「人権」について考える

死刑廃止の問題を考えるとき、「人権」というものが大きく関わってくる。死刑に反対することは、加害者の人権を守ることにはなるが、被害者の人権を無視しているのではないかという疑問が提出されることがあるからだ。このことに関しては、宮台真司氏なども的はずれな意見だと指摘していたが、中山千夏さんの『ヒットラーでも死刑にしないの?』という本では、この「人権」について詳しく論じている。

「人権」というのは、辞書を引くと「人間が人間として当然に持っている権利」と書かれている。これは、分かったようで分からない定義だ。これは、同語反復のようにも見えるので分からない感じがする。「人権は人権だ」と言っているような感じがしてしまう。何を当然と考えればいいのかが分からないと、この定義は分からない。「人権」の内容をもっと具体的に考えるには、「基本的人権」という言葉を見た方がいいかも知れない。これは辞書によれば

「人間が人間として当然もっている基本的な権利。近代初頭では、国家権力によっても制限されえない思想・信教の自由などの自由権を意味したが、二〇世紀になって、自由権を現実に保障するための参政権を、さらに国民がその生活を保障される生存権などの社会権をも含めていう場合が多い。日本国憲法は、侵すことのできない永久の権利としてこれを保障している。人権。基本権。」

というふうに、かなり具体的に書かれている。「自由権」「参政権」「生存権」「社会権」というふうに書かれているものが、当然持っていなければならない権利と言うことになるのだろうか。しかし、この定義を読んだだけでは、これらの権利がなぜ「当然持っている」と判断されるのかはまだ分からない。「当然」だと信じられているだけでは、その理解が弱いと思う。なぜ「当然」なのかと言うことはどうしたら理解出来るだろうか。

中山さんは、「権利」という言葉は「私には印象がよくなかった」と語っている。「権は権勢、権力の権、利は利益、利得の利。なんだかガメツイ感じがする」と言って、これが「当然」であると言うことがすんなりと納得出来なかったようだ。欧米では、権利の主張は、ごく当たり前のこととして誰もが認めているようにも感じるので、この感覚の違いがどこにあるかというのが、長い間の疑問だったそうだ。

僕が関わっている「障害児の教育権を実現する会」では、障害児が、普通の地域の学校に行くか、それとも障害児学校である養護学校などに行くかは、障害児本人とその保護者の権利であって、彼らが決定すべきことだと考える。その決定を教育委員会などに指導してもらうと言うことは、権利であるという概念からは考えられない。そう言うふうに権利というものを捉えている。

権利というのは、自己決定権を持っているもので、その権利を行使するかどうかも、権利の主体にゆだねられていると考えるのだ。障害を持っていなければ、地域の普通の学校に行けるというふうに、何かの資格を持っているから権利があるなどと言う考えには立たない。障害があろうと無かろうと、義務教育の就学権を持っていれば、その権利を行使出来ると考える。障害児の場合は、養護学校という別の選択肢があるからこそ、選択の権利があると考えるのだ。そこを選択するのも権利だし、選択しないのも権利だと考える。

これは、極めて欧米的な権利意識だろう。権利としては、正統派の権利意識だと思う。しかし、日本ではこのような権利意識はしばしば非難の目で見られる。せっかく養護学校という配慮をしてくれているのに、無理に普通の学校を希望するのは、行きすぎた権利の主張だと見られることが多い。中山さんの気分にも、このような日本的な権利意識があったようだ。正面から権利を主張することに何らかのためらいを感じてしまったらしい。

このためらいを解消するキッカケが、英語による「権利」の表現だったらしい。英語では権利を「Right」という。これは、「権利」の他に「正しい」という意味がある。「権利」の中にある「当然」だという感覚は、実は「正しい」と言うことから帰結する「当然」だったのだと言うことに中山さんは気づいたらしい。

「権利」というのは、何か神から与えられた、無前提の信仰のような恩恵ではなく、その正しさが理解出来るものだからこそ、当然主張出来ることになると言うものだったのだ。そして、この「正しさ」は、歴史的に獲得されてきたものだ。それを理解することによって、「権利」の「当然」さは感覚的にも自分のものになるのである。

かつて普通選挙が行われていなかった時代は、税金をたくさん納める人間が政治を司ることが当然だと思われていた。その時代の権利は、税金の額によって重さが違っていたわけだ。しかし、民主主義の思想が広まるに従って、財産の多さによって権利が違うと言うことが否定され、市民として同等であれば同じ権利を持つべきだという思想が正しいものと認識されるようになる。この正しさが普通選挙における参政権という権利につながる。

