仮説が科学になるとき

科学はすべて仮説に過ぎないという言説はいつでも再生産されるもののように感じるが、これは、科学における真理と形式論理における真理を混同しているために起こる誤解ではないかと僕は感じていた。つまり、科学の何たるかを知らない哲学者が、真理といえば形式論理的な真理しか認めない発想を持ち、そのために、形式論理的な真理ではない科学の真理を仮説だと思い込んでいるのではないかと思っていた。

科学は仮説と区別されなければならない。仮説は実験によって検証されることを経て科学という真理になる。科学と仮説を一緒くたにする発想は、実験による検証を経たものと、単なる思いつきによるものとを一緒くたにする。

形式論理的な真理というのは、一度真理であることが確定すれば、それは決して誤謬には転化しない。真理はどこまでも真理であるし、誤謬はどこまでも誤謬だ。真理と誤謬が両立することがない。形式論理は矛盾を許さない論理だ。このような真理が、現実を対象にする科学にも成立すると考えるのは、抽象というものに対する無理解であり、現実の弁証法性を無視する考え方だ。

現実を対象にする科学では、対象の範囲を逸脱すれば、それまで真理であったものが誤謬に転化する。科学的真理とは、常に条件付きの真理であることを自覚しなければならない。それを、無条件に成立するものでなければ真理でないという、形式論理的なものを真理だと定義すれば、科学においては真理は一つもないということになる。

科学が仮説だと主張する言説は、真理の定義において、形式論理的な真理のみを真理だと規定している結果、形式論理によって科学は真理ではない、すなわち科学は仮説であるということを導いているのである。これは形式論理による帰結であるから、真理という言葉の定義の中に、すでに「科学は仮説である」という結論を内包しているのであって、現実の科学がどうであるかということとは無関係だ。だから、このような主張は、現実の科学を知らない哲学者の戯言だと僕は思うのだ。

科学の真理性を論じるには、現実的な真理(科学)を確立するための「実験」という概念を確立しなければならない。「実験」をどう捉えるかで、現実的な真理のとらえ方が違ってきてしまう。

板倉聖宣さんは、「実験」の本質を<予想を持って現実に問いかける>と言うことに置いている。何らかの予想を持つと言うことが必要不可欠の要素だと考えるのである。この予想が、確固たる「仮説」に基づいているものならば、その「仮説」を検証する「実験」というものを考えることが出来る。予想を持たない、単なる受動的態度の「観察」は「実験」にはならないと考える。逆に、実際に操作的な活動が一つもない、対象を見る(観察する)だけでも、そこに<予想を持って問いかける>という態度があるなら、それは「実験」と呼ぶのである。

板倉さんが提案した仮説実験授業は、実験の前に必ず予想を聞くというスタイルを取っている。それは、予想なしの操作や観察は実験ではない、という実験観に基づいているのだ。このような実験観を持って、もう一つ条件を加えることによって、仮説が科学となるような検証に値する実験を行うことが出来る。

予想を検証する実験における予想が、ある「仮説」に基づいた予想である場合は、その「仮説」を検証する実験になるが、それがもしも既知の事実を再現する実験であった場合、その予想は「仮説」に基づいた予想とは言えなくなる。それは既知の知識を基にした予想になってしまう。それは、その経験が繰り返されると言うことを確認する実験であって、仮説の検証には値しないものになる。

それでは、「仮説」の検証に値する実験とはどういうものか。それは、既知ではなく、未知の事実に対する「仮説」を基にした予想を検証する実験でなければならない。それは未知であるから、どのような結果が出るかは実験をしてみなければ分からない。未知の対象に対する実験が、対象の「任意性」というものをもたらし、この「任意性」が現実に対する真理であることを保証する。

帰納的推論に対する批判として、それは特定の場合について証明されただけであるから、他の場合にそれが成立するかどうかは、やってみないと分からないのだというものがある。これはもっともらしい理屈のようだが、すべての帰納的推論が、特別の場合にしか成り立たないという帰結しか生まないとしたら、抽象するという論理は現実には出来ないことになってしまう。

