テレビ報道の二流性

今朝テレビのニュースを見ていたら、川崎でのマンションから男児を投げ落としたという事件の報道をしていた。容疑者として逮捕された男が、いかに理解しがたいひどい男であるかというのを分かりやすく報道していた。僕はここに二流性を感じる。

ひどい犯罪を犯したのだから、ひどい面があるのが当たり前で、そんなものは探せばいくらでも見つかるだろう。あれほどのひどい犯罪を犯さない普通の人だって、叩けば埃くらい出るのだから、犯罪を犯した人間が何もひどい面がなかったとしたら、それこそ理解不可能な出来事になってしまう。

テレビの報道は、あの事件を単純に理解するためには実に有効な報道だと思った。ひどいやつがひどい事件を起こした。犯人は、理解しがたい非人間的な男だ、そう受け止めていればかなりの人が落ち着くのではないかと思う。しかし、人々を落ち着かせたからと言って、この報道は現代社会をより深く理解するためのはまったく役に立たない。

理解出来ないくらい変なことをするやつは、やっぱり変なやつだったという同語反復を納得するだけではないのだろうか。一流のジャーナリズムだったら、一見理解不可能に見えるような不可解な現象に、何とか道筋をつけて、それを整合的に理解するきっかけを作ってくれるものでなければならないのではないか。

彼の「心の闇」と表現されていたものを、現代社会のゆがみと関連させて、ゆがみの方こそを浮かび上がらせる一流の言説がないものかと思う。それは、ゆがみがあるから、彼の責任を軽くせよという主張ではない。そのゆがみは、彼だけではなく、すべての人に襲いかかる可能性があるからこそ、社会的に明らかにすることに意義があると思うからだ。

ゆがみに気づかずに、単に変なやつが変なことをしたと理解するだけでは、再び弱者がそのゆがみを引き受けたとき、同じような事件が繰り返されるだろう。いや、この事件が起こったことは、すでに同じことの繰り返しではないのか。同じような事件を起こした容疑者は、すべて社会のゆがみを引き受けた弱者のように僕には見えるのだが、テレビの報道はそのゆがみの方にはまったく目を向けていないように感じる。その点に僕は二流性を感じる。誰もが考えることと同じことを報道しても仕方がないと思うのだが、それが視聴率を稼げると思えば、そうしていくのがテレビなんだろうなと思う。