコメントを見たとき、最初は「揚げ足取り」をしてきたのではないかという印象をもった。だから、このコメントを…

「存在」という属性

野矢茂樹さんは直接書いていないのだが、「存在」という属性をどう捉えるかというのを、単純なものと複合的なものという発想からの応用問題として考えてみようと思う。野矢さんの解説によれば、ウィトゲンシュタインが真に存在するとして考えたのは、指し示す…

「事実」とその「解釈」について

沖縄の集団自決という深刻な問題についてちょっと触れたので、何らかの反応が返ってくるかと思ったが、それにちょっと疑問を差し挟んだだけで罵倒するようなコメントが送られてきた。このコメントについては、論理的な対話など出来ないと判断したので反映さ…

『論理哲学論考』が構想したもの8  複合的概念が指し示すものの存在

ウィトゲンシュタインの世界においては、「事実」から切り出されてくる「対象」は単純なものに限られていた。それは、その「対象」の像として設定される「名」という言語表現が、論理空間を作る要素として取り出されるからだ。現実世界から論理空間を作り出すとき、…

『論理哲学論考』が構想したもの7  対象の単純性について

ウィトゲンシュタインが「対象」の単純性について語っていることを理解するのは案外難しいのではないかと感じる。それは、存在という属性をどう捉えるかということと深く関わってくる。「対象」というのは、世界を構成する「事実」から切り出されてきた要素として…

論理語「ならば」の考察−−必然性あるいは因果律について

論理語「ならば」について野矢茂樹さんが『『論理哲学論考』を読む』で語っているのは、その真理領域の関係についてだ。「AならばB」という命題があったとき、Aを真理とする状況である真理領域が、Bを真理とする状況であるBの真理領域にすべて含まれて…

弁証法における矛盾

shさんという方から「『論理哲学論考』が構想したもの6 論理語は「名」ではない」のコメント欄に、弁証法における矛盾という概念に対する違和感を語るコメントをもらった。僕も形式論理からスタートした人間だけに、若いころは弁証法が語る矛盾に大きな違和感…

『論理哲学論考』が構想したもの6 論理語は「名」ではない

野矢茂樹さんは、『『論理哲学論考』を読む』の中で、否定を表す「ない」について、それが現実に「対象」を持たないことを指摘していた。これは現実に「対象」を持たないので、「対象」の像として定義されている「名」ではないこともそこで指摘されている。…

『論理哲学論考』が構想したもの5 論理空間における否定

野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』では、否定の「ない」という言葉は「名」ではないという考察がされていた。つまり、否定表現に相当するような「対象」が現実に存在しないということが指摘されていた。否定は、「事実」から「対象」が切り出され、…

『論理哲学論考』が構想したもの4 ラッセルのパラドックスの解決

ウィトゲンシュタインが語るラッセルのパラドックスの解決は、数理論理学を勉強してきた人間にとっては実に意外な展開での解決になる。ラッセル自身は、タイプ理論というものを創設して、パラドックスの原因となるものを排除することでこのパラドックスを解…

『論理哲学論考』が構想したもの3 「事実」と「事態」(現実性と可能性)

ウィトゲンシュタインは、現実の「事実」というものから出発して、まだ現実化してはいないが、その可能性があるものを見るということを思考の働きとして想定しているように感じる。人間の認識の積極面を思考というものに見ているようだ。そして、思考の限界…

『論理哲学論考』が構想したもの2 可能性の世界としての論理空間

ウィトゲンシュタインは、現実世界を出発点として、そこから思考の原理を引き出そうとする。この現実世界は、「事実」を集めたものとして想定され、物という「個体」を集めたものとは考えられていない。野矢茂樹さんは、『『論理哲学論考』を読む』という本の中…

『論理哲学論考』が構想したもの1 事実とその対象への解体

野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』という本を頼りに、ウィトゲンシュタインが構想した世界の全体像の把握というものを考えてみたいと思う。ウィトゲンシュタインのような天才と同じ考えをもつというのは、かなり無謀な目標のように思われるかもしれ…

論理の正しさはア・プリオリ(先験的)なものか?

僕は以前は、論理の正しさといえどもそれはやはり経験から得られるものだと思っていた。論理は、この世界の捉え方として、最高度の抽象ではあるが、それは現実を捉えたものであることは確かだから、論理は現実との一致を究極の目標として展開されるものだと…

属性の帰属先としての存在

シカゴ・ブルースさんから送られてきた「0の概念・マイナスの概念」と「概念は「言語」に先立つ(5)」というトラックバックを読み返すと、どうも議論がかみ合っていないなというのを感じる。おそらくシカゴ・ブルースさんも同じように感じているのではないか…

貧困で幸せはあり得ないか?

今週配信されているマル激では貧困の問題が議論されている。現代日本の深刻な問題は、「格差」ではなくて「貧困」だという指摘がそこではされている。この指摘は非常に説得力のあるもので、問題が「格差」ではなくて「貧困」だと設定しなおされれば、それは僕にとっ…

ウィトゲンシュタインの論理空間

野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』という本によれば、『論理哲学論考』におけるウィトゲンシュタインの論理空間というのは、意味を持つすべての命題を寄せ集めたものというイメージで読み取れる。ウィトゲンシュタインは、これらの命題を「事態」と…

先験主義(アプリオリズム)の間違い

シカゴブルースさんから「マイナス概念の形成」というトラックバックをもらった。この中で、シカゴ・ブルースさんは、僕の「数学的法則性とその現実への適用」というエントリーの中で語っている、「マイナスというものがそもそも想像上の対象である」ことと、…

微分が運動の表現であることについて

微分という数学の計算が運動の表現であることは、ある意味では自明のことだとも思われる。それは、ニュートンが自らの力学の解析に利用するために発明した計算であり、ニュートン力学は、動力学として運動の解析をするものだからだ。だから、その生まれてき…