しかし、女性が市民として同等だと思われなかった時代には、女性には市民としての参政権は与えられなかった。民主主義の思想がもっと育たなければ、女性を含んだ参政権の思想が「正しい」という判断まではいけなかったのだろう。しかし、それが正しいと判断されたとき、女性の参政権も、当然の権利として「人権」の中に含まれるようになったのだろう。

権利が権利として機能するには、そこに「正しさ」がなければならない。そのように「権利」というものを理解すれば、それを主張するのは当然の行為だということも出てくるだろう。西欧的な「権利」の概念は、その主張の正当性をも支えている概念だと言うことが分かる。

さて、「人権」というものをこのように理解すると、その中に入っている「生存権」というものも、それを主張することに正しさがあるというふうに理解しなければならない。それは、犯罪者であるかどうかで差別をしなければならないものではない。もし差別的に扱わなければならない「権利」だったら、「人権」と呼ばれる「基本的人権」にはならないと思われるからだ。

たとえ犯罪者であろうとも、「人権」を認める立場に立つのなら、「生存権」を認めなければならない。そして、「生存権」という考えから死刑に反対する立場というものも、論理的な正当性を持つものとして受け止めなければならない。これが、たとえ感情的に受け入れがたいものであろうとも、前提である「人権を認める」と言うことに賛同するのであれば、この論理を受け入れなければならないのだ。もしどうしても受け入れられないと言うことであれば、「人権を認める」という前提も放棄しなければならないだろう。死刑囚に対しては「人権」を認めないという立場に立つことを宣言しなければならない。

「人権」というものに対して例外を認めた場合、それがどのような影響を与えるかは抽象論の範囲でも考えることが出来る。死刑囚だという判断が100%正しく行えるのではないから、本来は人権を認めなければならない人の人権を認めないと言う間違った判断が起こる可能性が出てくる。この可能性があっても、あえて、死刑囚の「人権」は認めないという立場を堅持するかどうか。自分がそのような立場に立っても仕方がないとあきらめるのかどうか、そう言う選択すると言うことが、抽象的な問題として設定出来るだろう。僕は、それには耐えられないから、死刑囚といえども、「人権」の範囲の例外にすべきではないと思う。人間であれば、誰にでも認められる当然の権利として「人権」を受け止めるべきだろうと思う。

さて、ここで冒頭の的はずれの疑問に戻ると、「人権」というのは、人間であれば誰でも持っている当然の・正しい権利なのだから、加害者にそれを認めて、そのために被害者のそれを無視すると言うことは、実は原理的に出来ないものなのである。加害者の「人権」を認めることが、被害者の「人権」を無視していることになるというのは、感情的にそう感じてしまうのかも知れないが、論理的にはあり得ないのだ。人権というのは、総量が決まっていて、誰かが一部を取ると、他の人の取り分が減るというものではないのだ。

中山さんは、このような感情的な反発を、「コドモが駄々をこねるのと、いくらか似たところがある」と指摘して、次のように語る。

「殺人が最大の人権蹂躙だというのは、正しい。しかし、言うまでもないことだけれど、死刑は、殺人事件が起こったあとで、その処理の一環として出てくる問題だ。心ない者によって、被害者の人権が根底から破壊されてしまった後に、死刑をするかしないか、という問題が出てくる。その時には、もはや被害者その人自体が存在しないので、その人の人権を守ろうにも、悲しいかな、私たちにはどうすることも出来ない。」

殺人事件が起こった後で問題になるのは、加害者の「人権」の方であって、被害者の「人権」は、その時にはもう問題にすることが出来なくなっているのである。無視しているのではなく、問題にすることが出来ないので、語ることが出来ないのだ。

もし、被害者の「人権」を考えるなら、被害者になる前に、被害者になる可能性を出来る限り減らす方向で「人権」を守るしかないだろう。それは、社会的な手だてを取れることは可能な限り努力をするという方向で考えるしかない。凶悪犯罪者を生まない豊かな社会の実現を目指すと言うことも一つの方法だ。小泉さんのネオリベ路線が、そのような方向になっているかどうかはよく考える価値があるだろう。もし、凶悪犯罪を生み出すような社会的背景を作り出しているようなところがあれば、それは被害者の「人権」を無視していることになるのだと思う。優勝劣敗の格差を生む社会が、凶悪犯罪を生む温床にならないかどうかは深く考えなければならないだろう。

不幸にして犯罪が発生した場合でも、それが最悪の結果にならないように配慮することも社会的に行える「人権」の問題になるだろう。警察の治安の問題は、いろいろと複雑な問題が絡むので、なかなか単純な結論は出せないだろうが、市民を守ると言うことにおいて、「人権」の問題が考えられると思う。

加害者の「人権」を守る方向を考えたからと言って、そのことが被害者の「人権」を無視することではない。むしろ、社会的に、犯罪を防ぐような手だてをしないことの方こそが、被害者の「人権」を無視していることになるのではないかと思う。

