一方的な反批判停止宣言

このようなタイトルでエントリーを立てるとまた反発を呼びそうな感じもするが、自分の偏見に気づいた今となっては、その偏見を指摘される批判に対して反批判を返す意味が無くなった。というよりも、それは正当な指摘であるから、いくら叩かれてもそれを受け入れなければならないと言う感じだろうか。

こういうとき、指摘の一つ一つに答えて、その批判を受け入れるかと言うことを答えた方が誠実なのかも知れないが、一つ一つ検討していくと微妙で受け入れに躊躇するものも出てきそうなので、とにかく、反批判はもうしないということで、以前のエントリーは自由に叩いてもらいたいという姿勢だけを表明する。これを無責任だとまた批判されても、今のところはそれに反批判する気はないので、とりあえずフェミニズムに関することには反批判をしないことを一方的に宣言する。

そして、最後に、自分の持っている偏見を、偏見として率直に語ることに努力をしたいと思う。理論武装するのではなく、率直な思いとしての偏見を語ることに努力して、以前の失敗の反省をしたい。

個人的なことを語るが、僕はいままで男としての地位を利用して女性に圧力をかけるように振る舞ったことはない。妻に対しても、女であるから家事や子育てをするべきだというような考え方で接したことはない。妻は多彩な趣味と才能を持っているので、外で仕事をしながらその趣味の世界でも活躍するという、忙しい毎日を送っているが、その生活スタイルに不満を抱いたこともない。

自分の世界を広げ、自己実現のために自分の人生を費やすのは当然の権利であると思っているから、そのことによってこちらへの関心が少々薄れても文句を言ったことはない。妻が自分の欲求に従って活動するのと同じように、僕が自分の欲求でいろいろな活動をすることを同等に認めてもらえばそれでいいと思っている。

つまり、行動面においては、僕は決してフェミニズム的な批判は受けないと思っている男だ。少しでも、抑圧的・封建的なところがあると指摘されて、その指摘が正しいものであればそれを改めるという柔軟性も持っていると僕は思っている。

しかし、僕はこれまでの人生の中で本当の意味で抑圧的に扱われたという経験がない。自己実現をすることは素晴らしいという経験をしてきたからこそ、妻がそのような活動をしてもそれを支持出来る。だが、自分が抑圧されたことも、他人を抑圧したこともないので、実感として抑圧されることが人間にどのような影響を与えるかが本当には分からない。

それは言葉で説明されたものを読んで、頭で想像して理解することは出来るが、肌で実感して受け止めることは出来ない。つまり、僕はフェミニズムが語る、男優位の社会の中で抑圧されてきた女性というものを、頭の中では理解出来るが、心の中で実感として理解が出来ないのだ。これは、そのような経験がないのだから、運命的に難しいと僕は思っている。

行動的には非難されるところはないが、心の中は本当の理解が出来ていないという男に対して、フェミニズムはどのような態度を取るだろうかという予想において僕には偏見がある。それは、僕が実際にそのように扱われたという事実ではない。あくまでも予想という想像の中にしかないものだから、これは偏見以外の何ものでもない。

僕の偏見は、行動面において非難されることのない男でも、社会に対して、基本的に男優位の構造が女を抑圧していると言うことを理解出来ないものは、厳しく糾弾するのではないかというものだ。これは、まだ厳しく糾弾されたわけではないので、偏見に過ぎないのだが、このような偏見を僕は強く持っている。

フェミニズムが、人の心にまで踏み込んでくるのではないかという偏見が僕にはある。それが、僕のフェミニズムに対する「うさんくささ」の正体だ。これは僕の個人的偏見に過ぎないのであるから、それを理論武装して、イデオロギーの持つ暴走性につなげたのは間違いだった。それは短絡的な判断だった。

僕が『フェミニズムの害毒』に書かれた林さんの主張に、基本的には間違っているけれども、批判の対象としている「林さんが考えるフェミニズム」に対する批判はその論理に正当性があると共感したのは、林さんも、同じような偏見を持っていると感じたからだろう。偏見という点で、僕と林さんは重なった。

この偏見を批判して叩くのは正しいのだが、それでもなおかつ開き直って主張したいのは、これが偏見であると理解しても、この偏見は僕の中からは消えないのだ。これが、可能性として存在し続けることが、僕の中で偏見を維持し続けることの原因になっている。

この偏見が消えないので、僕はフェミニズムというものに、本当に深くコミットしていくことは出来ないだろう。それは、いつも第三者的に外から眺めていくことしかできないだろう。これは、やはり「男優位の社会の常識」に毒されていると判断されるのだろうか。しかし、大部分の男はそうではないかというのは、これも僕の偏見だろうか。大部分の男は、本当の意味では、抑圧された女性という社会的な存在を理解出来ないのではないだろうか。そしてまた、僕のような男(具体的には何一つ抑圧的な機能は果たしていないが、本質的な差別の論理は肌では理解出来ない男)は、フェミニズムの側にいる人間には、実感として何を考えているかが分からないのではないだろうか。

それは、林さんの『フェミニズムの害毒』が簡単に切って捨てられているように感じるところから感じるところだ。これが簡単に切って捨てられるところに、僕は、僕らのような男の心情は理解されないのだろうなと言うことを感じる。そしてそれがまた偏見を維持させることになる。

僕は、フェミニズムに関するエントリーを書く前は、まだ自覚的なアンチ・フェミニズムではなかった。何となく「うさんくさい」という偏見を持っていただけに過ぎなかった。しかし、今では、その偏見が絶望的に僕には身に付いているという自覚をしている。とても努力だけで捨て去ることが出来ない。

僕は、封建思想をもっているからという理由でフェミニズムに反対しているのではない。だから、そのような方面で反フェミニズムを主張している人間たちとは連帯出来ない。フェミニズムが主張している、不当な男女差別をなくすということは正しいと思っているからだ。しかし、フェミニズムの陣営とも連帯することは絶望的に難しいとなったら、僕は他人事としてこれを見ていくことしかできないだろうなと思う。

僕のような男が多いか少ないかは、検討に値する問題だと思う。男の陣営は、封建的・家父長的な価値を守る反フェミニズムに属するか、フェミニズムに賛同する者たちか、そして僕のようにどっちつかずの偏見を持った男たちか、大きく分けると3つに分かれるのではないだろうか。どの男たちがもっとも多数派を占めるだろうか。

僕の最初の問題意識は、このようなものであったはずなのに、理論武装しようとした間違いが論理の破綻を呼んだ。「構造的無知」のなせる技だろう。なまじ論理が使えたから、この無知に陥ってしまった。

偏見を叩く批判に対しては、こちらに反批判の余地はないのだから、もう反批判を書くことはない。それは決して無視しているのではなく、反批判出来ないので書かないのだと解釈して欲しい。僕の方に、もし余裕があれば、後日、ああここのところはこう叩かれても仕方がないなと反省するエントリーを書くかも知れないが、余裕がなければそういうものも書けないかも知れない。

そこで、chikiさんにもたいへん申し訳ないのだが、視点の違いからの反批判を書く意味が無くなってしまったので、これも一方的に終わりにさせてもらいたい。もちろん、chikiさんが、僕の偏見の部分を正当に批判するのはchikiさんの自由だ。これに対しては、僕はそれを受け入れるだけだ。

このエントリーに対してもたぶん不満を感じる人は多いだろうが、その不満は批判として発言してもらいたい。それに対して僕はもう反批判はしないけれど、決して無視しているのではない、と解釈して欲しい。