死刑廃止論を考える 2

「死刑廃止 info! アムネスティ・インターナショナル・日本死刑廃止ネットワークセンター」というページに載せられている、「死刑制度の廃止を求める著名人メッセージ」の中の亀井静香さん(衆議院議員死刑廃止議員連盟会長)の文章に、僕は非常に強い説得力があるのを感じた。

亀井さんは平和主義者としても知られているが、この文章からは基本的に、人間に対する深い愛情が感じられる。しかも、警察官僚出身という、まさに死刑の現場の当事者として、実感として考えてきたことでもあると言うことに大きな説得力を感じた。広島では、ホリエモンではなくこの亀井さんを選んだと言うことで、政治家を見る目として広島の人々は正しかったと僕は思う。残念なのは、人間性の素晴らしさを持っている人が、権力闘争では敗れてしまうという現実だ。権力闘争には、非人間的な面がどうしても入ってきてしまうからだろうか。

亀井さんは、

「日ごろからのちょっとした感覚で死刑廃止には賛成できないという議員が多いのですが、真剣に考えれば、死刑はやはり廃止すべきだという考えに達するだろうと確信していますので、粘り強くやっていきたいと思っております。」

と語っている。僕もそう思う。そして、「真剣に考えれば」という部分は、普遍的に正しいと結論出来る部分がある、ということだと僕は感じている。その部分では、きっと亀井さんと僕は同じことを考えているだろうと思う。それを考えていこうと思う。

亀井さんの基本的な人間観は次の通りだ。

「「凶悪犯人だからしかたないじゃないか」と言う人もいます。生まれながらにして社会的に危険な人もいるかもしれませんが、それはどちらかというと病理学の世界に属するごく一部です。

本人の心得違いもありますが、ほとんどは生まれ育った環境とか、社会の状況のなかで凶悪犯罪に走っていく場合が多いのです。もし、そういう人がまったく別の環境にあったとしたら、必ずしも凶悪犯罪を起こすわけではありません。やはり、社会的要因も非常に大きいと思います。」

この人間観に僕は賛成だ。基本的にこのような見方が出来る人なら、司法制度としての死刑については、一般庶民が期待するような効果はほとんど期待出来ないという論理展開に賛成してもらえるのではないかと思う。人間は、本能の生物ではなく、生まれて後の学習によって作り上げられる生物だと言うことに賛成してもらえるなら、上の人間観に賛成してもらえるのではないかと思う。

そうすると、いわゆる死刑というものが犯罪の抑止力になるかという問題が、論理の問題として一つの帰結をもたらすだろう。本能の生物ではない人間の中に、「生まれながらにして社会的に危険な人」がいた場合、その人は「病理学」の対象になるということは論理的に帰結すると思う。そういう人間が凶悪犯罪を犯すかどうかは、死刑という制度によって抑止されるものではなく、病理学が治療によって危険性を解消するしかない。

むしろ病理学の対象になるような人間は、死刑制度があるがゆえに凶悪犯罪を犯すという結論さえ出来る場合もある。小学校で多くの子供たちを殺傷した宅間守死刑囚について、ジャーナリストの鎌田慧さんは次のように書いている。

「この事件が突き刺した、もうひとつの社会の暗部は、死刑制度である。逮捕直後、容疑者が犯行の動機として語った、「エリート校の子どもを殺せば、確実に死刑になれると思った」との供述は、想像に絶するものだった。事件すぐあと、各紙とも大きく報道したが、その後、本人は否定した、ともつたえられ、いまだ真偽は定かではない。しかし、「死にたいと思ったが、なかなか死ねなかったから」と動機を補強する言葉もつたえられているので、あながち、警察の一方的な発表として退けることはできない。

 自殺する勇気はない。だから、処刑してくれ、ともっとも弱い小学生を刺し殺す行為を前にして、「正常」さを疑わざるをえない。他人をまき添えにしてしか、自分を表現できないのは、極端な甘えである。しかし、容疑者の供述が事実だったとすると、死刑廃止国には、けっして発生しなかった犯罪だったことがわかる。」

このような見方は、鎌田さんだけにとどまるものではなく、評論家の芹沢俊介さんも次のように語っている。

「自殺できなかった宅間(彼の兄が自殺していた)は、かわりに自分を誰かに殺させるように仕向けた。その誰かが国家であった。死刑制度がある国家であった。宅間の無意識は、死刑制度を利用しようと考えた。そして人にもっとも憎まれる子ども大量殺人を遂行したのだ。徹底して憎まれることによって、自分を殺害するよう、挑発したのではないだろうか。

