論理トレーニング4 順接の論理;練習問題1の続き

問2から問4までは、[ ]の中から接続詞を選び、番号のついた文の論理構造を分析するというものだ。考えてみよう。

問2
(1)私たちは普通、現実世界のいくつかの断片を素材にして、夜の夢の世界が構築されるのだと思っているが、
(2)実はまったく逆なのだ。
  (a)[すなわち/しかも]、
(3)私たちの無意識的存在こそを真の存在であり、
(4)この真の存在の見ている夢が、私たちの意識存在というものなのである。
  (b)[例えば/だから]、
(5)この現実世界は、その中にいるときに現実のように見える夢のように、夢であり、見せかけの現実に過ぎない。

それぞれの文章の主張を簡単に表現してみよう。

(1)現実を素材にして夢が構築される。
(2)(1)の逆が正しい。
(3)無意識存在が真の存在だ。
(4)無意識が見ている夢が、現実の意識存在だ。
(5)現実世界こそが夢であり見せかけだ。

(2)と(3)の関係が、同じことを別の視点で語っているのなら(2)=(3)という解説になる。だが、(2)で語ったことに付け加えてより詳しく説明しているのなら、(2)+(3)という付加になる。その内容から、どちらであるかを判断する。
現実と夢の関係を、素材と創作物に喩えるのは、両方の世界の関係を語ったものになる。だから、解説として語るには、両方の世界の関係を別の側面から語ることになるだろう。
夢を無意識の世界にし、現実を意識世界として対比して、その間に真(本物)である・偽(ニセモノ=コピー)である、と言う関係を語っているのが(3)及び(4)であると考えられる。コピーは、素材に対する創作物として対応していると考えられる。
(3)と(4)は、素材と創作物という関係をより詳しく語ったものというより、同じ事柄を、違う観点から語り直したと考えた方が内容的にふさわしいように思う。つまり同じことを語っている解説だと僕は判断する。従って解答は、

  (2)=((3)〜(4)):接続詞=すなわち

となる。ここで(5)の内容を考えると、これは(2)とほぼ同じである。もし(3)と(4)がなければ、同じことを語った解説として

  (2)=(5)

と考えることも出来るだろう。しかし、(3)と(4)が挿入されることにより、(2)と(5)の関係が違ってきている。無意識の世界こそが本当だと言うことを前提に認めると、そこからの論理的帰結として、夢の世界こそが本当だと言うことが導かれる。つまり(3)と(4)は、(5)の根拠として論証の形を取っていると考えることが出来る。従って解答は、

  ((3)〜(4))→(5):接続詞=だから

となる。
なおこの論証は、論証としては循環論になっていると思う。「夢の世界こそが本当だ」ということが「無意識の世界の本当性」から導かれているように見えるが、それは、「現実を素材にして夢が構築されていることが逆だ」という断定から、その前提が同じものとして設定されている。この断定は何も根拠が示されていない。強いていうなら、結論と同じことが前提として断定されているといってもいいだろう。形式論理的にいえば

  A →(ならば) A

と言うトートロジーと同じものになる。証明しなければならないことを前提に持ってくる循環論だ。だから、上の主張は、この主張だけではほとんど無内容で意味がない。論理の流れとしては分析出来るが、内容的にはそれが正しいかどうかという議論は出来ないものになるだろう。より真理性が保証されている前提から導かれた結論でなければ、それは実際にはあまり意味のないものになるだろうと思う。論理の訓練として捉えるべき文章だろうと思う。

問3
(1)風土そのものが持つさまざまな特徴は、具体的に人間の生活と結びついて我々自身の特徴となる。
  (a)[それゆえ/例えば]
(2)稲及びさまざまの熱帯的な野菜や、麦及びさまざまの寒帯的な野菜は、人間が自ら作るものであり、
  (b)[従って/しかも]
(3)それに必要な雨や雪や日光は人間の生活の中へ降り込み照らし込むのである。
  (c)[例えば/また]
(4)台風は稲の花を吹くことによって人間の生活を脅かす。
  (d)[だから/すなわち]
(5)台風が季節的でありつつ突発的であるという二重性格は、人間の生活自身の二重性格に他ならない。
(6)豊富な湿気が人間に食物を恵むとともに、同時に暴風や洪水として人間を脅かすという、モンスーン的風土の二重性格の上に、ここにはさらに熱帯的・寒帯的・季節的・突発的といった特殊な二重性格が加わってくるのである。

