麻生新総裁誕生の評価について 2


朝日新聞の社説では、麻生新総裁誕生についての評価は、慎重に断定を避ける言い方をしているように見える。「耐用年数が過ぎたか」というふうに疑問文の形で語っている。これは反語的に、「耐用年数は過ぎた」のだという断定的な評価だと受け取った方がいいのだと思うが、反語的なレトリックを使うことによって、ベタに受け取る人は「どっちなのだろう」と迷うかもしれない。朝日新聞の基本的姿勢からいえば、もはや「耐用年数は過ぎた」のだと判断してもいいと思うのだが、ちょっと中途半端な言い方のように聞こえる。

本文の内容では、「自民党政権政党としてもはや耐用年数を過ぎたのではないか。そんな批判が説得力を持って語られている」と書いている。説得力があるという判断をしているのだから、もう自民党ではだめだと言い切ってもいいのではないかと思われるのだが、中立の立場を守らなければならないということなのだろうか、そういう言い方をしていない。

過去に対する認識については

「官僚との癒着、税金の巨額の無駄遣い、信じられない年金管理のずさん、薬害エイズや肝炎の隠蔽(いんぺい)……。効率的で有能と思われてきた日本の行財政システムが機能不全を起こしたかのように、不祥事が止まらなくなっている。

 国土を開発し、豊かな生活を育むはずだった公共事業は、いまや800兆円の借金となって国民の肩にのしかかる。人口が減り、経済はいずれ縮小に転じるかもしれない。そのなかで格差を縮め、世代間の公平を保ちつつ豊かで平和な暮らしを守ることが本当にできるのか。」


という文章から伺えば、日本をこのようにどうしようもなくガタガタにしたのは自民党政治の責任だと主張しているように見える。だから当然のことながら、このような自民党にはもはや政権担当能力はないと判断しても良さそうなのだが、「自民党に政権を託し続けていいのだろうか」という問いかけをするだけでやはり断定的には語らない。左翼的立場を自他共に認めるのならば、ここはきっぱりと断定するべきだと思うのだが、基本的にはポピュリズムに従い、左翼的言説が人気があるときはそのように振る舞うというだけなのだろうか。

小泉改革の影響によって後から噴出した問題に対しての対処には次のような言葉が語られている。

「社会に痛みも強いた小泉流からの脱皮を目指すというのなら、それもいい。だが、景気対策の名のもとに改革を先送りするだけでは、自民党が長年積み上げてきた矛盾をそのままにしようということにならないだろうか。」


これなども「ならないだろうか」などと中途半端に語るのではなく、「なる」と断定できそうな気もするのだが、この弱気とも見えるようなレトリックはどうしてだろうかと思う。締めくくりに語られている「行政の無駄をなくすと言っても、半世紀もの間、官僚とともにその無駄を作り上げてきた自民党にできるのか」という言い方も、最後まで中途半端だなという印象を与える。「出来るのか」ではなく、これまでの実績を考えれば「出来ない」と判断するのが自然な論理の展開であるように見えるのだが、100%確実なことでなければ言わないということなのだろうか。

「出来ない」と断定して、うっかり出来たように見えた場合の言い訳が難しいということがあるのだろうか。しかし、小泉改革が改革をしているように見えても、その実質としてはほとんど根本的な改革は何一つなかったことが今明らかになっているように、改革が出来たように見えても、それは何かを見誤っているからそう見えるということもある。そのような批判を展開していけば、断定的に語ることも出来そうに思うのだが、それをしない朝日新聞の論調は、オピニオンリーダーとしては頼りないような感じがする。

愛媛新聞の社説では、麻生氏が獲得した地方票の大きさ(95%)に対する評価として「地方における麻生氏の高い人気は、明るいキャラクターのほか、企業経営者や日本青年会議所会頭を経験するなど地方経済に詳しいという期待もあるからだろう」ということが書かれている。これは地方新聞であるが故の視点ではないだろうか。

しかし、この評価は都市浮動票を獲得した小泉さんとの違いを印象づけるものでもある。民主党の小沢さんも都市浮動票にはあまり関心がなさそうだと宮台氏が語っていたが、自民・民主両党ともかつての自民党政治と同じように地方の弱者重視という政策へ回帰するということになるのだろうか。

愛媛新聞では最後に「華やかな家系と恵まれた境遇を考えると、どれほど弱者の立場を理解できるのか心配もつきまとう」という指摘もあり、それはうわべだけのものではないかという疑問も提出されている。これはほとんどそのようであるように僕には感じる。そもそもが選挙のための人気を当て込んで選ばれた総裁なのだから、それが地道に地方を考えて来たとは思えない。人気取りのために今だけ地方を語っているだけなのではないか。自らも岩手という地方の出身である民主党の小沢さんとの違いが現れてきそうな気もする。

宮台氏は、マル激の中で、小沢さんも麻生さんもともに都市浮動票に関心がないという評価を語っていた。両者が地方票を取りに行って、地方の人気の獲得の競争に走れば、愛媛新聞でも危惧している「ばらまき財政出動」になるのではないかという心配もある。

