理論(論理)の目的とそのための抽象(捨象)の関係

内田樹さんの主張を、<「労働」は「贈与」である>と誤読している人に対しては、もっとよく理解してからもう一度考えてね、と言う感想しか持たないが、uprimeさんの「「定義の問題」へのコメント」の中にあった、抽象(捨象)と理論(論理)との関係に対する疑問については、よく考えてみる価値のあることではないかと感じた。

内田さんへの批判者は、そのほとんどは誤読からの批判であると僕には感じられていたが、uprimeさんの指摘は、論理的なものとしてはやや厳密さを欠いてはいるものの、感情的な反発を感じるという事実についてはよく理解出来るものだった。それは、自分たちが大事だと思っている現実の問題を、内田さんが捨象して無視しているように見えるので、そのような抽象論など価値がないと思えるという指摘だと僕は理解した。

これは問題意識の違いから生ずる感情だから、このように思うのはある意味当然のことでもあると思う。僕にも、そう思うようなときはたくさんある。特に、二流の言説だと思うものは、本質を語らず、末梢的なものに流れていて、大事なことを論じていないではないかと思うことはしばしばだ。

ただ、僕は内田さんが論じていることは本質的なことだと思うので、そうではないと感じる人と、そこの評価は違ってくるだろうと思うが。内田さんの批判者にとっては、資本主義の下での非人間的な労働が、その具体性というものが内田さんの論理展開では捨象されて無視されることが感情的な反発を読んでいるように、uprimeさんのコメントを読んで僕は感じた。この具体性を無視することが、現体制を擁護することに結果的につながるという批判もあるように感じた。

このような批判の方向であれば僕にも理解出来る。内田さんが語っていないことを勝手に捏造して、批判するために作った言説を批判するのは誤読だとしか思えないが、この部分の批判は、ある意味では当たっている部分もあると思うからだ。理論と抽象の関係は、理論と現実の関係でもあると思う。そのことを考察するのに、ちょうどいい材料が『貨幣の思想史』(内山節・著)の中にあった。

この本の第一章ではウィリアム・ペティの考えを紹介しているのだが、ペティの考えの中心にあるのは、国家の富とは何かと言うことだった。ペティの問題意識は、当時勢力を増してきた諸外国との対抗のために、イギリスという国家の富を増大させて、国家間の競争に勝ち抜くと言うことだった。具体的には戦争をしても負けない国を作ろうと言うことだ。

この問題の解決のために、国家の富を増大させることを考え、その答を出すには、国家の富とは何かという本質論が必要だった。そしてペティが出した結論は、国家の富とは貨幣のことであるということだった。貨幣の量が富の大きさを現すと考えたのだった。そうすると、今度は貨幣とは何かと言うことが問題となってくる。

ペティの『政治算術』は1670年代に執筆されたそうだ。この時代は、まだ資本主義の時代ではなく、重商主義の時代と呼ばれている。産業革命がイギリスで起こるまではまだ100年ほどあったそうだ。だから、ペティが考える貨幣は、商品の価値を代表する指標としての貨幣ではない。ある意味では、交換の道具として存在していた便宜的なものだったと言えるかも知れない。

ペティの考えでは、農業のような生産活動は、そこで生産された物が自家消費的にその内部で消費されてしまうと、新たな価値を生み出さないと考えていたようだ。そこでは、自分が生産していない物を求めるという気持ちはあるかも知れないが、求めているのはあくまでも「使用価値」の方であって、自分が日常消費する物、例えば食べる目的のものを交換するということが大切なことになる。そして、貨幣はその交換の道具として役に立てばいいので、貨幣を貯めると言うことが目的にはならなかった。

「使用価値」の交換が経済活動の大部分を占めているときは、貨幣がため込まれることはないので、そのような経済はペティにとっては価値を生み出さないものとして映り、貨幣を求める商業こそが価値を生み出すように見えたのではないだろうか。貨幣こそが価値を生み出すという論理は、「交換価値」を抽象して「使用価値」を捨象するような方向に向かうだろうと思う。内山さんは次のように書いている。

「すでに述べたように、当時の農村社会では、市場経済に回されない経済が確固として存在していたのであり、この経済は農村の人々の暮らしを豊かにすることはあっても、ペティが捉えた国富の増加にはいささかも結びつかないからである。確かに農民が作物を交換することは、農民の食卓を豊かにする上では重要でも、この交換を基盤にして国家が大砲を一門作ることさえ出来そうではない。だからペティは、国富を増加させない農村の人々の営みに対しては、ひどく批判的であった。」

