論理トレーニング7 逆接の論理  練習問題2

問1
(1)日本人は世界に対して美的態度を取る傾向が強い。
  (a)[たしかに/ただし]
(2)この美的というのは必ずしも芸術的ということを意味してはいない。
  (b)[しかし/むしろ]
(3)情緒的な感動を持って最高の境地とし、最後の解決とするというほどの意味である。
(4)こうした美的態度=情は、日本文化に著しい特徴であろう。

まずはそれぞれの主張をまとめてみる。
(1)日本人の美的態度の強さを語る。
(2)上の美的態度は芸術的ということではない。
(3)上の美的態度は、情緒的な感動が最高だという意味だ。
(4)この美的態度は、日本文化の著しい特徴だ。
「美的態度」というものの中には、「芸術的態度」というものも入っているが、それだけではなく、他のものもある。(1)で語っている「美的態度」が、「芸術的態度」ではなく、他のものであるという論理展開になっている。つまり、「美的態度」という全体概念に制限を設けていると考えられる。だから、解答は
  (1)−制(2):接続詞=ただし
である。
(2)と(3)の関係は、対立する主張の関係ではない。「芸術的ではない」ということを、「芸術的である」と転換しているのではないから、逆接の関係ではない。「しかし」は不適切だろう。この場合は、「芸術的ではない」という内容を、より具体的に説明したものとして、(2)に説明を付け加えたと受け取った方がいいだろう。そこで、解答は
  (2)+(3):接続詞=むしろ
となるだろう。
(4)の論理構造は、接続詞がないので判断が難しい。ここに書かれていることが、この文章が主張したい中心テーマのように思われる。僕もこれに賛同したい気分が大きいのだが、この文章によって説得されて同意すると感じではない。だから、論証という受け取り方が難しい。論証するには、もう少し違う側面も語らなければならないのではないかと思う。
あえて言うなら、「特徴」という言葉の意味から、上の(1)〜(3)の論理展開で、(4)が結論されると見られないこともない。ただ、この場合「著しい」という言葉をどう受け取るかということが残されるが。これが、上の展開によって説得されたものなのか、自分でもそう思っているから受け入れていることなのかというのは難しい判断だ。
僕は、文章のまとめの時に「だ」という断定の助動詞を使ってしまったが、原文では「だろう」という言い方がされている。もし断定的に語られているのなら、これは論理的な帰結でなければならなかったと思う。この文章の内容について、ある種の予備知識を持っていれば、それを動員して、この結論を論証することも出来ると思う。だから、読み手の印象として、これは論証を語っていると感じることも出来る。
だが、あくまでも文章の論理構造だけから考えると、これは論証としては不十分だという感じがする。(3)の主張についても、僕はそうだと感じているが、論証として語るなら、もう少し言葉を付け加えなければならないのではないかと思う。
そういう意味では、(4)の論理構造に関しては、順接と逆接という範囲だけでは分類しきれない感じがする。あえて言えば、「だろう」という言葉に「仮説」というニュアンスが込められていると言いたい気がする。

問2
(1)生きた会話と開いた心とは非常に大切な関係にある。
  (a)「そして/しかし/ただし」
(2)開けっ放しの馬鹿正直とか天衣無縫の人が一人いたからとて、会話が活発になるとは限らない。
(3)他の人々の心が閉じていたとすれば、会話は開放的な人の一人合点に終わるかも知れない。
(4)他の人々は不愉快な想いで、さらに黙りがちとなるかも知れない。
  (b)「そして/しかし/ただし」
(5)誰かもう一人が少しでも心を開いて応じたら、その場の会話は生気の加わるものとなる。
  (c)「そして/しかし/ただし」
(6)話がはずみ始めて他の人もつられて心を開くとなれば、その場の会話は思いがけぬ面白いものに転じるであろう。