それぞれの主張をまとめてみる。

(1)風土の特徴は人間の特徴と結びつく。
(2)野菜は人間が作るものだ。
(3)それに必要な自然は受動的に与えられる。
(4)自然の中の台風は人間にとって脅威になる。
(5)自然の二重性格が人間生活の二重性格に結びつく。
(6)普遍的な二重性格と共に特殊的な二重性格が加わる。

それぞれの主張の関係から接続詞を選ぶ。(1)と(2)の関係は、(1)が一般論であり、(2)がその一つの具体例を提示しているものと考えられる。つまり例示の関係になっているので、解答は

  (1)−例(2):接続詞=例えば

となる。(2)と(3)の関係は、(2)で語った野菜作りにおいて、人間が行うこと以外、つまり自然についての側面を付け加えて語っている。つまり、ここは付加の関係になっていると考えられるので、解答は

 (2)+(3):接続詞=しかも

になる。(3)は一般論としての自然を語ったのではなく、具体的な雨や雪や日光を語っている。そして(4)においても、具体的な台風について語り、(3)の恵みの点と違う側面の脅威ということを付け加えて説明している。つまりここも付加と考えていいだろう。従って解答は

 (3)+(4):接続詞=また

となる。
(4)から(5)への移行はやや論理の飛躍を感じる。熱帯的と寒帯的という言葉から、季節的という抽象の方向はまだ妥当性を感じるのだが、突発的ということに関しては、それ以前の文章にはまったく説明がない。この問題は一部の文章を問題用に抜き出しているので、本来はそれ以前に突発的ということに関連した文章があるのかも知れないが、この文章だけからは判断が出来ない。
もし、ここに論理の飛躍がなければ、それ以前の具体例が抽象されて、(5)の一般論が論証されているという形に収まるのではないかという論理の流れを予想したくなる。しかし、論理に飛躍があるので、(5)の文章は、単なる断定を語ったものにしか読めない。
この問3に関しては、野矢さんの解答があるのでそれを見ると、ここの関係は論証になっていて、接続詞としては「だから」が選ばれている。つまり解答は、

 (4)→(5):接続詞=だから

になっている。何となく釈然としないが、選ぶとしたらこれしかないのかなという思いは感じる。だが、この論証はやはり論理の飛躍だと思う。もっと説明が必要だろう。
なお野矢さんの解答では、それぞれが次のようになっている。

(a)(1)−例((2)〜(6)):接続詞=例えば
(b)(2)→(3):接続詞=従って
(c)((2)〜(3))+((4)〜(5)):接続詞=また
(d)(4)→(5):接続詞=だから

この中で、(b)の解答だけが僕の考えたものと大きく食い違う。野矢さんの解答では、これは論証と判断されているのだが、僕には論証には見えない。論証ならば、(2)を根拠にして、(3)の内容がそこに含まれているということが示されなければならない。
しかし(2)で語っているのは、野菜は人間が作るものであるということだけである。雨や雪や日光について語られている部分は何もない。何も語っていないことに対して論証するということが出来るのだろうか。
もしも、(2)で、雨や雪や日光は、人間が作るものではないということが語られていたら、その自然は受動的に与えられる恵みなのだということが論証されると考えてもいいだろう。人間が作るものと作らないものに世界を分けて、作らないものは与えられるだけだという受け取り方をしたら、論理的にこのことが導かれると考えられる。
この(b)に関しては野矢さんの解答はミスプリントではないかと僕は思う。(3)は(2)で語られていないことを付け加えた付加ではないかというのが僕の判断だ。
この問題は、最後の論証も論理の飛躍を感じるので、問題としてはあまりいい問題じゃないなと感じる。