「数学屋のメガネさんへの再批判。」に対する反批判 4

さてchikiさんの「数学屋のメガネさんへの再批判。」に対する反批判の続きだが、以前の石原慎太郎氏の言葉を巡るものを、ちょっと補足説明しておいた方がいいと感じた。これを論理の問題とすることに違和感を感じる人がいるかもしれないので、そのあたりのことを説明しておく。

とりあえず、その部分の僕の文章を全文引用しておく。

「このような極論からの批判は、論理的正当性も伝統も無視したものになる。だから、他の視点を持っている人間からはそれが行き過ぎだと思われてうさんくさい目で見られるようになるだろう。このような極論に対しては、

石原慎太郎東京都知事は、都議会定例会において、「最近、教育の現場をはじめさまざまな場面で、男女の違いを無理やり無視するジェンダーフリー論が跋扈(ばっこ)している」、「男らしさ、女らしさを差別につながるものとして否定したり、ひな祭りやこいのぼりといった伝統文化まで拒否する極端でグロテスクな主張が見受けられる」、「男と女は同等であっても、同質ではあり得ない。男女の区別なくして、人としての規範はもとより、家庭、社会も成り立たないのは自明の理だ」と強調し、ジェンダーフリー教育を公人の立場で公式に批判した。」

と、ここに書かれているように、石原氏の批判が正当なものとして論理的には判断出来る。僕は、政治家としての石原氏には批判的だが、極論としてのジェンダーフリーに対するこの批判は正当だと思う。」

石原氏の論理の場合前提としているのは、「男女の違いを無理やり無視するジェンダーフリー論が跋扈(ばっこ)している」ということだ。この「ジェンダーフリー論」が、ジェンダーフリーという言葉で十把一絡げに出来るものではないということには同意する。しかし、ここで非難されているような「男らしさ、女らしさを差別につながるものとして否定したり、ひな祭りやこいのぼりといった伝統文化まで拒否する極端でグロテスクな主張」というものが全く存在しないという「事実の否定」までが出来るだろうか。

このような事実が全く存在しないのであれば、事実の問題として石原氏の言葉を引いたのは不適切だったと僕も非を認めよう。しかし、このような主張が存在し、その主張によって男女別の出席簿を否定したり、「ひな祭りやこいのぼりといった伝統文化まで拒否」したということがあったのなら、それに対する批判としては石原氏の批判は正当だというのが僕の評価だ。

論理の問題というのはここまでである。この主張がジェンダーフリーを代表する主張だと受け取ったらそれは間違いになるだろう。しかし、僕が論じていたのは、逸脱したフェミニズム的発想から生まれるであろう主張の批判だ。この主張は、ジェンダーフリーの主流ではないかもしれないが、逸脱によって生まれる可能性はゼロだろうか。そこのところが論理の問題なのである。

あくまでも逸脱したものからの発想という前提があるのだが、読み手によっては、その部分を逸脱したフェミニズム的言説とは読まず、それこそフェミニズムだと誤解するおそれはある。そこのところは、配慮が足りなかったと思う。

しかし、chikiさんがここで提出している石原氏の記者会見の言葉

「彼らが具体的に提唱している幾つかの事案に関しては、とても常識でいって許容できないものがたくさんあるから。そういう例外的な事例がね、あまり露骨にメディアに持ち上げられて出てくると、ジェンダー・フリーのある正当性を持ったムーブメント(動き、流れ)でもね、私は非常に誤解を受けると思いますよ。」

を見ると、ここで謝罪しているのは、そのような事実がなかったにもかかわらずあったと偽ったことを指しているのではない。例外的な事例があったことは否定していないのである。それをジェンダーフリー一般と結びつけたことを謝罪しているように僕には読める。そうではなかったのだろうか。

論理の問題としては、このような極論がまともなフェミニズムからも生まれてくるかというのが僕の問題意識だ。そうすると、そんなものはどんな理論だって極論を考えれば生まれてくると主張する人がいるかもしれない。ことさらなぜフェミニズムだけを取り上げるのか、という疑問がその後に続くだろう。

まさしく、極論を考えればどんなものでも誤謬に陥るからこそ誤謬を考えることが重要になるのである。そして、どんなものでも誤謬に陥るにもかかわらず、ある存在は誤謬を免れ、ある存在は誤謬にとらわれる。その差はどこにあるかというのが僕の問題意識だ。

マルクス主義は、逸脱した誤謬の影響が最も大きかった理論だろう。オウム真理教では、その教義が極論へと流れていった。このような極論への流れは、いかなるメカニズムで起こるのか。そして、その社会的影響はどうとらえたらいいのか。

