「人権」について考える(続き)

さて、「人権」についてもう一つ大事なことが中山さんの本には書かれているので、それを考えてみたいと思う。それは「人権感覚」と呼ばれるものだ。「人権」というものを、その歴史的な成立過程を理解することで、人間であれば誰でも持っている当然の権利だと言うことを、その「正しさ」から導くことが出来た。

自由権」「参政権」「生存権」「社会権」などというものが正しいというのは、入れ替え可能性というものを想定することによって得られるのではないかと思う。もし、この諸権利が、「人権」として保障されていなかったとしたら、自分は、その権利を持たない状態にいたとして納得出来るだろうか。

この諸権利を自分が持っていなかったら、社会生活を営む上で大きなハンディを持つことになるだろう。そのハンディは、ある種の条件の下であれば仕方がないとあきらめることの出来るハンディだろうか。これは、普通の状況であれば、ハンディを持たせることが不当になるだろう。このハンディを許さないという感覚が、人間が当然持っているはずの「人権」というものの感覚になるのではないだろうか。

誰もが当然持っていると考えられる権利を、頭で理解しているだけではなく、身体でも実感出来ると言うことが「人権感覚」と呼ばれるものではないかと思われる。これはなかなか身につけることが難しい感覚だと思われる。自分の「人権」が犯されるという感覚は、自ら感じることの出来るものだから分かりやすい。しかし、ここで言う「人権感覚」というものは、他人の人権が侵されるときに、それを自分の人権が侵されるのと同じように感じられるかどうかという感覚になるからだ。

死刑囚だから人権が侵されても仕方がないと思うような感覚では、人権感覚が身に付いているとは言えないだろう。たとえ死刑囚であろうとも、その人権が侵されていることを敏感に感じ取ることが出来たとき、人権感覚が身に付いていると言える。これは、「惻隠の情」で埋め合わせることが出来る感覚ではない。人権というものを、本当に深く理解したときにようやく身に付く感覚だ。中山さんも次のように語っている。

「戦後に育った私たちも、基本的人権としての諸権利を、実感としてきちんと把握しているとは言えない。可哀相な人を助ける慈善の精神や、何か安っぽい人間中心主義と混同されているような感じさえある。」

この人権感覚を身につけるのに邪魔になるのは、「けちな根性」だと中山さんは指摘する。けちな根性を持つ人は次のような考えを持つ。

「私はこんなにたくさん税金を出している。隣のA氏は病気がちで働かないから、全然税金を出していない。それどころか、近所からものをもらったりお金を借りたりして生活している。そのA氏が私と同じように投票し、政治に口を出すのはおかしい。それでは、せっせと働いて税金を納めている私は損ではないか」

このような考えは、「けちな根性」だと中山さんは言うのだ。その理由はこうだ。このお金持ち氏は、病気でもなくお金もあると言うことで、普段の生活ではA氏よりもずっと得をしていることになる。それを、ただ一点だけを見て「損」だというのなら、その生活をA氏と入れ替えることを提案してみるといいと中山さんは言う。本当に「損」であって、A氏の方が得だと思っているのなら入れ替える方を望むだろう。しかし、その提案には賛成しないだろう。

結局、普段の得はそのままにしておいて、一点だけの損を埋め合わせたいとする欲は、「けちな根性」だと中山さんは言うわけだ。普段の損を埋め合わせるためにこそ、人権というものを保障して平等を確保しようと言うことを人間は歴史を刻むことで学んできたのだ。自分の欲を満たすことだけを考えて、他人が不幸になろうと知ったことではないと思っているなら、そのような金持ちは「けちな根性」の持ち主だと言われても仕方がないだろう。人間は、この「けちな根性」を克服して人権の考えを身につけたと中山さんは考える。次のように語っている。

「人はみんな、さまざま違った条件を持って生まれ、時代や運に左右されて、得をしたり損をしたりする。それを運命だとあきらめていたのが、近代以前の人類だ。人権の考えはそれを変えた。人はみんな人として同じ、平等で自由であるべきだ、だから人の知恵で均せる損得、不平等は解消しよう、そう人々は考えついた。貧乏な人、元々損をしている人を政治参加させないのは、その人の運命的な損の上に、さらに損を法律が付け加えることである。その不平等を解消したのが、普通参政権の実現だった。」

実に明快な人権の論理だ。金持ちが、「けちな根性」で自分の損を感情的に収めるのではなく、人権の考えとして平等を受け入れるなら、高貴な精神を持った人間として尊敬されることだろう。それが近代以後の市民というものだと思う。このような人権感覚を持たない人間は、近代以前の古くさい頭の持ち主だと言われても仕方がないだろう。