これも、まずそれぞれの主張をまとめてみる。
(1)生きた会話と開いた心について
(2)開いた心の人がいることは会話の活発さを保証しない
(3)他の人の心との関係が大事だ
(4)他の人が不愉快に感じると会話は活発にならない
(5)誰かが心を開いて応じると会話は活発になる
(6)その会話につられて他の人も心を開いて会話が活発になる
この問題の文章も、論理展開としては問1とよく似ている。最後が「だろう」と同じ「であろう」で締めくくられているのもよく似ている。
この問題では、(1)と(2)には対立する主張が含まれている。「大切」だという主張には、「会話の活発さを保証する」というニュアンスが含まれていると考えられるからだ。しかし、(2)は、(1)の主張を正面切って反対しているのではない。つまり「大切ではない」と主張しているのではない。
「大切である」という大枠は承認するものの、それが「会話の活発さ」の十分条件ではない、つまり必要条件にとどまっているのだということを、(2)以下の文章で主張しているように感じる。十分条件にならない不足した部分を付け加えるということが、(2)以下の主張のように思われる。つまり、
  (1)−制((2)〜(6)):接続詞=ただし
になるだろう。
(2)(3)(4)は、「開いた心」が「会話の活発さ」に対しては、どのように不十分かということの説明をしている文章として読める。だから論理構造としては、
  (2)+(3)+(4)
と言うことになるだろうか。特に接続詞はつけていない。文章のリズムを無視してあえて接続詞をつけるなら「そして」ということになるだろうか。
(2)(3)(4)では、開いた心が一人だけの時の不十分さを語っているが、これが一人ではなくなった、つまり前の主張と違う場面に展開したらどうなるかということが(5)では語られている。これは、場面がまったく違う時を設定しているので、前の主張の制限にはならない。まったく違う展開になる。つまり
  ((2)〜(4))−転((5)〜(6)):接続詞=しかし
となる。ここで(5)と(6)を一緒にしたのは、両方とも、心を開いた人間が一人ではないと言うところで共通していると考えられるからだ。従って、(5)と(6)の関係は、同じことを違う視点で語る解説か、足りない部分を補う付加ということになる。この場合は、(5)が一人が応じた場合を語り、(6)が他の人間も応じた場合を語っているので、同じことではなく付け加えたと受け取った方がいいだろう。すなわち付加である。
  (5)+(6):接続詞=そして
と言うものが解答になる。
この問題2も、文章全体の主張に非常に説得力を感じる。つまり、論証として感じるような文章だ。だが問1と同様に、論証としては不十分さも感じる。それは、最後の「であろう」という言い方にかかっていると思う。これが断定的な「だ」という言い方なら、ハッキリと論証しないと、文章全体の主張が論理的に間違っていると言えるかも知れない。
論証として不十分なところを「であろう」という言い方で、論理的な齟齬を起こさないように工夫しているのではないかと考えられる。これは、ある意味では「逃げ」といってもいいかも知れないが、断定出来ないことは断定しないというのも、論理としては大事なことだと思う。
この場合、断定が出来ないのは、「開いた心」が「活発な会話」をもたらすということが、自然科学の法則のように100%その通りになると言う法則にならないからだ。例外が存在する、確率的な断定しかできないので、「だ」という言い方が出来ず、「であろう」という言い方になるのだと思う。
「開いた心」の人がほとんどであっても、たった一人絶対に心を開かない人がいたら、その人が会話の空気に影響を与えて、例外的に、心が開いた雰囲気があっても会話が活発にならず楽しくならないことがあり得る。そういう例外が存在する法則の場合は、「だ」という言葉で断定することが出来ないのだと思う。
しかし、この問題の主張は、「であろう」という仮説がほとんどの場合は正しいと思えるような仮説なので、論証に限りなく近い仮説の提出をしているのではないかと僕は感じる。仮説と論証の関係は、仮説と、真理である「科学」との関係にも関わってくる重要な問題だ。興味のあるテーマである。