イデオロギーとしての経済学


マル激の中で宮台氏が語った、「経済学はイデオロギーである」と言うことが気にかかっていた。それは、「科学(サイエンス)ではない」という意味での指摘だった。サイエンスとイデオロギーの違いはどこにあるだろうか。

サイエンスというのは、その法則性が任意の対象に対して成立すると言うことが基本にある。それに対して、イデオロギーとは、ある特定の立場を設定して、その立場からの対象について成立する法則性を問題にするように感じる。イデオロギーとは、辞書によれば次のような意味を持っている。

  • 政治・道徳・宗教・哲学・芸術などにおける、歴史的、社会的立場に制約された考え方。観念形態。
  • 一般に、思想傾向。特に、政治・社会思想。


経済学がサイエンスではないと言うことは、それは普遍的にどの時代にも通用する理論になり得ないと言うことになるのではないだろうか。それは常に時代の歴史的性質に制約される。しかも、社会的立場にも制約される、ごく狭い範囲でしか成立しない理論になるのではないかと思う。

経済学ではモデル理論というものを使う。モデルというのは、理論展開がしやすいように、すなわち演繹的推論が出来るように、抽象的対象を設定して論理展開をするものだ。抽象的対象は、定義したこと以外の属性を考えなくて済む。現実の存在のように例外を考慮しなくてよくなるのだ。このような対象に対しての論理展開なら、形式論理の演繹的推論の有効性を最高度に発揮することが出来る。

マルクス資本論においても、理論を展開するときは、商品の「使用価値」は捨象され、資本主義下の商品は「交換価値」のみが考察される。また、それを生み出す「労働」は、現実の具体的な「労働」ではなく、社会的な平均的労働という概念で考察される。だから、マルクスの理論に対して、現実には例外があるじゃないかと言って反論するのは、事実をもって論理を反駁するという間違いになる。抽象論理に対しては、論理そのものに批判の対象を見つけなければならない。

経済学がモデル理論のみに限られるのであれば、それは数学そのものであると言ってもいいのかも知れない。そこには現実存在は一つもないからだ。経済学がそこにとどまっていれば、それは特殊なサイエンス(科学)と言うことになるだろう。しかし、これが現実との関連をその考察に引き入れてくると、急にイデオロギー的な側面を見せてくる。

経済現象の解釈に、あるモデルを採用すると言うことは、そのモデル構築において抽象されたことによって、捨象されたものが無視されていることを意味する。それは、その理論を主張するものの立場を色濃く反映していることだろう。ここにイデオロギー性が現れてくるような気がする。

そのような理解をさせてくれたのは、内山節さんの『貨幣の思想史』という本だった。ここで語られていたウィリアム・ペティは、国家の富を考えるという立場の人だった。国家の富を考える立場の人は、当然ながら、国民一人一人の個人的な富を無視することになる。それは、国家の富の考察の邪魔になるので捨象されなければならなくなる。

経済学が、国家の富を考察することを目的とする限りでは、これは現在の経済学でも、同じように国民一人一人という個人は無視されることになるのではないだろうか。国家の破綻を避けることが最大の目標になる経済学では、個人の年金が破綻しても銀行を破綻させないような理論構築になるかも知れない。僕は、竹中平蔵氏の経済学は読んだことがないけれど、小泉政権の立場と彼の理論がどのような関係にあるのかを考えるのは面白いかも知れない。イデオロギー性がどのように現れているだろうか。

国家の富を考察したペティは、その前提から、貨幣について深く考察しなければならなかった。なぜなら、国家の富を表す指標は貨幣にあるようにしか見えなかったからだ。富を「価値」と考えると、貨幣以外の価値として、ものの「使用価値」というのもある。しかし、これは富の大きさを量で表すことが出来ない。「使用価値」は、どの使用に使われるかという質で計ることしかできない価値になる。

水のない砂漠で道に迷ったら、そこにおける水の「使用価値」は、何百万の金よりも価値が高いものになる。金などは、むしろ「使用価値」はゼロだという判断になるだろう。貨幣が表す価値は「使用価値」を捨象した「交換価値」になる。貨幣を考察したペティは、当然のことながら「使用価値」も無視することになるだろう。

個人の経済生活においては、「使用価値」の消費が豊かであれば、生活そのものも豊かに感じることが出来る。十分な食料を自らが生産出来れば、貨幣を持たなくても豊かな食事をすることが出来る。しかし、このような貨幣を使わない生活が豊かなものとして個人に認識されていると、国家の富としての貨幣を求める人間はいなくなり、国家は豊かにならないと、ペティの経済学では考えられる。

国家の富を増大させることが目的の経済学にとっては、「使用価値」を否定して、「交換価値」の蓄積こそが豊かな生活であると言うことを常識にしたくなるだろうと思う。これは、個人の生活感覚とはかけ離れたものになるが、イデオロギーとしての経済学はそういう方向に理論を展開して行くに違いない。

