戦後民主主義教育の欠陥はアメリカの民主主義教育の欠陥と同じだった


昨日のメーデーの集会の帰りに寄った書店で刺激的で面白い本を見つけた。『バカをつくる学校』(成甲書房)という本で、著者はジョン・テイラー・ガットという、ニューヨーク州で最優秀教師として表彰された人だ。ここではアメリカの義務教育学校が批判されているのだが、その批判がそっくりそのまま日本の学校に当てはまるのを見て驚いた。

僕は、小室直樹氏の指摘によって、戦後民主主義教育の欠陥というものを考えるようになったのだが、それは日本だけの特殊な状況ではなかったのだ。実は、日本が手本にしたアメリカの民主主義教育にそもそも欠陥があったために、その忠実なコピーとしての日本の教育にもそっくりそのまま欠陥が移されてしまったというのが、戦後民主主義教育の正しい理解ではないかと感じた。

ジョン・テイラー・ガットさんの、教師としての体験からくる欠陥の指摘は実に的確で、僕も教育の現場にいてそれを常に感じていたので、この本が非常に説得力を持っていると思った。しかし、この指摘は教育の現場にいる人間からはおよそ出てくることのないものではないかという思いも抱いていた。僕は、このような感覚を持っている人間は現場では圧倒的少数派だと思っていたのだ。

教育現場をよく知っていて、外からそれを眺めている人間にとっては、この指摘は実に見えやすい・分かりやすいものではないかと思う。教育現場にいる人間にとって見えにくいのは、自らがその欠陥の維持のシステムの中にいて、それを指摘することは、自らの仕事の価値を否定することになるからではないかと思う。善意の努力が、実は地獄への道を敷き詰めているのではないかというのはなかなか悟れるものではない。日本では現場の中からこのような主張が出てこないのに、アメリカでは最も優秀な教師がこのような革命的な指摘を行っている。最も優秀だからこそ指摘しているのかもしれないが。アメリカという国のすごさを感じるところだ。

日本では今、学力低下が本当にあったのかどうかという論争があるようだ。これはおそらくデータを取るだけでは結論が出ないのではないかと思う。内田さんのブログには、共通一次試験の平均点が毎年1点ずつ下がっているというような記述があった。このデータを元にすれば、学力低下は明らかではないかとも思われる。しかし、一方では世界的なレベルでの学力試験の比較ではそれほど日本は落ちていないという声もあがっている。必ずしも学力低下の傾向を示していないデータもあるようなのだ。

教育の現場にいると、テストの結果に現れる学力面よりも、子どもたちの学習に対するモチベーションの低下が著しいのを感じる。これを学力の要素に組み入れるなら、明らかに学力は低下しているという感じもする。しかし、これは板倉さんが指摘しているように、大衆教育の時代に入ったのに、かつての古臭いエリート教育と同じシステムで教育をしていることの欠陥であって、子供たち自身の能力が低下したわけではないという解釈も出来る。時代遅れのエリート教育ではなく、新しい時代にふさわしい教育の創造に失敗したとも言えるだろう。

ジョン・テイラー・ガットさんの指摘を見ていると、そこで語られているのは義務教育学校の欠陥だ。これはより抽象化して言えば、大衆教育の欠陥ということができるだろう。アメリカという国の統治権力が、大衆に期待している資質を教育する学校として義務教育学校を考えた場合、大衆がバカであってくれたほうが都合がいいという意図がかなり見えるようなのだ。アメリカにおける「バカをつくる学校」は、努力したにもかかわらず結果的に間違った教育をしてバカをつくってしまったというのではなく、かなり意図的にバカをつくっているようなところがあるのを感じる。

そもそもアメリカの民主主義というのが、実は資本主義の繁栄を支えるような社会を維持することを目的としているのではないかいう感じもする。資本主義の繁栄のためには、自分の生活を反省して自分の頭でよく考える人間よりも、刺激に対して単純に反応して気分的に快感を得ることを好むような消費者が多くいたほうが、資本主義的な大量消費のためには都合がいい。

民主主義教育の欠陥は、資本主義の物質的豊かさを維持しようとする意図を単純に捉えるところから生じるのではないかと思える。おそらくその欠陥を埋める部分がエリート教育の中にあるのではないかと思う。それは、かつて先進国に追いつこうとして暗記教育に偏った日本の古いエリート教育ではなく、先駆者としての意識と実績を正しく反映したエリート教育にならなければならないのではないかと思う。

資本主義的な豊かさを単純に肯定すれば、「バカをつくる学校」としての大衆教育にならざるを得ないのではないだろうか。資本主義の発展と維持のためには、少数のエリートと大多数のバカな大衆をどうしても必要としているのだろうか。もしそうであれば、資本主義的な豊かさというのは、必ずしも人間を幸せにはしないといえるだろう。

