敵対的矛盾の考察
弁証法的な矛盾に関して、非敵対的矛盾というのは現実に観察できる・現実に存在する矛盾としてとらえられていた。それは視点をずらしたときの見え方を並べることで、二つの主張が対立して矛盾を形成しているように見えるけれど、違う見え方を述べたのであるから形式論理的な矛盾ではない。つまり肯定と否定が同時に成り立っているという現象が現実に現れているわけではない。形式論理的な矛盾というのは、決して見つけることが出来ない。なぜならば、肯定が正しくないときにのみ否定が主張されるというのが形式論理だからだ。それが同時に成り立つようなら、それは否定の定義に反するのであって、その現象を否定とは呼ばない。
実際には、非敵対的矛盾として提出されているものはすべて視点の違いで解釈できる。三浦つとむさんは非敵対的矛盾を調和する矛盾と呼んだが、これは現実存在というのは、視点を変えれば違う見え方をするというのを「調和」と呼んだのだと思う。三浦さんは「前進している」と同時に「前進していない」という矛盾を、ベルトコンベアと反対方向に移動するという例で実現する敵対的矛盾の例を『弁証法はどういう科学か』で提出していた。
この矛盾は対象としてはつまらない矛盾だが、視点の違いを考えるのは適当にやさしい例となっている。歩いている本人から見ればそれは前進していると考えられる。しかしそれを外から眺めている人にとっては、ベルトコンベアの流れの方が早ければ後退しているように見えるし、ちょうど同じ早さなら静止しているように見える。いずれにしても前進してはいないと言えるだろう。だがこれは同時に同じ視点で実現しているのではない。それぞれの視点で見るとそう見えるというだけで、形式論理的な矛盾になってはいない。
これに対して敵対的矛盾というのは、現実にそれが実現されているわけではない。なぜならこれは形式論理的な矛盾になるからだ。非敵対的矛盾は現実に見つけることが出来るが、敵対的矛盾が現実に存在すると考えるのは形容矛盾になる。それは合理的にはとらえられないのだ。しかし、現実にそのような敵対する勢力の間に矛盾が存在するというように見える場合があるのではないかと思えるような対象もある。
毛沢東の有名な言葉に、
「敵・味方の間の矛盾は敵対的矛盾である。人民内部の矛盾は、人民の利益の根本的一致を基として生じた矛盾である。」
というものがあるそうだ。毛沢東は、敵と味方の間の矛盾というものを敵対的矛盾と呼んでいる。しかしこれは実は矛盾(形式論理的な)ではないと僕は思う。敵と味方の間には利害の対立がある。敵にとって利益となるものは味方にとっては損害であり、これは同じ視点で対立するものとして判断される。敵が利益を得るなら、同時に味方は損害を受けている。損害は「利益ではない」という意味で利益に関する肯定と否定が同時に見つかる。
しかし、これは敵にとっての「利益」と味方にとっての「損害」ということなので、誰にとってのものかという視点を考えると、これは時間的には同時に起こっているものの、論理的な前提としては同じではないので、形式論理的な矛盾と考えることは出来ない。形式論理的な矛盾としてとらえられるのは、敵にとって「利益」であると同時に「損害」であるという現象が見られるかどうかということだ。これも、視点をずらせばそのような解釈は出来るかもしれないが、論理的な前提を同じものに設定すれば、そのような現象は見つけることが出来ない。敵対的矛盾と見えるものは、決して実現しない。それは形式論理的な矛盾だからだ。
敵対的矛盾に関しては、それは闘争によって敵対的なものを打ち破ることによって解決される、といわれる。これは形式論理的に考えれば、矛盾を解消したのではなくて、排中律を基礎にして、一方が成り立っている状況を、その一方を消してしまったのでもう一方が実現されたと見た方が正しいだろう。排中律は矛盾と関係があるが矛盾そのものではない。形式論理では矛盾は存在できない。もし矛盾が存在してしまえば、どのような命題も論理的に正当であることを主張できてしまう。そこで克服されているのは矛盾ではなく、排中律の一方が現実にはないものとして、つまり偽であるとして排除されていると解釈した方がいい。
敵の利益と損害に関していえば、形式論理的な排中律では次のようになる。
<敵の利益である> または <敵の利益でない(損害だ)>
ということが必ず成り立つ、というものが排中律の主張だ。肯定か否定のどちらかが成り立つ。同時に成り立ってはいけない。それは矛盾になるからだ。このうち、<敵の利益である>を打ち破ることが出来れば、可能性として残っているのは<敵の利益でない>、つまり味方の利益になるということだけだ。これが毛沢東のいう敵対的矛盾の解決というものになるだろう。
敵対的矛盾というのは、利害が対立して困った状態だと認識した方がいいだろう。板倉さんも『新哲学入門』という本で次のように書いている。