経済学においては、何が価値を生み出すかと言うことも基本的な論理の出発点として大事なことだ。これも非常にイデオロギー的な性格を帯びたものが出てくる。資本主義社会に生きている我々は、労働が価値を生むという「労働価値説」が当たり前のように考えているのではないだろうか。しかし、内山さんによれば、「経済表」で有名なフランソワ・ケネーは、自然が価値を生むという「自然価値学説」だったそうだ。

ケネーにとっては、農業こそが価値の増大を可能にする唯一の労働だという考え方をしていたらしい。農業以外の労働は、何かを生産する労働は、生産するために原材料を消費しなければならないし、労働する人間も食料を消費したりして、生産の前提としての消費が存在する。その消費は、ちょうど生産した価値と等しいとケネーは考えていたようだ。また、それを売りさばく商業は、価値を運ぶだけであって、価値を増大させないとも考えていたようだ。

農業がなぜ価値を増大させるかと言えば、人間の労働に加えて、太陽や水やその他自然の恵みが農産物に蓄積されると考えられるからだ。農業においては、撒いた種以上の収穫が得られる。それを見れば、価値が増大していると思うのも、論理的にもっともだと納得出来る。

ケネーの考え方は正しいように見える。しかし、これも実はある立場からの見方のようにも見える。ケネーは貧しい農村出身だったらしい。農業という労働の価値に大きなものを感じていたようだ。その豊かさが素晴らしいものであることを肌で感じていたので、このような理論構築をしたのではないだろうか。

ケネーの理論をよく考えてみると、ケネーが論じている価値は、実は「使用価値」の方であるように感じる。農業という労働が、具体的に持っている「使用価値」が、その労働によって増大するというふうに考えられているのではないだろうか。それは、同じ農業の中で、時間的な過去と未来を比較することになるので量的な比較が可能になるのだと思われる。逆に言えば、質の違う工業や商業との「使用価値」の比較は出来ない。ケネーが工業や商業は、価値を増大させないと考えたのは、その立場や、比較の方法から得られた結論であって、イデオロギー性が反映している結論のように感じる。

ケネーの考え方は、資本主義の発達と共に古くさいものになり、やがて人々から忘れられていったようだ。資本主義の関心は、資本の蓄積であり、貨幣の量で計算される価値の増大をこそ目指していたからだろう。この「交換価値」こそが豊かさの指標になるのであれば、商業は資本主義にもっともふさわしい労働になるだろう。それは、ある場所では価値が低い商品を、それが不足している地域では、もっと高い「交換価値」にすることが出来る、価値の増大を実現出来る「労働」になる。

貨幣で表される価値の増大こそが、経済学の第一目的になれば、論理的な帰結として、「使用価値」の否定から来る生活世界の退廃が生まれる可能性がある。これは、資本主義の永遠の問題だろう。資本主義は、この問題が資本主義そのものを破壊しようとしないように、常に修正を余儀なくされているのではないだろうか。

株式市場というものも、その草創期には、他人をだまして資金を調達すると言うことが日常茶飯事だったらしい。そのような経験を積みながら、欧米では、そこでの真っ当な取引はどういうものであるかというのを考えてきたようだ。

社会主義国家が存在していたころは、それに対抗するために資本主義国家は、資本主義の修正を常に意識していたのではないかと思う。社会主義国家が崩壊して後は、この意識が薄れているのではないだろうか。頭のいいやつが金儲けをするという社会は、ある意味では人をだましたやつが勝ちだという結果になりかねない。資本主義が、この後も豊かさを保ち続けられるかは、退廃を防ぐような修正が出来るかどうかにかかっているのではないか。

ケネーの「自然価値学説」は、今別の方向から評価されているらしい。それは、環境問題との関連から、自然を失うことによる価値の喪失などを、他の価値の増加との関連で計るようになったのではないかと思う。経済学をイデオロギーとして捉えれば、ケネーの立場に共感する人々が現代社会では多くなってきたと言えるのではないかと思う。

資本主義の競争主義を支持し、勝ったやつが全部とるのが正しいというイデオロギーの下に、今の日本は動いているようにも感じる。たぶん今の日本の経済学的理論は、そのような立場のものが多いのではないか。このイデオロギーは、はたしていつまで主流になっていけるだろうか。勝者というのは、数の上では少ない。それでも、なお勝者になる可能性が信じられていれば、結果的に敗者になろうとも、勝者が正しいというイデオロギーが日本を支配していくだろうか。

今週のマル激では『希望格差社会』を書いた山田昌弘さんがゲスト出ている。希望格差社会では、もはや勝者になる可能性などは、初めから微々たるものだ。勝ったやつが全部とるのが正しいというイデオロギーはやがて終わりを迎えるだろう。その後に来る、経済学の主流となるイデオロギーはどういうものになるだろうか。子供たちの世代に、希望を持たせられるようなイデオロギーにしたいものだと思う。