麻生 VS 小沢 の党首討論の評価


28日に行われた党首討論について、マル激の中で宮台真司氏が「小沢さんの完全な一人勝ち」というような評価をしていた。各新聞の社説を見ると、麻生さんの逃げを批判しているものがほとんどではあったが、小沢さんの完全な勝ちだと評価したものは少なかった。理屈としては小沢さんのほうが勝ったが、小沢さんにも批判されるべき点があるという論調が多かった。

党首討論は、「討論」と呼ばれている以上、論理的側面が最重視されてその評価がされるべきだと思う。その意味では、小沢さんには論理的整合性があったが、麻生さんには論理的整合性がなく、むしろ矛盾した主張をご都合主義的に使い分けているところがあった。それは各新聞でも指摘されていたことだ。

論理的整合性という面でこの「討論」を評価するなら、宮台氏が語るように、小沢さんの完全な勝ちではないかと思う。しかし一般にはどのように映っただろうか。「どっちもどっちだ」「話が深められていない」というような評価が、ある新聞の社説でも語られていたが、そのように見る人が多かったりすると党首討論を避けたように見える小沢さんの判断が正しかったという感じがしてくる。

マル激で麻生さんが話題になったときに、麻生さんは経済のことについてはまるでわかっていないとか、失言が多いのは物事を深く考えていないことの現われのように言われることがあった。どう見ても、論理的な討論が上手にできるようには見えなかった。その麻生さんに対して、小沢さんが討論を逃げるというのは釈然としなかった。討論をして、理屈で麻生さんに勝つのはそれほど難しくはないのではないかと思えるからだ。

しかし討論の評価が、理屈という論理でされるのではなく、パフォーマンスで評価されるなら、それに対しては下手だといわれる小沢さんが躊躇するのはよくわかる。もし小泉さんほどのパフォーマンスのうまい人間と討論をしたら、理屈では完全に勝っているにもかかわらず、見た目には負けているような印象を与えることもあるだろう。イラク自衛隊における「非戦闘地域」の論戦において、小泉さんの論理はまったくひどいものであったにもかかわらず、その論戦は小泉さんの完全な負けだとは見られなかった。このようなことを小沢さんが恐れたなら、党首討論を避けてきたのも理解できる。

今回小沢さんが党首討論に応じたのは、麻生さんというのは論理的には整合性をとることのできない人であり、しかもパフォーマンスの印象度も低いと判断したのだろう。失言の処理における態度を見ていてそう判断したのではないだろうか。そのようなことを考え合わせると、論理の点でも、パフォーマンスの点でも今回の党首討論は麻生さんにはまったく勝ち目がなかったという評価が正しいのではないかと思う。

しかし、それにもかかわらず新聞の社説ではそのような評価をしているものの方が少ない。麻生さんの問題を指摘している新聞でも、小沢さんのほうの問題の指摘を忘れない。これは公平な取り扱いというふうに新聞のほうが考えているのかもしれないが、一般の評価をミスリードする原因となるのではないだろうか。

論理的側面での麻生さんの問題は、麻生さんが語る二つの主張が、その前提に矛盾したものを抱えているにもかかわらず、どちらも捨てずに両立させているというところだ。これは、麻生さんが語る論理体系には矛盾が含まれていることを意味する。このような論理体系は、形式論理の法則から、どんな命題でも証明できてしまう・すなわちどんな主張でもご都合主義的に主張できてしまう体系になってしまう。ここにもっとも深刻な問題があり、これを解決しない限り、麻生さんが討論で勝つ見込みはない。

麻生さんが語るひとつの主張は、解散総選挙をしないことについてのものだ。それは次のようにまとめられるだろう。

  • 前提  ・世界的な金融危機によって100年に一度の経済的な危機がおきた。
  • ・早急にこの危機に対処しなければならない。
  • 解散総選挙をすれば、対処が遅れる(政治空白がおきる)。
  • 結論 - 問題を解決する方を優先して解散総選挙を先送りする

問題解決の方法として2次補正予算案の提出というものがあったはずだ。上の論理展開からは、解散総選挙を先送りして、この2次補正を議論するという結論も出てこなければならない。しかし、麻生さんは2次補正の提出は今国会では見送るという。これは早急な対処をするということではなくなる。

党首討論の麻生さんの答弁は、1次補正で十分効果を上げているというものだった。1次の対策で効果があがるようなものであるなら、「100年に一度の大きな危機」という認識はいったいどうなるのだろうか。そのような大変なものだったから解散総選挙を先送りにしてもやむをえないということで多くの人も納得したのではないだろうか。

2次補正を提出しないのなら、12月には何もしない時期が国会にでき、避けなければならない政治空白ができてしまう。そうであれば、その時期に総選挙ができるのではないかという小沢さんの指摘は論理的な正当性がある。

麻生さんの答弁の論理を整理してみると次のようになるだろうか。

  • 前提  ・1次補正は、対処の効果をあげている。
  • ・効果をさらに推し進めるには、貸し手側の問題を解決する金融機能強化法の成立のほうが重要である。
  • 結論 - 2次補正を今国会で議論する必要はない(他のものを優先する)