「使用価値」の捨象は、農村の人々の生活の豊かさを捨象し、それが失われたとしても、「交換価値」が増大して貨幣が貯められれば良しとする方向へ論理が展開していく。これは、私的な生活の豊かさが大事だと考える人々にとっては、その破壊をもたらす思想であり、この抽象自体に反対したくなるだろう。

しかし、ペティの問題意識は、あくまでも国家の経済の方であり、個人の消費経済へ関心が向いていたのではなかった。国家の経済のためには貨幣こそが大事であり、この考え方が国民全員に浸透することを願ったのではないかと思う。後の資本主義の発展に関して、「勤勉を美徳とし、浪費を不道徳とする倫理が提唱され」たのは、そのことによって貨幣が貯められ、国家の富が増大すると言うことと関連があったのではないかと思われる。そのように理解すると、「マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で述べた産業資本家の精神」がよく理解出来る気がする。

国家の経済法則から導かれた方向に、国民一人一人の考えが持って行かれるというのは、現在の社会状況でも同じではないだろうか。理論が権力と結びついたときの影響の恐ろしさを感じる。宮台氏は、マル激の中で<経済学はイデオロギーだ>というようなことを語っていた。これは経済学においては、「真理」を追求しているように見えるけれど、その「真理」の前提となっているモデルの設定が、実は現実の権力者の立場にとって都合のいい前提が設定されているという、立場を反映した「真理」になっていることを指して「イデオロギー」だと言っているのだと思う。経済学は常に権力にとって利用される理論になっている。

このようなイデオロギー的側面を持っている経済学を評価するのは難しいことだ。ペティの考えによって、農民の生活が破壊され、国民のすべてが国家の富の増大へと動員されるようになっていっただろうと思う。生活が破壊された農民の立場からすれば、ひどい理論だと言うことになるだろう。しかし、その責任をすべて理論に負わせることが出来るだろうか。

ペティの理論によって、国家の富に対して正しく理解される道が開かれたのではないかとも思う。人々の実践において、ペティの理論がなかったら、貨幣を追い求めるような心性は生まれず、人々は自然の豊かな恵みを享受することで幸せを感じていられただろうか。ペティの理論がなくても、頭のいい人間は、経験的に経済法則をつかみ金儲けをして豊かになっていくのではないかと思う。むしろ、ペティのように、それを普遍的な法則として抽象することによって反省のきっかけが生まれるのではないか。

内山さんは、「使用価値」を求める経済と「交換価値」を求める経済との違いに注意を向けている。「交換価値」を求める経済は、個別的な「使用価値」を捨象するので、個人にとって何が大事かと言うことを無視する。そのような個別性は理論の中に入ってこない。しかし、

「近代社会では、国民国家と資本制経済は協調的融和を果たしている。なぜそれが可能だったのだろうか。私にはその理由が利害のプラグマティズムだけにあったのだとは思えない。それよりは、経済を捉える価値基準が同一であったことの方が、遙かに重要なのではなかろうか。それがなければ国家と資本制経済の間に価値基準の食い違いが現れ、両者は決して融和することは出来なかったであろう。」

と内山さんは語っている。「使用価値」を捨象して、国家の富を正しく理解しないと、それによって不利益を被る人間は恨みが残るだけで、決して融和的にはなれないだろう。国家の富の正しい理解こそが、融和を生んだのではないかという内山さんの指摘には共感出来るものがある。この融和そのものに反発したい人もいるだろうが、理論の理解がなければそれは反発する感情だけしか生まない。その感情を有効な行動に結びつけるのはやはり理論の正しさではないのか。

マルクスは『資本論』を書いて資本というものの正体を徹底的に明らかにしようとした。マルクスの当時の資本は、人々を苦しめるものとして感情的な反発の対象だったのではないかと思う。その感情をベタに表現するのではなく、一度捨て去って『資本論』という理論を構築して、対象の理解に努めるというのが、建設的な方向なのではないだろうか。

内田さんの論理も、現在の状況を、それが表面的に見える部分から感情的に反発をするのではなく、深い部分の本質を理解することによって今後の建設的な行動を見出していこうとする試みではないかと僕は受け取っている。論理は感情を捨てなければ正しいものが構築出来ない。それは気づかずに無視しているのではなく、百も承知ではあるがあえて無視しているのだと思う。

内田さんの言葉をベタに受け取って誤読すれば、反対の意味に解釈して利用出来るかも知れない。しかし、それをアイロニーとして受け取ることが出来れば、反語的に語ることによって難しい「真理」を浮かび上がらせているのだと言うことに気づくかも知れない。

内田さんの論理では語られていない、自分が重要だと考える部分は、内田さんにそれを語ってくれと要求するよりは、問題意識を持っている自分自身が語るべきではないだろうか。