小沢さんの改革の方向も、かつての保守本流に回帰する道のようにも見えるが、自民党の麻生さんがそれをやるのでは、自民党にはやはり改革の能力はないということになるのではないかと思う。同じようなことをやるのであれば、政権が変わって民主党がやった方がいいと僕は思う。そうなれば、これまでのやり方を主張していても、それでは自民党はだめなのだということを自民党もようやく自覚できるのではないかと思うからだ。そうなれば、本当の改革派である若手が自民党の中でその実力を発揮できる時代が来るだろう。昔に戻る自民党がまだ政権をつかんでいるようなら、真の改革派である若手がいつまでもその能力を発揮できない自民党がまだ続くのではないかと思う。

高知新聞の社説には次のような記述がある。

「小泉構造改革の見直しにつながる麻生氏の主張を多くの国会議員が支持したわけだ。現状を踏まえ柔軟に対応するのは政治の役目ではあるが、小泉改革がもたらす負の側面を見通せなかった点は批判されても仕方あるまい。」


小泉改革には、改革のように見えながら本質的には改革になっていない面があったので、その効果が十分に出ずに弊害が目立つようになってきている。その弊害を修正するには、いろいろな方法があるだろうが、長期にわたって効果を上げるためには、やはり本質的な部分に光を当てて、不十分だった改革をさらに推し進めるという方向が必要だろう。それをやらずに、弊害が出てきた部分を緊急に手当てするだけで済ませるなら、改革が必要になった原因をそのまま温存することになる。そうなれば、今度は改革を先送りすることによる弊害が目立つようになるだろう。

緊急の手当というのは政治にとっては必要なものになるだろう。長期にわたって正しいことをするからといって、今の犠牲を捨てておくだけで済ませることは出来ない。しかし、緊急避難的に今困難にあえいでいる人を救いながら、長期の見通しも立てるという難しい舵取りが、首相というリーダーには求められるだろう。この難しい仕事を、そもそも「小泉改革がもたらす負の側面を見通せなかった」自民党に出来るのかという疑問がある。

麻生さんを救世主のように期待する前に、自民党はこの危機を見通す能力がなかった、あるいは小泉人気に乗っかるだけで、小泉さんのやり方が、改革を推し進めると同時に破壊をも伴う諸刃の剣であることを提言できる人が自民党にはいなかったのだという事実も忘れてはならない。麻生さんは、小泉政権の時も、その後を引き継いで政権を投げ出してしまった安倍・福田両政権の時も権力の中枢にいた人間だ。この弊害を見通していたとはとても言えないだろう。危機の原因を作った人の一人である人間が、その危機を解決できると期待できるとは思えないのだが、世間ではどうして麻生さんに人気があるように見えるのか不思議だ。

西日本新聞社説では、出来レースと言われたこの総裁選の評価が簡潔にまとめられている。

安倍晋三前首相に続く2代連続の政権放棄に、国民があきれ、憤っている間もなく、自民党は総裁選へなだれ込んだ。麻生氏を含む史上最多の5人が名乗りを上げ、「無投票で党首を選ぶ民主党とは違います」とばかりに、派手な劇場型の総裁選を演出した。転んでもただは起きぬ。そんなしたたかな戦略は、成功するかに見えた。

 しかし、当初から本命視された麻生氏が予想通りの圧勝で幕を下ろし、「筋書きのないドラマ」とはならなかった。肝心の政策論争も盛り上がりを欠き、終始「麻生氏優勢」が伝えられる中で消化試合の様相すら深めた。」


他の社説でもしばしば使われたが「消化試合」という言葉がキーワードになるような、この言葉が象徴するような雰囲気を感じさせたものだった。この雰囲気の原因となったものを西日本新聞は「政策論争が盛り上がりを欠いたのは、軸となる麻生氏が持論を封印し「優位を守る」総裁選に徹したためだ」と判断している。この判断は正しいだろうと思う。

これは、麻生さんが総裁選を有利に戦うという、権力闘争を行う政治家としては正しい判断だったかもしれない。それがあまりに有効に働きすぎたために麻生さんは予想以上の圧勝をしてしまい、これが出来レースだという見方に拍車をかけた。もう少し長期の利益構想があれば、持論の封印をもう少し解いて、あえて反対を呼び起こすようなポーズをとる方が政治家としてはうまい戦略だったのではないかと思う。

それをやらなかった麻生さんは、今後の政権運営でもあまり長期にわたるビジョンの提出は期待できないのではないかと思う。このまま自民党が総選挙に勝つようでは、結果的に長期のビジョンは語られず、今人気がある事柄だけが語られるようになるだろう。破綻は先送りされるだけで、その解決はより困難になる。今度の総選挙では、民主党に期待するから投票するというのではなく、自民党が今の政治感覚ではもはや日本は破滅の道を歩むしかないのだと、自民党にも自覚させるために、自民党を負けさせる選択が正しいのではないかと思う。そうでなければ、自民党はいつまでもこのひどい状況を認識できないのではないかと思う。本当に有能な政治家が表舞台に出てくるために、自民党を下野させる選択こそが正しいのではないかと思う。