この論理は、ちょっと見ただけでは前の論理と矛盾しているようには見えないかもしれない。しかし、この前提からは次のような結論も導かれる。

  • 結論 - (1次補正で対処できるようなものなら)今回の危機は100年に一度といわれるような大きなものではない。
  • - (1次補正ですむようなら)それは早急な対処ではないとも言える。

この結論は、最初の論理の前提を否定する矛盾したものになる。これは、その前提そのものが正しいかどうかに関係なく、論理的な不正が生じるようなものになる。経済危機が「100年に一度のもの」であるかどうかということにかかわらず、このことを肯定すると同時に否定するような判断になってしまう。これは決して両立しない。あるときは肯定するが、都合が悪いときは否定するというようなことは、論理的整合性に反するのである。

最初に提出した論理に従うなら2次補正を提出すべきなのである。しかし、あとのほうの論理に従うなら、12月の時期に総選挙を行うことができると判断すべきなのである。そして、総選挙ができるなら、国民の信を背景にした政権が政策を行うことで、有効な政策が行えるようになると判断すべきだ。小沢さんが言うように、「年末12月に解散総選挙を断行して、麻生総理がきちんと国民の支持を得られたら、それこそ、総理の思うとおりのことを実行したらいいじゃないですか」ということのほうが論理的整合性を持っているだろう。

論理的整合性という点では、この討論は小沢さんのほうにしか整合性がない。麻生さんは矛盾したことを語っている。討論としての評価をするなら、小沢さんの勝ちだろうと思う。しかしそれにもかかわらず、新聞での評価には、別の側面から小沢さんを批判したものもある。ちょっと書き出してみると、

党首討論は今年4月に福田康夫前首相と小沢代表との間で開催されて以来だ。その間、首相交代による空白もあったが、今国会に入ってからは自民党の開催要求を民主党が度々断ってきた。2次補正先送りの事態を受け小沢氏が前向きとなり、実現した形だ。
 原則として毎週1回行うはずの国会ルールに、小沢氏はもっと責任を持って対応してほしい。」(産経新聞

「ただ小沢代表も二次補正予算案の提出を求める論拠を十分示したとはいえず、説得力はやや不足していた。解散・総選挙に追い込むための戦術という印象も否めなかった。また、自分たちが有利だと思うときだけ党首討論に応じるのでは身勝手すぎよう。 危機的な状況だというのに議論は一向にかみ合わず、いら立ちが募る攻防だった。」(愛媛新聞

「一方の小沢氏も自民党を追い詰めきれない焦りがうかがえる。
 だが、政局をめぐって駆け引きするだけでは肝心の景気対策への道筋は見えてこない。歩み寄るべきは歩み寄る。国民置き去りの論議は御免だ。」(高知新聞

「小沢代表はさらに、二次補正を今国会に出さないならば年内にも衆院解散・総選挙を行うよう要求した。だが、討論では互いにこれまでの主張を繰り返しただけで批判の応酬は経済対策、国民生活のための政策論争とは程遠く、国民には失望が広がっただけだ。」(宮崎日日新聞

「このまま相互不信を募らせていては、政治の責任が果たせないことは、両党首とも百も承知のはずだ。さらに党首討論を重ね、闊達(かったつ)な論戦を展開してもらいたい。」(読売新聞)

「議論が深まらないのは党首討論が継続的に開催されないためだ。前回の党首討論は今年4月。今国会も召集から約2カ月でやっと開かれた。与党側の呼び掛けに応じてこなかった小沢氏に反省を求めたい。」(岐阜新聞

「議論が深まらないのは、党首討論が継続的に開かれないことも一因だろう。これまで与党側の呼び掛けに応じてこなかった小沢代表に反省を求めたい。次は、お互いに逃げたりそらしたりしないで真正面からぶつかり、かみ合った議論を期待したい。」(中国新聞

麻生首相は小沢代表が求めた十二月の衆院解散を拒否したが、任期満了の来年九月までには総選挙は実施される。党首討論は国民にとって麻生、小沢両氏の「党首力」を比べる絶好の機会でもあったはずだ。しかし約四十分間、同じような主張が繰り返された。期待外れと言わざるを得ない。」(北日本新聞)


というようなものがあった。いずれも、それだけを取り上げればもっともだと思われるような指摘だが、今回の党首討論の評価として取り上げれば、「どっちもどっちだな」というイメージに結びつきかねない。そのような評価でいいのだろうか。

政治の駆け引きにおいて、自分に有利な条件を作ろうとするのは当然のことであって、それを卑怯なことのように評価するのには何か違和感がある。むしろ、そのような不利な状況を作ってしまった麻生首相のリーダーシップの問題が浮かび上がったということを、今回の党首討論の評価としなければならないのではないだろうか。

パフォーマンスという偽物の指導力で、小沢さんを圧倒できるともくろんだ自民党と麻生さんが、実はその指導力が偽物であることが暴露されてしまったということは、国民にとっては非常に有意義なことだったのではないだろうか。