楽天のブログに書いたもの

楽天のブログに書いたものをここにも転載しておく。


構造の把握の仕方


「数学屋のメガネ(ライブドアブログ)」「数学屋のメガネ(はてなダイアリー)」「数学屋のメガネ(エキサイトブログ)」という3つのブログで、同じ表題の「構造の把握の仕方」というエントリーをアップした。いずれも内容は同じで、一筆書きの数学を考察することで、「構造」というもののとらえ方を考えたものだ。

上のエントリーの文章は、きわめて理科系的なもので理詰めで展開していっているものになっている。それを、この楽天では、努力して文系的な随筆風に出来ないものかということを試みてみようかと思う。語る対象も、一筆書きの数学というような、がちがちの理系的なものではなく、日常ありふれたところに題材を見つけて、「構造」が見えてくるものを探してみようと思う。ただ、上のエントリーで考察した方法論だけは踏襲して、考察だけは具体的な方向を目指してみようと思う。

まずは、方法論として結果だけをあげておくと次のようなものになる。

  • 1 対象の限定(集合的に制限が出来る)
  • 2 対象を抽象化して有限のものにする。
  • 3 抽象化した対象の具体的な結びつきを捨てて、それぞれが独立した対象になるような抽象の仕方をする。
  • 4 独立した対象の間に対応関係(関数)を設定し、それを「構造」と呼ぶ。


現実のありふれたものを対象にして、この方法で「構造」を見出すことが出来るかどうか考えてみたい。

先日テレビのニュースで面白いと思ったものを見た。それは、インターネットを利用したある商売のニュースで、ちょっとしたアイデアで大もうけをしたというものだった。それは地方在住の女性を対象にしたものだった。地方に住んではいるけれど、最新のファッションに関心があり、ファッション雑誌などを見て、そこに紹介されているものが欲しいと思っている人を対象にした商売だった。

商売の中身は、そのような地方在住の女性に代わって、東京の有名店でブランド品を購入するというものだった。地方に住んでいるため、そう簡単には東京に出てくることが出来ない。しかし、雑誌に紹介されたファッショングッズは欲しい。そんな気持ちを抱いている人に、交通費よりも安い手数料で買い物を代行すれば、客にとっても利益になるし、注文数が多ければ代行する商売をする人間にとっても利益になる。

この商売は大当たりをして、年商は億を超えるものになっているそうだ。この商売が、たまたま結果的にうまくいっただけで、ラッキーだったということであれば、そこに「構造」を見出していたとは言えないだろう。しかし、予想通りにうまくいったという感じだったら、ここには「構造」を見る視点があったのではないかと考えられる。どのような「構造」が見えていたのかを考えてみたい。

この「構造」の考察には、宮台真司氏が解説していた社会システムでの「選好構造」というものが参考になるような気がする。「選好」というのは、「他よりもあるものを好むこと」と辞書的には説明される。選択肢のいくつかがあるときに、ある選択肢を他のものよりも選択する比率が高ければ、それはその選択肢を「選好」していると考えられる。

地方在住の女性には、具体的には様々な特徴が見て取れるだろう。多様性があり、具体的な考察の対象にするには例外が多すぎて「構造」を見ることが出来なくなるに違いない。それを、ある種の属性を捨てて、現実的ではないかもしれないが単純化した対象として抽象することを考える。その抽象によって注目する点を「選好」するものという点に絞ると、「選好構造」が見えてくるのではないかと思われる。

現実には、ファッション雑誌を見て、そこに紹介されているファッショングッズを欲しいと思うか思わないかというのは、単純に一概に決められないだろうと思う。そこを単純化して、「欲しいと思う」という方を「選好」すると考える。そして、「欲しいと思う」人が次にどのような「選好」傾向を持っているかを考える。つまり、「選好」の連鎖の「構造」がそこに見出せないかを考える。

実際には、この「選好」にも様々な条件が考えられる。経済状況や年齢・仕事の有無など、「選好」を対応させるためのパラメーターは数多く考えられるだろう。しかし、あまりにも複雑に設定しすぎると「構造」は見えてこない。様々な要素が重なり合って、たまたま結果的にそうなったという評価になってしまう。だから、そのような複雑な属性は捨てて、選択肢を単純化して抽象してしまう。それは「構造」を見るための抽象であって、その抽象の下では、このような「構造」が見えるという考察を進めるための方法だ。

さて、「欲しい」か「欲しくない」かという肯定と否定の二者択一の選択肢に単純化してこの「選好構造」を見ていき、「欲しい」という選択をした人の次の「選好構造」も単純化して考える。それは、「自分で買いに行く」「自分では買いに行かない」という肯定・否定の選択肢だ。自分で買いに行く人は、それによって「欲しい」という欲求を満たしたので、そこで「選好」の連鎖は終わるだろう。

「自分では買いに行かない」という人の次の選択肢は、「あきらめる」「あきらめない」という肯定と否定のものが考えられる。ここで「あきらめる」なら「選好」の連鎖は終わりだ。だが「あきらめない」という選択肢に対しては、あきらめなくてもいい他の方法が存在しなければ「あきらめる」他になくなる。そこで、本人に代わって東京で買い物をするという選択肢を提供するのがこの商売ということになる。