その考察の対象にフェミニズムが選ばれたことに感情的な反発はあるかもしれない。これは、僕のうさんくささの感覚からくるものだ。うさんくさいものの方が誤謬に流れる可能性が大きく、しかも悪影響が大きいと思ったので考察の対象にしている。

マルクス主義もそうだったがフェミニズムも、自らが正義の立場にいることに疑いを持たない。絶対的正義を標榜しているように見える。確かに「女性であるだけで差別されている」などということに反対できる男はいない。それが真理であるなら、それは絶対的な正義を持つ。

問題は、現象を解釈したときに「女性であるだけで差別されている」などという判断がいつも正しく行えるのかということだ。それはとても難しい判断だ、という自覚があれば、フェミニズムは極論に流れることから免れるだろう。しかし、現象を捉えて短絡的にそう結論しているように見えるときは、フェミニズムは極論に陥る危険性をはらんでいるのではないかと僕は感じる。

こういう可能性を論じても、そういうことの事実を見せろという要求をする人間もいるだろうなと思う。「女性であるだけで差別されている」ということを証明することが難しいのと同じくらい、それが間違っているという証明をすることも難しいのだ。だから、本質的には、そのような難しい判断をするときは、いつも間違いに陥っていないかという反省が必要なのだ。それが可能性を論じるということだ。事実を示せという要求は、そのような判断が簡単に行えると主張しているに等しい。それが簡単にできると思っている人間は、極論に陥ってもたぶん気がつかないだろう。僕はそう思う。僕の論理は、そういうことを論じているのである。

このエントリーに関して論外に低い水準のトラックバックが来た(これははてなの日記でのこと)。最後にこれに言及しておこう。「あくまでも「仮定」の話ですから」というエントリーでは、仮言命題の「仮定」の話をしているのだが、ここで語られている場合にも、「仮定」には何をもってきてもいいというとんちんかんな論理的理解をしている。

仮定に何をもってきてもいいということが、ある条件の下での話だと言うことはきっと何も知らないのだろう。仮言命題での仮定というのは、形式論理で言うと、「AならばB」のAに当たるものを言う。これが形式論理の範囲であれば、Aの位置に置かれた命題はすべて仮定と呼ばれる。

確かに、形式論理であれば、それは任意の命題Aを置くことが出来る。しかし、形式論理が、なぜ形式論理と呼ばれているかといえば、それは命題の内容を捨象して、命題の関係の形式にのみ注目して、その形式と真理性との関係を見るから形式論理と呼ばれているのである。

「AならばB」のAは確かに仮定ではあるが、この命題だけでは、形式論理は何の意味もないのである。Aが正しいかどうかと言うのは、形式論理では判断出来ないのである。形式論理の仮定に意味が出てくるのは、「AならばB」「BならばC」という二つの仮定を置いたとき、そこから必然的に「AならばC」という形式の命題が導かれると言うときに、仮定に意味が出てくるのである。

実際に命題の内容が関わってきて、現実に具体的に仮定が設定されるときは、その仮定と、そこから推論される結論との間に内的な連関がなければならない。何も関係のない、単に命題であるというだけのことでそれを仮定にしても何の意味もないのだ。

 「うちの犬はバナナが好き」ならば「昨日のおかずは魚だった」

という命題は、形式的には、「うちの犬はバナナが好き」が仮定になっている。だが、それが仮定になっていることで何が言いたいのだろうか。これの形式だけを問題にしたいのなら、「AならばB」と書けば足りるのである。形式論理はそのようにしている。

「「数学屋のメガネのkhideakiさんの言うことはすべて間違っている」と仮定してみる。その仮定に基づき「間違ったことを、さも小難しい用語を並び立てて正しいそうに言っている数学屋のメガネのkhideakiさんはバカにちがいない」と判断する。」

と語ることで、本人は何か言ったつもりになっているかも知れないが、それは論理に対する無知をさらけ出しているだけのことなのである。皮肉のつもりなのかも知れないが、この程度の水準でアイロニーだなどと考えているとしたら、文学的表現の水準も低いものだと思う。

この文章を書いた人間は、専門が理論社会学だそうだが、この程度の論理水準で理論社会学が出来るとは驚きだ。このように論外に低い水準のトラックバックは削除しておく。今回は言及したが、次回からは言及せずに削除することもあるだろう。その時は、「論外に低い水準」だと判断したと思ってもらえばいい。(この削除の基準は、はてなでもライブドアでも同じ。論外に低い水準のものは削除する。)