国家権力の暴走に対する「恐れ」の感覚

昨日は「人権感覚」というものを身につけることの難しさを考えたが、日本においては国家権力に対する感覚を磨くこともたいへん難しいものになっているように思われる。自由や民主主義を、国家権力との戦いによって勝ち取ってきた西欧なら、国家権力はよく監視していないと暴走するという感覚は普通のものだと思われる。しかし、日本では、水戸黄門に代表されるように、「お上」は正しい判断で民を救うものというイメージがあるせいだろうか、国家権力が暴走するという恐れよりも、正しい判断をお願いするという意識の方が強いのを感じる。

死刑廃止論の抽象論の前提としては、死刑制度というような強大な権力を、その時の統治権力に与えることの恐れの感覚がある。統治権力が民衆のことを配慮して、その時のもっとも望ましい判断を常にしていると考えるのは幻想だ。むしろ、その時の利権が大きく影響して、もっとも強い力を持っているものに対して、その利益を誘導するような判断をするものだという理解が正しいと思う。

このような理解は、近代民主主義ではごく当然だと思うのだが、日本ではこのような考えを持っただけで反体制派だというような受け取られ方をするだろう。しかし、時の統治権力を監視し、批判的にそれを見ることは、権力の暴走を防ぐという失敗に対する姿勢に過ぎない。時の統治権力を倒して、代わりの権力を打ち立てようと言うような考えではないのだ。それすらも許さないような空気を日本社会が持っているとしたら、日本はまだ近代民主主義国家になっていないと言うことになるだろう。

今週配信されたマル激では、社民党衆議院議員保坂展人氏を迎えて、最近国会に提出されている一連の新法案が議論されていた。話題になっている「共謀罪」なども語られていたが、これなどは、統治権力に対して実に強大な力を与える法律になっている。実行する前の段階で犯罪の取り締まりが出来ると言うことが、戦前・戦中の「治安維持法」によく似ている所なんだろうと思う。これを恣意的に適用されたら、統治権力にとって都合の悪い人間は全部犯罪者にすることが出来る。

統治権力に対する暴走の恐れという感覚があれば、このことだけで「共謀罪」に反対する理由がある。しかし、それが薄いときは、かえって「共謀罪」を支持するような勘違いさえ起きてしまうかも知れない。

オウム教団が行った、地下鉄サリン事件のような無差別殺人は、それが起こってしまってから対処するには、あまりにも犠牲が大きすぎる。だから、この種の犯罪に対しては、犯罪が起こる前に防止する必要がある、と言う論理は理解しやすい。確かに、この種の犯罪だけを取り締まるのであれば、「共謀罪」にも意義があると言えるだろう。

だが、法律の適用というのは、ある意味では抽象的な普遍性を持っている。濫用の恐れがある場合は、正当に使われた場合のメリットと、濫用された場合のデメリットを比べて、どちらが民衆にとって結果的な利益になるかを判断しなければならない。その際に重要なのは、国家権力は暴走するという恐れの感覚だ。

共謀罪」の濫用でもっとも恐れなければならないのは、スパイを送り込んで陥れることが出来ると言うことだ。これが許されるなら、統治権力にとって都合の悪い人間を「共謀罪」で排除することが出来る。「共謀罪」は、本当の犯罪者を逮捕することも出来るだろうが、犯罪者ではない・統治権力にとって都合の悪い人間も逮捕出来てしまう。このような権力を与えることに対して恐れを感じることが民衆の側には必要だろうと思う。

死刑廃止の問題も、感情論によって、廃止すべきではない・存続させるべきだと言うことが語られる。しかし、廃止しようと言う考えの基本にあるのは、これが国家にとって都合の悪い人間に使われる恐れが充分にあるという恐れの感覚だ。中山千夏さんの『ヒットラーでも死刑にしないの?』によれば、死刑になるような犯罪は次のようなものらしい。

  • 内乱罪(の容疑者)…死刑または無期懲役
  • 外患誘致罪(外国が日本に対して武力行使する元となるような活動をする罪)…死刑
  • 外患援助罪(日本に対する外国の武力行使を手伝う罪)…死刑または無期もしくは2年以上の懲役
  • 現住建造物放火罪…死刑または無期もしくは5年以上の懲役
  • 建造物浸害(水を出して建物などに水害を及ぼす罪)…死刑または無期もしくは3年以上の懲役
  • 汽車転覆罪(の致死)…死刑または無期懲役
  • 往来危険罪(の致死)(汽車や電車の往来を妨害した結果、人を殺す)…死刑または無期懲役
  • 水道毒物混入罪(の致死)…死刑または無期もしくは5年以上の懲役
  • 爆発物使用罪(治安妨害や他人の殺傷を目的として、爆発物を使用、または使用させる罪)…死刑または無期もしくは7年以上の懲役または禁固