「人権」について考える(続き)

さて、「人権」についてもう一つ大事なことが中山さんの本には書かれているので、それを考えてみたいと思う。それは「人権感覚」と呼ばれるものだ。「人権」というものを、その歴史的な成立過程を理解することで、人間であれば誰でも持っている当然の権利だと言うことを、その「正しさ」から導くことが出来た。

自由権」「参政権」「生存権」「社会権」などというものが正しいというのは、入れ替え可能性というものを想定することによって得られるのではないかと思う。もし、この諸権利が、「人権」として保障されていなかったとしたら、自分は、その権利を持たない状態にいたとして納得出来るだろうか。

この諸権利を自分が持っていなかったら、社会生活を営む上で大きなハンディを持つことになるだろう。そのハンディは、ある種の条件の下であれば仕方がないとあきらめることの出来るハンディだろうか。これは、普通の状況であれば、ハンディを持たせることが不当になるだろう。このハンディを許さないという感覚が、人間が当然持っているはずの「人権」というものの感覚になるのではないだろうか。

誰もが当然持っていると考えられる権利を、頭で理解しているだけではなく、身体でも実感出来ると言うことが「人権感覚」と呼ばれるものではないかと思われる。これはなかなか身につけることが難しい感覚だと思われる。自分の「人権」が犯されるという感覚は、自ら感じることの出来るものだから分かりやすい。しかし、ここで言う「人権感覚」というものは、他人の人権が侵されるときに、それを自分の人権が侵されるのと同じように感じられるかどうかという感覚になるからだ。

死刑囚だから人権が侵されても仕方がないと思うような感覚では、人権感覚が身に付いているとは言えないだろう。たとえ死刑囚であろうとも、その人権が侵されていることを敏感に感じ取ることが出来たとき、人権感覚が身に付いていると言える。これは、「惻隠の情」で埋め合わせることが出来る感覚ではない。人権というものを、本当に深く理解したときにようやく身に付く感覚だ。中山さんも次のように語っている。

「戦後に育った私たちも、基本的人権としての諸権利を、実感としてきちんと把握しているとは言えない。可哀相な人を助ける慈善の精神や、何か安っぽい人間中心主義と混同されているような感じさえある。」

この人権感覚を身につけるのに邪魔になるのは、「けちな根性」だと中山さんは指摘する。けちな根性を持つ人は次のような考えを持つ。

「私はこんなにたくさん税金を出している。隣のA氏は病気がちで働かないから、全然税金を出していない。それどころか、近所からものをもらったりお金を借りたりして生活している。そのA氏が私と同じように投票し、政治に口を出すのはおかしい。それでは、せっせと働いて税金を納めている私は損ではないか」

このような考えは、「けちな根性」だと中山さんは言うのだ。その理由はこうだ。このお金持ち氏は、病気でもなくお金もあると言うことで、普段の生活ではA氏よりもずっと得をしていることになる。それを、ただ一点だけを見て「損」だというのなら、その生活をA氏と入れ替えることを提案してみるといいと中山さんは言う。本当に「損」であって、A氏の方が得だと思っているのなら入れ替える方を望むだろう。しかし、その提案には賛成しないだろう。

結局、普段の得はそのままにしておいて、一点だけの損を埋め合わせたいとする欲は、「けちな根性」だと中山さんは言うわけだ。普段の損を埋め合わせるためにこそ、人権というものを保障して平等を確保しようと言うことを人間は歴史を刻むことで学んできたのだ。自分の欲を満たすことだけを考えて、他人が不幸になろうと知ったことではないと思っているなら、そのような金持ちは「けちな根性」の持ち主だと言われても仕方がないだろう。人間は、この「けちな根性」を克服して人権の考えを身につけたと中山さんは考える。次のように語っている。

「人はみんな、さまざま違った条件を持って生まれ、時代や運に左右されて、得をしたり損をしたりする。それを運命だとあきらめていたのが、近代以前の人類だ。人権の考えはそれを変えた。人はみんな人として同じ、平等で自由であるべきだ、だから人の知恵で均せる損得、不平等は解消しよう、そう人々は考えついた。貧乏な人、元々損をしている人を政治参加させないのは、その人の運命的な損の上に、さらに損を法律が付け加えることである。その不平等を解消したのが、普通参政権の実現だった。」

実に明快な人権の論理だ。金持ちが、「けちな根性」で自分の損を感情的に収めるのではなく、人権の考えとして平等を受け入れるなら、高貴な精神を持った人間として尊敬されることだろう。それが近代以後の市民というものだと思う。このような人権感覚を持たない人間は、近代以前の古くさい頭の持ち主だと言われても仕方がないだろう。