だからもし、死刑制度がなかったら、と想像してしまうのだ。宅間はこれほどの犯罪を犯しただろうか、と。」

もう一方の、「心得違い」によって凶悪犯罪を犯してしまった人に対しては、死刑制度というものが、今後の犯罪の抑止になるだろうか。これも極めて期待が薄いと思われる。「心得違い」をする人間は、元々が凶暴な人間ではなく、小さな間違いにおののく小心な人間だからだと思うからだ。

イタリアの古い映画「刑事」では、金持ちの婦人が男に渡す小遣いをかすめ取ろうと計画した青年が登場する。失業中の青年には金がなく、その小遣いは秘密の金として、無くなっても届け出られないような種類のものなので、誰にも見られなければうまく手に入るようなものだった。

青年はただその小金だけを手に入れたいと思っていて、それ以上の犯罪など思い描いてもいなかった。しかし、運悪く犯行現場を見られた青年は、声を出されて他の人間に発覚するのを恐れてその婦人を殺してしまう。気が動転している青年にとっては、こそ泥が発覚するのを防ぎたいという気持ちで一杯で、殺人がもっと重い罪になるというような論理的思考は出来なかっただろうと思う。

死刑があるから殺人はよそうと思うのは、元々死刑など無くても殺人など犯さない人間だけだ。計画的な殺人を犯そうとする人間は、病理学の対象にすべき人間ではないかと思う。「心得違い」によって殺人を犯す人間は、「心得違い」の原因をこそ何とかしなければ、殺人という凶悪犯罪の抑止にはならないだろう。

亀井さんが語るように「そういう犯罪者を抹殺することによって社会が健全化し、犯罪がなくなるということにはならないのです」と言うことが正しいのだと思う。これは論理として逆なのだと思う。社会が健全化し、その結果として犯罪が少なくなるのであって、犯罪の抑止力は社会の健全化の方にこそあるのだ。「犯罪者を抹殺すること」は、報復感情を満足させるだけであって、結果的に警察権力の肥大をもたらすだけだ。

「死刑があるから犯罪を起こさず、死刑がなければどんどん人を殺してしまうというような、そのような理性的な判断をもとに犯罪を起こすようなことは、ほとんどないと思います。ごくわずかな例外はあるでしょうが、多くの人間にとっては、死刑制度の有無と犯罪を起こす、起こさないということには関係がないと思います。」

という亀井さんの判断にも、僕は全面的に賛成だ。死刑がなければ犯罪が増えるというのは、基本的に人間は他人を傷つける性質を持っているという人間観があることになる。もし、そのような人間ばかりが存在しているなら、人間は社会をつくって生活を営んでいくことなど出来ないだろう。それこそSFの世界のように、常に外敵に対して警戒をしながら生活することになるのではないか。

「死刑がなければどんどん人を殺してしまう」と考える人は、他人を信用しない人であり、日本がそのように情けない社会になったと考える人だろう。亀井さんが語る人間観とは正反対のものになる。だから、亀井さんのこの主張に賛成出来るかどうかも、やはり同じ人間観を持っているかどうかにかかっているものと思われる。亀井さんの人間観に賛成する僕は、論理的な帰結としてこの主張にもやはり賛成する。

亀井さんが語る健全な社会のイメージは、冒頭に語られている次の言葉が参考になるだろう。

「私は基本的に、人間のいのちや自然環境というものを大事にする社会でないと、それは健全な社会ではないと思うのです。国家権力が死刑囚を抵抗できない状態にして――言葉は悪いですが――絞め殺すなんてことは、あってはならないと思います。」

このような社会が実現されることが、社会の健全化を示すものであり、そのような社会でこそ犯罪が減るのだという主張につながるのだと思う。僕も、まったくその通りだと思う。

亀井さんの人間観・平和主義的な考え方は、一貫してこのように全体としての調和を持っている。このような調和は、原則から導かれた調和だ。ご都合主義的に自分の主張に合わせて現実を解釈していたら、このように調和の取れた主張にはならないだろう。それも、僕が亀井さんの主張に賛成する理由だ。

亀井さんの主張は、このあと冤罪に関わるものに展開する。それも警察官僚としての経験から導かれたものとしての重さを持っており、実に見事な論理展開をしていると思う。項を改めて考えてみたいと思う。