人権感覚を身につけると福祉に対する考えも変わってくる。福祉というのは、金があるものが貧乏なものに対して施しを与えるようなものではないのだ。中山さんは次のように語っている。

「人権による福祉は、これとは違う。人はみんな同じ、平等で自由であるべきだ。それが当然のこと、正しいこと、つまりライト(人権)だ。だから、人々はみんな等しく、衣食住に満足し自由に行動するのが、当然のこと、正しいこと、ライツ(諸権利)だ。従って、もし、身体的な条件や経済的な条件で衣食住に困り行動が不自由な人がいたら、その人が出来るだけみんなと等しい自由な暮らしが出来るように、社会は計らわなければならない。それが当然だ。と言うのが人権による福祉の感覚だ。ここには、福祉を受ける人のためになるかどうか、とか、受ける人の態度がいいかどうか、といった、する側の判断が入る予知はない。そこが慈善の福祉と大きく違う。」

僕もまったくその通りだと思う。このようなことに対して「当然だ」「正しい」と思える感覚こそが「人権感覚」というものだろう。このような感覚が身に付くと、凶悪犯にも人権があるという感覚が違ってくる。人権に対しては、凶悪犯であろうと無かろうと、それは関係が無いという感覚を持たなければならない。だがそれは、まだ難しいだろうと中山さんも考えているようだ。その難しさを中山さんは次のように指摘する。

「いやちょっと待て、確かに理屈ではそうだろうけれど、それはなんだか納得出来ない−−多くの人々はそう思うのではないだろうか。正直なところ、私にもそんな気持ちがある。王様も奴隷も同じ人間だというのは、なるほどと納得出来るけれども、例えば幼女を強姦して殺害した男などを、善良な人と同じ人間と見なすことは、感覚的に難しいのが普通だと思う。」

だが、中山さんは、この難しさは「単に私たちが人権感覚に慣れていないからだろう」とも語っている。そして次のような指摘をしている。

「考えてみると、かつて、人権感覚に慣れない白人は、本国の人と植民地の人を同じ人間だと認めることは出来ても、黒人を同じに考えることはなかなか出来なかった。先住民インディアンを同じに考えることは、ようやく最近、始まった。女を男と同じ人間として考えることについても、まだ感覚的に反発のある人々が少なくない。
 長い間、人種差別社会に生きてきて、人権感覚に慣れない白人は、黒人や先住民が選挙権を持ち、白人と同じ学校に通うことを、感覚的に納得出来ない。長い間、性差別社会に生きてきて、人権感覚に慣れないものは、女が選挙権を持ち、男と同じ仕事に就くことを、感覚的に納得出来ない。けれどもやがて、人権感覚が浸透して、黒人や先住民や女が、白人男性と同じ自由を行使することが、感覚的に普通になる。」

人類の未来に希望を感じさせる、格調高い素晴らしい言葉だと思う。この指摘も、まったくその通りだと僕も思う。引用の連続になるが、次の言葉も素晴らしいのでそのまま引用する。

「私たちは長い間、犯罪者を「人でなし」「鬼」と見て、そのように扱う社会で生きてきた。だから私たちは感覚的に、犯罪者をも同じ人と見なすことに抵抗があるのだ。人権感覚がよく浸透したところ、例えばスウェーデンの人々などは、私たちよりもずっと抵抗無く、犯罪者も同じ人間だと感じている。実際、犯罪者は重大な過ちを犯した「人間」なのだ。私たちも、人権感覚に慣れれば慣れるほど、そう感じるようになるだろう。
 事実として無条件に、どんな人にもある、それが人権だ。だから、善良な人の人権は認めるけれども、凶悪な犯罪者の人権は認めない、というのは、人権を認めていることにならない。犯罪者にも一般人同様にある、それが人権なのだから。」

「人権感覚」というものを深く感じるようになりたいものだと思う。また、自分だけがそれを感じるのではなく、多くの日本人にも感じてもらいたいものだと思う。それがおそらく、日本の近代化に大きく貢献するだろうと思うからだ。日本はまだ封建社会の残りかすを引きずっているような感じがするので、人権感覚を身につけた人々が、近代化の牽引車となっていくだろうと思う。

近代国家の市民として必要な資質は、愛国心よりも、この人権感覚の方ではないかと思う。今の時代は、思いやりが育たないという指摘などもあるが、思いやりということの大切な側面は、他人になったつもりで考え・感じてみると言うことだ。そのような想像力を持つことが思いやりの心につながる。そういうものも、人権感覚を身につけることによって、他人の人権が侵されたときに、自分の人権が侵されたときと同じように感じることが出来れば、豊かな想像力として身に付くことになるのではないだろうか。

死刑廃止について考えることは、それについて賛成する・反対するということにかかわらず、実に深い真理につながるものだなと思う。