個人の権利を脅かすものよりも、統治権力の権力的な側面を直接脅かすようなものが多いように感じる。個人の権利を脅かすものは、例えば「強姦致死罪」は、「明治時代から今日まで「無期または3年以下の懲役」のままだ」と中山さんは書いている。これを死刑にしろと言うことではないが、何を死刑にするかという判断において、統治権力にとってどのような意味を持つかという点が大きなものだというのを、ここからも感じることが出来る。

統治権力に対する恐れの少なさが、逆に統治権力に対する「お上意識」となり、自分たちに何かをしてくれることを期待するメンタリティをつくる。これを、宮台氏は、「くれくれタコラ」と呼んでいた。統治権力に対して、何でも「してくれ」と要求するメンタリティだ。

治安維持に対しても、監視カメラを増やしたりなどして、警察に何とかしてくれと要求する心情が強いのではないだろうか。警察が何とかしてくれる面があるには違いないが、それによって強大な権力も与えると言うことの恐れの面は薄い。自分は、その権力によって弾圧される側にはいないのだという素朴な思いが強いせいだろうか。しかし、弾圧されるかどうかは、一般庶民にとっては偶然の結果にしか過ぎない。本当に権力の近くにいる人間でない限り、弾圧される可能性は常に存在するのだ。

被害者であるにもかかわらず、容疑者の疑いをかけられた河野義行さん(松本サリン事件被害者)は、権力によって弾圧された庶民だと僕は思う。権力にとっては、松本サリン事件という大きな事件に対しては、どうしても犯人が必要だったと思われる。このような大きな事件の犯人が見つけられないことは、統治権力の失態になってしまうからだ。

河野さんは、たまたま化学の専門知識を持っていて、薬の調合が出来そうだということから疑いをかけられた。このような偶然から、国家権力ににらまれた場合弾圧される可能性が出てくる。幸いなことに、河野さんの場合は、オウム教団という真犯人が見つかったので冤罪であることがはっきりしたが、もし真犯人が見つからなかったら、冤罪のまま葬られていたかも知れない。これが、誰にでも起こりうるものなのか、自分には関係ないと思うか、それは、国家権力への感覚によって決まるのではないだろうか。

アメリカでは、たまたま原爆製造者の関係者が親族にいたと言うことで、ローゼンバーグ夫妻は、国家権力の弾圧で死刑にされた。国家権力は、ローゼンバーグ夫妻が罪を認めれば死刑にはしないと言う取引もしてきたそうだ。それは、国家権力にとっては、どうしても犯人が必要だったと言うことを意味している。犯人になってくれるなら誰でもよかったのだ。偶然、その罪を押しつけられる存在としてローゼンバーグ夫妻が選ばれたに過ぎない。

冤罪として訴えられている事件のほとんどは、誰かを犯人にする必要があった国家権力が、偶然疑いをかけられる相手を選んで弾圧しているのだと考えられるのではないかと思う。その偶然は、誰にでも訪れる偶然だと受け止めるのが、国家権力に対する暴走の「恐れ」ではないかと思う。

和歌山毒カレー事件の林被告は、まだ冤罪だと決まったわけではないが、状況証拠ばかりで物証がないと言われている。もしも、この状況証拠だけで死刑判決が出されるようなら、僕は、これも国家権力による庶民への弾圧ではないかと感じる。たとえ、林被告がどれほど真犯人に見えようとも、状況証拠だけで死刑を出してはいけないと考えるのが、国家に対する「恐れ」の感覚ではないかと思う。

中山千夏さんは、本当の意味で治安を確立させるためには、平和が必要だと主張している。正義のために人を殺すことを正当化するような戦争は、日常生活においても正義のための殺人を肯定してしまうだろうからだ。僕もその通りだと思う。そして、平和に加えて、豊かな生活を実現することが治安の基礎でもあると思う。犯罪の温床になるのは、鬱屈した不満というものだ。それを出来るだけ少なくしなければ、どれほど重罰化をして犯罪は減らないだろう。

犯罪を減らすために警察権力を強めるという発想は、国家権力に対する「恐れ」の感覚が薄いと思う。それは、近代民主主義を支える市民が取るべき発想ではない。自らの自由を脅かし、国家の弾圧を容易にするような方向は、民主主義的な方向ではない。

平和と繁栄と言うことが治安のための条件だと言うと、中山さんも言われたように、それは理想論で非現実的だという答が返ってくるだろう。確かに、これをすぐに実現することは難しい。しかし、それでは、これ以外にどのような現実的に実効性のある方法があるだろうか。警察権力を強める方向が実効性があるとしても、それは、将来きっと民主主義に危機をもたらす。民主主義を守る方向としては、平和と繁栄を求めて努力する以外にはないのではないだろうか。

民主主義にも欠陥はあるし、平和と繁栄を求めるのも難しい。しかし、それは今のところ、他のどの道よりも健全な方向を向いているのではないかと思う。他にもっといいものが見つかるまでは、この方向を向いて努力するしかないのではないだろうか。だからこそ、今のところは死刑廃止が正しいと思うし、国家に対する「恐れ」の感覚を鋭く持ちたいと思うものだ。