抽象というのは、特定の具体的な対象から、それが持っている本質性を取り出し、抹消性を捨てるという思考作用になる。この抽象によって、その思考が一般化され、特定の対象に対してだけ言えていたことが、それ以外の類似した対象に対しても言えるようになる。

特定の場合について成り立つ法則が一般化されるのは、そこに「任意性」が成り立つと言えるからである。この「任意性」は、形式論理である数学では、文字通りすべての対象に対する「任意性」になる。これは、数学というものが、すべての対象を把握出来るという「無限」を思考の対象にしているからだ。数学においては、無限を全体的に把握出来ることを前提とする。だから「任意性」もすべての対象にわたる「任意性」になる。

しかし、現実存在に対しては「無限」というものの全体像を把握することは出来ない。現実存在の「無限」は、文字通り「果てがない」と言うことになるので、その果てを我々現実存在の人間は把握出来ない。もし把握出来たら、それは「果て」ではなくなるからだ。「果て」も全部含んだ「無限」を「実無限」という言葉で呼んでいるが、現実には「実無限」は認識出来ない。だから、「実無限」の対象に対しては「任意性」を証明することは現実には不可能だ。

従って、このような「実無限」における真理というのは永久に確定出来ない。科学の真理が、このような真理だと思い込んでいたら、科学は永久に真理であることを獲得出来ず、それは仮説にとどまる。だが、現実に把握出来る「可能無限」の範囲の「任意性」であるなら、それは十分証明出来ることになる。

「可能無限」の対象というのは、「実無限」同様に「果てがない」という性質を持つものの、その果てを越える方法が構成的に把握出来る。つまり、何か得体の知れないものが存在するという「無限」ではなく、その性質は分かるのだが、有限の範囲ではとどまらず、いくらでも新しい対象を見つけることが出来るという「無限」が「可能無限」と言うことになる。

科学の「任意性」は、このように構成的に考えられる対象に対して成立する真理なのである。これは、数学的帰納法と呼ばれる証明が主張する真理によく似ている。数学的帰納法では、自然数の全体にわたって成立する法則(定理)を証明する。つまりそれが真理であることを主張する。

自然数というのは、有限の範囲で終わることはないが、想定した終わりの数・もっとも大きな数に対して1を加えることで、新たな自然数を作っていくことが出来る。このようにして果てしなく自然数を作れるが、それはどのように作られたかを、元をたどれば出発点の1にたどり着く。

そこで数学的帰納法というのは、ある数がその法則を成り立たせれば、その次の数も同じ法則が成り立つということを証明する。そうすると、どんな自然数であっても、その自然数の一つ前を順にたどっていけば、やがては有限の回数で1にたどり着くので、1についてその法則が成り立つことを証明しておけば、原理的にはどんな自然数に対しても、やがてはその法則が成り立つことが言える。証明したのは有限の自然数に対してだが、可能無限の範囲で、構成的に捉えた「任意」の自然数に対してその法則が成り立つ。

証明したのは有限の対象に対してであるのに、主張は、すべてという「可能無限の」範囲の対象に対して真理だと言えるのだ。科学の仮説実験の論理も、このような「可能無限」の対象に対して、有限回の実験で、「任意」の対象に対して真理であることを主張しようとするものだ。

それでは、数学ではない現実存在を対象にした科学は、どのようにして現実の「可能無限」を捉えるのか。それは、「未知」のものとして発見出来るという意味での「可能無限」の対象を設定するのである。対象の全体をいっぺんに把握することは出来ない。なぜならそこには未知のものがあるからである。全体を把握出来たら、すべては既知になり未知なものは存在しなくなるからだ。

未知のものという可能無限を設定して、その未知の対象に対して常に成立することが確認出来たら、それは「任意」の対象(可能無限として想定している範囲で)に対して成立すると考えていい、とするのが科学における真理なのである。

板倉聖宣さんは、科学史において、仮説が科学としての真理性を獲得する過程をいくつか記述している。それを擬似的に体験させようとしたのが仮説実験授業だとも言える。原子論が科学として真理であるという資格を獲得してきた過程や、その他さまざまな自然科学における科学の証明を具体的に検討して、未知の対象に対する予想と確認の実験が、科学を確立してきた様子を考えてみたいと思う。