イタリアの古い映画の「鉄道員」に描かれていたのは、貧しいながらも自分の仕事に誇りを持ち、心の通い合った仲間とのひと時を楽しみ、毎日の生活の中で互いに尊敬しあう家族が存在するというものだった。それは、「貧しいながらも楽しい我が家」と呼べる姿が理想的に描かれていた。最新のきれいな家に住んで、物質的にはるかに豊かな生活をしている先進資本主義国の人間よりも、映画「鉄道員」の中の人々のほうが明らかにはるかに幸せそうだった。

資本主義的な豊かさはシステム的に再生産されている。その再生産の過程で、「バカをつくる学校」がその基礎をまた再生産するというシステムを担っている。このシステムに抗うのはとてつもなく難しいだろう。まさに革命を必要としている。どこかで豊かさの追求をやめない限りこのシステムを変えることは不可能ではないかとも思える。

奇妙な符号として、「バカをつくる学校」の構造は、崩壊した社会主義国家の社会体制とそっくりだというのを感じる。崩壊した社会主義国家でも国民は自分の頭で考えることが出来ないような社会システムを持っていた。自分の頭でものを考える人間は、反体制・反国家的な人間として弾圧されてきた。

このような国民は、一見統治権力にとっては実に都合のいい国民のように見える。しかし、社会主義国の末路を見ると、このような国民が国力の低下を招き、もはや国家として存続不可能なくらいに疲弊して、これ異常ないくらいひどい状態になってから革命的に国家が倒れるという過程を経て社会主義国は崩壊した。

社会主義国の社会構造にそっくりな「バカをつくる学校」の構造は、それをどこかで変革しないと、社会主義国の末路と同じ状況を作り出すのではないだろうか。一握りのエリートでコントロールできると高をくくっていると、カリスマ的な指導者に酔った大衆が、エリートの指導など顧みずに破滅への道を進むというのは、かつてのファシズムの道が示していたのではないだろうか。

バカをつくる大衆教育は変えられなければならないと思う。大衆の中にもスペシャリストをつくるようなエリート教育が必要なのではないだろうか。かつて、貧しいながらも自分の仕事に誇りを持っていた人々がいたように、特別の分野では指導的立場に立てる大衆を育てるという教育が、今の「バカをつくる学校」を克服するためには必要なのではないだろうか。

日本の教育制度のように、単一のモノサシで序列化して、そのモノサシで評価されたもののみがエリートになり、落ちこぼれたものは大量の「バカな大衆」になるように運命付けられた教育は、未来においてはかえって資本主義を衰退させるようになるのではないだろうか。

この本は実に刺激的で面白い。書かれている内容のすべてが考察に値すると感じる。これから細かく一つずつ取り上げて考えていきたいと思うが、まずは冒頭に書かれている義務教育学校の欠陥としての「一貫性のなさ」の指摘を紹介しよう。この本では次のように書かれている。

「実際、私の教えることにはまったく脈絡がない。何もかもがバラバラで、めちゃくちゃである。惑星の軌道、大数の法則奴隷制、形容詞、設計図、ダンス、体育館、合唱、集会、びっくりゲスト、避難訓練、コンピューター言語、保護者会、教員研修、個別プログラム、ガイダンス、実社会ではあり得ない年齢別のクラス……。いったいここにどんな一貫性があるというのだろう。」


ここでの指摘は、学校で教えていることの全体を把握して、その横のつながりを考える人間がいないということの指摘だと思う。それぞれの教科は、その教科にとって大事なことを教えようとする。これは、教科に携わる人間の利権でもある。教員はまさに当事者としてそうだし、教科書を執筆する人間や、問題集を作成する会社なども大きな利権を持っているだろう。その利権を小さくするようなことはあまり行われない。そのため、かなり無駄な知識だと思われても、学校教育からそれが削られることがない。

僕は、中学校数学の大部分はいらないと思っている。義務教育の学校が大衆が学ぶ学校という意味で考えるなら、専門的な知識は要らないと思う。むしろ基本的なものの考え方をもっと深く知るべきだろう。それこそが大衆の中にエリートを作り出す基礎になるものだ。基本的なものの考え方を深め、それを基礎にして自分の個性にあった専門分野に進むというのが、大衆教育を基礎にしたエリート教育と呼べるのではないだろうか。

もしそのような過程を経て誕生した大衆が増えれば、専門教育分野においては、誰が真に優れた人間かを判断することも出来るようになるだろう。見かけにだまされるのではなく、本当の実力を持った人間が指導的立場につくようなシステムが誕生することが期待できる。今の大衆教育では、まったく専門を持たない、ものの考え方の基礎訓練がされていない大衆を生み出しているので、見かけにだまされた見栄えのする指導者に酔いしれてしまうような状況が生まれる。ファシズムにとっては実に都合のいい状況だろう。

民主主義教育は本質的な欠陥を持っている。すばらしいものでもなんでもない。学校がいやだった自分の気持ちは正しかったと、この本を読んでそれに確信が持てた。さらに批判の細かい部分を読み込んで、抽象論としての民主主義教育の欠陥が、現実の日本の戦後民主主義教育にどのように現れているかを考えてみようかと思う。