「馬は動物である」という判断は唯物論的か

唯物論的な意味で認識というものを考えると、それは物質的存在が人間の脳に像として反映してその存在を捉えるというものになる。唯物論はまず物質的存在の方を第一義に考えるので、認識はその存在の反映というものとして捉える。決して、人間の方に何か認識能力というものがあって、その能力が働く作用としてそこに存在を作り出したということは考えない。

この反映というものを素朴に考えてしまうとそこにパラドックスが生じてしまうように感じる。だからこそ素朴な唯物論は観念論によって否定されるという歴史があったのだと思うが、素朴な唯物論を克服して、そのパラドックスを解決する道というのはなかなか難しいのではないかと思う。これをもう一度よく考えてみようと思う。

素朴な反映は我々の感覚を基礎にしている。それは、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚など様々な感覚で捉えられるものがまず反映として捉えられる。例えば馬を見たとき、それが4本足であることは視覚によって捉えられる。馬の足が4本であるという属性は、馬という存在の視覚的反映として、存在が基礎になって得られた唯物論的な判断だと言えるだろう。

このとき、視覚には錯覚というものもあるのだから、目で見たからと言ってそれを素朴に信じることは出来ない。それは幻想かも知れないという懐疑論的な議論もあると思う。しかし、それが錯覚であるという確たる証拠がないときは、それは単に疑いがあると言うことになるだけだろうと思う。疑いがあるからその感覚は信用出来ないと言ったらすべてが信用出来ないと言う「懐疑論」になってしまう。

すべてが信用出来なくなったら唯物論の基礎を考えることにも意味がなくなるので、ここは素朴に感覚を信用して、感覚で捉えられるものには錯覚があるかも知れないが、角度を変えたり繰り返したりしても捉えられるものは、一応存在していると判断して差し支えないものと考える。

そうすると、感覚で捉えることの出来るものは、対象の物質的存在の属性が直接反映したものとして唯物論の正しさを証拠立てるものとして唯物論の基礎をなすだろうと思う。具体的存在に対して我々が何か具体的なことを言うとき、それが錯覚や幻想でない限りでは正しいことを言っていると主張出来るのは、この唯物論的基礎が正しいと言うことから来るのではないかと思う。

しかし、具体的存在に対して具体的なことを言うのは、表層的で単純な属性に限られるようにも思う。それが直接表に現れていない属性であった場合、表に現れている何かを手がかりにして、隠れた存在に対して何か言いたい場合があるのではないか。そのような言明は、直接的な反映ではない。これは素朴な唯物論では解釈しきれない。直接的でない反映を唯物論的な反映として解釈する道はどう見つけたらいいのだろうか。

馬が4本足であるというのは、直接目で見て確かめられることだが、「馬が動物である」という判断は、視覚による反映で確かめられる判断ではないように感じる。馬の中に「動物」という属性があって、それが視覚に反映して「動物」という像が見えるという構造ではないように感じるのだ。

足が4本あるというのは具体的な像だが、「動物」というのは具体的像としては存在しない。それは多くの具体的存在が抽象されて、共通の属性が概念化された観念的対象が「動物」というものになるように感じる。動物そのものはこの世に存在しない。動物という概念が人間の頭の中に存在するだけだ。つまり、「動物」というのは具体的存在ではなく言葉として存在しているだけだ。

「馬は動物である」という判断は、「動物」という人間の頭の中の概念を、現実の具体的存在である馬に押しつけて、馬という存在を「動物」という範疇に入るものとして分類したものと解釈出来る。「動物」という属性として元々馬の中にあったものが反映して判断が生まれたと言えるだろうか。それは「動物」という言葉(概念)が生まれない限り見つけることが出来なかった属性ではないだろうか。

「動物」という言葉が生まれる以前は、その属性は物自体として馬の中にとどまっており、この言葉が生まれたときに、その物自体である「動物」という属性が存在として確認されるようになったと解釈することも出来るのではないだろうか。これは観念論そのものになってしまう。これを否定して、唯物論的に解釈する反映という考え方が出来るだろうか。

現実の具体的存在に対して、抽象的な属性を判断するという場合、その抽象的な属性は、抽象的であるということはそのままの形では存在しないと言うことを意味する。何かが存在するということを判断したいときも、「存在」という抽象的属性が、そのままの形で対象に見つかることはない。それが見つかるようなら、「存在」だけを持っている物自体というものも抽象可能になるのではないかと思う。

しかし、「存在」というのは、常に他の属性が確認出来るときに、その結果として「存在」が見えてくるという関係になっているのではないかと思う。それが視覚に反映するときに、視覚に反映した何かがそこに「存在」したと言えるのではないだろうか。視覚に反映しないものであっても、そこに何らかの反応が見えるものであれば、その反応によって、何か反応するものがそこに「存在」したと判断するのではないだろうか。「存在」はそのものとしては判断出来ない。他の媒介によって常に判断される。