人権感覚を身につけると福祉に対する考えも変わってくる。福祉というのは、金があるものが貧乏なものに対して施しを与えるようなものではないのだ。中山さんは次のように語っている。

「人権による福祉は、これとは違う。人はみんな同じ、平等で自由であるべきだ。それが当然のこと、正しいこと、つまりライト(人権)だ。だから、人々はみんな等しく、衣食住に満足し自由に行動するのが、当然のこと、正しいこと、ライツ(諸権利)だ。従って、もし、身体的な条件や経済的な条件で衣食住に困り行動が不自由な人がいたら、その人が出来るだけみんなと等しい自由な暮らしが出来るように、社会は計らわなければならない。それが当然だ。と言うのが人権による福祉の感覚だ。ここには、福祉を受ける人のためになるかどうか、とか、受ける人の態度がいいかどうか、といった、する側の判断が入る予知はない。そこが慈善の福祉と大きく違う。」

僕もまったくその通りだと思う。このようなことに対して「当然だ」「正しい」と思える感覚こそが「人権感覚」というものだろう。このような感覚が身に付くと、凶悪犯にも人権があるという感覚が違ってくる。人権に対しては、凶悪犯であろうと無かろうと、それは関係が無いという感覚を持たなければならない。だがそれは、まだ難しいだろうと中山さんも考えているようだ。その難しさを中山さんは次のように指摘する。

「いやちょっと待て、確かに理屈ではそうだろうけれど、それはなんだか納得出来ない−−多くの人々はそう思うのではないだろうか。正直なところ、私にもそんな気持ちがある。王様も奴隷も同じ人間だというのは、なるほどと納得出来るけれども、例えば幼女を強姦して殺害した男などを、善良な人と同じ人間と見なすことは、感覚的に難しいのが普通だと思う。」

だが、中山さんは、この難しさは「単に私たちが人権感覚に慣れていないからだろう」とも語っている。そして次のような指摘をしている。

「考えてみると、かつて、人権感覚に慣れない白人は、本国の人と植民地の人を同じ人間だと認めることは出来ても、黒人を同じに考えることはなかなか出来なかった。先住民インディアンを同じに考えることは、ようやく最近、始まった。女を男と同じ人間として考えることについても、まだ感覚的に反発のある人々が少なくない。
 長い間、人種差別社会に生きてきて、人権感覚に慣れない白人は、黒人や先住民が選挙権を持ち、白人と同じ学校に通うことを、感覚的に納得出来ない。長い間、性差別社会に生きてきて、人権感覚に慣れないものは、女が選挙権を持ち、男と同じ仕事に就くことを、感覚的に納得出来ない。けれどもやがて、人権感覚が浸透して、黒人や先住民や女が、白人男性と同じ自由を行使することが、感覚的に普通になる。」

人類の未来に希望を感じさせる、格調高い素晴らしい言葉だと思う。この指摘も、まったくその通りだと僕も思う。引用の連続になるが、次の言葉も素晴らしいのでそのまま引用する。

「私たちは長い間、犯罪者を「人でなし」「鬼」と見て、そのように扱う社会で生きてきた。だから私たちは感覚的に、犯罪者をも同じ人と見なすことに抵抗があるのだ。人権感覚がよく浸透したところ、例えばスウェーデンの人々などは、私たちよりもずっと抵抗無く、犯罪者も同じ人間だと感じている。実際、犯罪者は重大な過ちを犯した「人間」なのだ。私たちも、人権感覚に慣れれば慣れるほど、そう感じるようになるだろう。
 事実として無条件に、どんな人にもある、それが人権だ。だから、善良な人の人権は認めるけれども、凶悪な犯罪者の人権は認めない、というのは、人権を認めていることにならない。犯罪者にも一般人同様にある、それが人権なのだから。」

「人権感覚」というものを深く感じるようになりたいものだと思う。また、自分だけがそれを感じるのではなく、多くの日本人にも感じてもらいたいものだと思う。それがおそらく、日本の近代化に大きく貢献するだろうと思うからだ。日本はまだ封建社会の残りかすを引きずっているような感じがするので、人権感覚を身につけた人々が、近代化の牽引車となっていくだろうと思う。

近代国家の市民として必要な資質は、愛国心よりも、この人権感覚の方ではないかと思う。今の時代は、思いやりが育たないという指摘などもあるが、思いやりということの大切な側面は、他人になったつもりで考え・感じてみると言うことだ。そのような想像力を持つことが思いやりの心につながる。そういうものも、人権感覚を身につけることによって、他人の人権が侵されたときに、自分の人権が侵されたときと同じように感じることが出来れば、豊かな想像力として身に付くことになるのではないだろうか。

死刑廃止について考えることは、それについて賛成する・反対するということにかかわらず、実に深い真理につながるものだなと思う。