「「社会の矛盾」という言葉の好きな人がいます。たとえば、「今の世の中は、金持ちはますます豊かになり、貧乏人はますます貧しくなるようになっている。このような社会の矛盾を何とかしなければならない」などというのです。しかしその場合、どんな矛盾が生じているというのでしょう。「金持ちがますます豊かになり、貧乏人がますます貧しくなる」というのは、確かに困ったことです。そういう状態が続くと、貧しい人々の間に不満が鬱積して、社会不安の元にもなり、豊かな人々にとっても、住みにくい社会になる恐れがあるからです。しかし、そういう問題は、ただ「困った問題だ」といえばいいので、それを何も「矛盾だ」などといわなくていいでしょう。矛盾という言葉は、例の「矛と盾」のように、「こちらを立てればあちらが立たず」というような場合にだけ使うべきだと思うのです。困った問題があったら、それを一つ一つ解決すればいいわけです。」
この考え方に僕は賛成で、敵対的矛盾という、打ち破らなければならない困った問題は矛盾と呼ぶべきではないと思う。なぜなら、困った問題だと理解する場合と、敵対的矛盾だと理解する場合とでは、その解決法が違ってくるからだ。敵対的矛盾の場合は、毛沢東も主張するように闘争によって相手を打ち破ることになる。だが、この種の「困った問題」は相手を打ち破ればそれで解決するかといえば、そう単純なものではない。単純ではないからこそ「困った問題」になる。
板倉さんは上の文章に続けて次のようなことを書いている。
「しかし、そういう問題を解決しようとすると、時として、本当に「矛盾」と表現したくなるような事態が浮かび上がってくることがあります。たとえば、「貧乏人を豊かにしようとして、金持ちから高い税金を取るようにすると、金持ちがその社会から逃げ去ってしまう。すると、金持ちの経営していた企業が無くなって、貧乏な人たちの働き口もなくなってしまい、かえって貧乏人が困る」というようなことが起きたりするのです。しかし、その場合にしても、「社会が矛盾している」と考えるべきではないでしょう。そういう社会を改善しようとして提出された「その解決法が矛盾した結果を来す」というだけのことと言えるのです。」
貧乏人と金持ちを対立させて敵対矛盾を作り出し、それを闘争によって打ち破るなら、金持ちを金持ちでなくさせることになる。しかし、金持ちがいなくなれば、単に貧乏だという状態だけが残ることになる。これは、貧乏人を貧乏でなくさせたいという目的の解決にはならない。解決したいことが解決にならないという状態が生まれる。これは「解決」に対する矛盾ではなく、単にその「解決」が間違えていたという、形式論理でいえば背理法が成立したということになるだろう。
敵対的矛盾というのは現実に存在しない。それは本当に敵対的矛盾であれば形式論理的な矛盾でもあり、どちらか一方が否定されているだけのことで、実際にはそれを否定したくないので矛盾として見えてくるだけだ。問題は、否定したくないもう一方をどのように肯定判断に持って行くかという工夫をすることだ。この工夫においては、非敵対的矛盾という、違う視点から対立を調和させることが重要になるのではないかと思う。
金持ちと貧乏人の対立においても、貧乏人の利益になることが金持ちにとっては全部損だと考えれば、そこには調和する矛盾を見出すことが出来ない。視点が違えば対立するだけで終わる。しかし、貧乏人を搾り取っておけば金持ちは安泰かといえば、社会全体の安定・秩序という観点からいえば決してそういうことにはならないだろう。テロの問題なども、それをけしからんことと非難して、武力で押さえつけようと思ってもそれで解決されることはない。真の解決は、テロを引き起こす側の人々も人間的で豊かな生活に一歩でも近づくように工夫することしかないだろう。違う視点からどちらの利益にもなることを見出すことが非敵対的矛盾の実現であり解決になる。
三浦さんの本でもそうなのだが、弁証法を解説した本では、非敵対的矛盾はよく語られるが、敵対的矛盾はあまり語られていないのではないだろうか。それは現実に存在するものではないので、実例として取り上げて説明することが出来ないからではないかと思う。
毛沢東のように、敵と味方の間にある対立を敵対的矛盾と呼んでしまうと、一度敵だと見なされた人間は、その敵対的矛盾を解決するためには、味方に変えるように洗脳するか、敵のままであれば抹殺してしまうしかなくなる。社会主義国家は、スターリンにしても信じられないような残酷な粛正を行ったが、敵対的矛盾が実際に存在するという発想からこのようなものが生まれてくる必然性があるのではないかと思う。
現代中国においては、この毛沢東の発想はどうなっているだろうか。敵との間の対立はやはり敵対的矛盾になっているのだろうか。中国共産党の方針を批判するものは、敵対者として打ち破るべき矛盾の元凶ととらえられてしまうのだろうか。オリンピックの異様な警戒の状況と報道の自由の制限を見る限りでは、毛沢東が考えた敵対的矛盾はまだそこに生き残っているような気もする。敵対的矛盾は、正しく形式論理的に解釈すべきだろう。そこではどのように両立しがたい矛盾がもう一方を否定しているのかという状況を把握すべきだろう。そしてそれが困ったことであるなら、形式論理的な矛盾を解消すること、つまり調和する視点を発見することにこそ努力すべきではないだろうか。調和というのは、社会の秩序を確立する方向だ。敵対を温存して対立の怨念を大きくすべきではないと思う。板倉さんが語っているように、それは「困ったこと」と受け止めて「困った問題があったら、それを一つ一つ解決すればいいわけです」と理解した方がいいだろう。