抽象的判断というものも、常に媒介によって判断されるのではないかと思う。その媒介による判断は、唯物論的だと主張出来るだろうか。媒介において最も重要なものは、抽象的な概念になると思われるが、これは頭の中にある観念であり、観念論的な解釈は簡単に出来るが、唯物論的な解釈が簡単に出来るように感じない。

三浦つとむさんは、直接感覚で捉えられない存在を捉えるための鏡について論じていた。特に物質的な存在としての鏡に唯物論的な意味を見出していたように感じた。頭の中に生まれた観念だけでなく、物質的な鏡を媒介にして捉えるので、ここに唯物論的なものも感じることが出来る。

例えば電流の流れというのは目に見えない。しかし、電流計という鏡を使うと、針の振れ方という視覚に還元して電流が流れているかどうかを判断出来る。これは物質的な電流計という鏡を用いて、物質的な存在である電気を捉えたと言うことが出来そうな感じもする。実際に電気は便利な存在として利用出来ることを通じて、それが我々の頭の中の観念に存在するだけでなく、現実的に存在するのだと言うことを教えてくれる。

具体的な物質的鏡が存在して、それによって捉えられたものは、物質的存在が基礎になっていると言えるだろう。そうなれば、やはり唯物論は究極的には正しいといっていいのだろうか。それには僕はまだ留保を感じる。電流計の針が振れるという現象は目で見ることが出来るが、その針が振れると電流が流れていることの証拠になるという判断の方は、目で見えるものではなく、頭の中で考えたものになる。判断の基準は、依然として観念の中にとどまっているような気もする。

抽象的な概念による判断というのは、現実の存在から反映してもたらされるものというよりも、まずは概念として作り上げたものを現実に押しつけて、現実をその概念で切り取っているという感じがしてならない。ソシュールは、言語のこのような機能を見て、言語は現実を反映しているのではなく、現実を分類しているというように考えたのではないだろうか。

電流の問題も、もっと素朴に考えれば、直接触ったときに身体がしびれるものというふうに電流を定義してしまえば、それが存在するのを確かめるのに物質的な鏡を必要としなくなる。人間の感覚がそれを教えてくれる。もっとも人間の身体を物質的な鏡だと考えられないこともないが。

しかし、抽象的な概念というのは、それをかなりご都合主義的に設定することは可能だ。それが存在すると主張したいときは、そう主張出来るような概念を作れば、対象をその概念で切り取ることが出来る。これは観念論的妄想に陥る危険はあるものの、直接感覚だけの判断で素朴な唯物論にとどまっていたら、物事の本質を捉える深い認識には進めなくなる。

ご都合主義的な抽象概念という意味では、「グルー」という面白い概念があることを知った。これは、今までに発見された対象についてはすべて「グリーン(緑)」だという属性があるが、まだ発見されていない対象は「ブルー(青)」だという属性を持っているという概念だ。

エメラルドという宝石についてこのような属性を持っていると判断することも可能だという。今まで発見されたものはすべて「グリーン」だ。そしてこれから発見されるものも、発見されてしまえば発見されたものとして「グリーン」という属性を持つ。発見されないものに対しては、確かめようはないけれど、「ブルー」だという仮説を持つことは出来る。これは永久に確かめられないので永久に仮説にとどまるが。

このご都合主義的抽象概念が変だと感じるのは、このような発想をすると「グレッド」というものも同じように考えられるからだ。それは発見されたものはすべて「グリーン」であり、まだ発見されないものは「レッド」という属性を持っているものとして想定される。このような抽象概念が許されるなら、色に関するどんな属性も主張出来る。だから結果的には何を言っても無意味になり、何も言っていないことと同じになる。

しかし「エメラルドはグリーンだ」という判断を考えたとき、この判断は、物質的存在を反映した唯物論的な言明だと言えるかどうかが難しいと僕は感じるようになった。「グリーン」は抽象概念であり、元々エメラルドが持っている属性にそう言う名前を付けようと考えたのであれば、これは現実の観察から得られた判断ではなく、言葉の定義から得られた帰結のようにも感じる。この判断がご都合主義的なものではないと言えるのかどうか。

素朴でない唯物論で反映を考えるというのはかなり難しい問題ではないかと思う。素朴な唯物論は分かりやすい。現実の具体性を離れなければ、素朴な唯物論にとどまっていられそうな気がする。しかし、抽象的なことを考え始めたとたんに、唯物論にとどまるのはかなり難しさを感じる。観念論の方が魅力的に見えてくる。

今までは素朴な唯物論で素朴に観念論を否定していたような感じがする。素朴な観念論はそれでも否定出来るだろうが、本当に水準の高い観念論は、素朴な唯物論では歯が立たないのではないかと思う。哲学史の巨人が展開したハイレベルな観念論を、今一度学び直してみたいと思うものだ。