「あきらめない」という「選好」に続くのは「買い物の代行を頼む」「買い物の代行を頼まない」というものになる。「頼まない」という選択肢を選んだ場合は、他の方法をまた探さなければならない。そこで他の方法が見つからなければ、ここで「あきらめる」という選択肢を選ぶことになる。また、「頼む」という選択肢を選んだ場合は、それによって満足が得られるなら、そこで「選好」は一応の終わりを告げるだろう。いずれにせよ「選好構造」はここで1つの終着点を迎える。

地方に在住する女性で、ファッション雑誌の購読者が抱くような「選好」の傾向を単純化して考えると、その連鎖という対応が上のように考えられた。これは1つの構造をなしている。現実の一人の女性がどのように行動するかを観察しなくても、結果を予想することが出来るような論理が見出せるというところに「構造」を見ることが出来る。しかし、この「構造」が、上のように一方的な流れだけにとどまるなら、この「構造」に従って行動してくれる女性が多いか少ないかに、この商売の成功は依存してしまう。

そうすると、この商売に踏み出すには、事前にそのような女性が多いという確信がなければならない。そうでなければ、やってみて成功か失敗かを判断するという、ちょっと博打的な思いで一歩を踏み出すことになるだろう。事前にこのような統計調査をしてデータを得るのは難しいだけに、博打的な決断は仕方ないと言えるだろうか。

僕は、「構造」の把握によって、もっと見通しのきくような判断が出来るのではないかと感じている。それは、上のような「選好」の連鎖という構造が、一方通行で終わるのではなく、宮台氏のシステム理論にあるように、また元に戻ってフィードバックとして効いてくるという「構造」が見えるかどうかでこの商売の成功の可能性が判断できるのではないかと思う。

ファッション雑誌で紹介されるファッショングッズに関心がある女性は、1つ欲しいものが手に入れば、それで満足してその後はもう欲しがらないかといえば、かえって逆に、1つ手に入れば次のものがさらに欲しくなるという傾向を持っているのではないだろうか。「選好構造」がフィードバックする可能性は大いに考えられる。

その際、一度満足が得られたという成功経験は、フィードバックしてもう一度その選択をしようという「選好」傾向を強くするのではないかと考えられる。つまり、商売成功の鍵は、もう一度「頼みたい」という気持ちを客の方に抱かせることが出来るかという、商売をする側の信用獲得にかかっている。商売をする側が一度信用を獲得すれば、このフィードバックは何度も繰り返されるものになるだろう。安定的に利益を生むような商売になるに違いない。

一度きりで終わるような商売であれば、その対象になる人がたくさんいるかどうかで成功するかどうかが決まってしまう。また、その対象の人にまんべんなく働きかけて終わってしまえば、その商売による利益もそこで終わってしまうだろう。しかし、新たな顧客を、商売の結果によって常に生み出していくという「構造」を作り出すことが出来れば、その商売は安定的に利益を生み出していく。このような見通しがあれば、「構造」を見出すだけでその商売に踏み出すことが出来るだろう。

単に、まじめで誠実だったから商売で信用を獲得したという可能性もあるだろうが、1つの単純な発想で大もうけをするような頭のいい人は、人柄だけで成功したのではなく、このような「構造」を見通していたのではないかと僕は感じる。また、まじめさや誠実さは、単に道徳的に価値があるというだけでなく、有効なフィードバックをもたらす「構造」に結びついているなら、そのような社会はまだまだいい社会ではないかと思う。道徳性は、時代とともに大きな変化をする可能性があるが、利益をもたらす「構造」は、人間が生きている限り続きそうな感じがするからだ。まじめさや誠実さが価値が高くなる社会は、道徳的という意味ではなく、住んでいて気持ちがいいということでいいと僕は思う。

数学的な「構造」を考えていたときは、それは固定的な変化しないものとして見えていた。形式論理によって見出せる「構造」は、数学的な固定的・静的なものになるのではないかと思う。この「構造」の考察を動的な現実にそのまま当てはめるとたぶん変なことが起こるのではないかと思われる。ゼノンの逆理に見られるような「アキレスと亀」のような考察が生じるのではないだろうか。運動が矛盾として捉えられるような。

現実の動的で変化するような対象に「構造」を見出すときは、それが変化しているにもかかわらず同一性を保つように見える安定性は、フィードバックの作用によって同一に見える「構造」を常に構築しているのではないかと考えられる。現実の中に「構造」を見出すのは、この複雑性を見なければならないところに難しさがあるのではないかと思う。

レヴィ・ストロース親族の基本構造を見出したのも、それが古代社会という、人間の行動がほとんど変化しない固定された対象だったからではないかと思う。その構造が、数学における群の構造で表されていたというのは象徴的だ。固定的で変化しない古代社会と違い、現代社会という流動性の高いところに「構造」を見出すには、変化の中に固定されたものを見るという弁証法的思考が必要になるだろう。これはとても難しいのではないかと思う。

具体的な対象の考察をすれば、多少は論理が易しくなるかと思ったのだが、なかなかそうはいかないものだと感じる。しかし、楽天では抽象的な対象に関する記述ではなく、具体的なものを対象にして考察していきたいと思う。そのようにしてブログの棲み分けをしていこうと思う。