哲学

デカルトの偉大さ

ウィトゲンシュタインが考えたような命題の集まりである世界の全体が、どのようにして広がっていくかという過程を考察しようとして哲学史を調べている。哲学に革命的な進歩をもたらした発想は、ほとんどの場合それまで自明だと思われていたことを疑い、世界…

我々は同じものを見ているのか?

『科学理論はいかにして生まれるか』(N.R.ハンソン・著、講談社)という本の冒頭に、二人の観察者が同一の対象を見ているのかどうかという議論が語られている。細胞を観察する微生物学者の例はちょっと難しい。それは「細胞」というものの厳密な定義を僕が…

数は実在するか

以前のエントリーで、負の数を実体的に表す物質的存在はないという議論をいくつか展開したが、存在論というのは現実に対して何らかの考察をするときに前提となる重要なことではないかと思う。この存在論の発想が違ってくると、それを基礎にした論理展開も微…

存在の問題の難しさ−−その弁証法性

「『論理哲学論考』が構想したもの8 複合的概念が指し示すものの存在」のコメント欄に、Kさんという方からのコメントが送られてきた。僕は、このコメントを見たとき、最初は「揚げ足取り」をしてきたのではないかという印象をもった。だから、このコメントを…

「存在」という属性

野矢茂樹さんは直接書いていないのだが、「存在」という属性をどう捉えるかというのを、単純なものと複合的なものという発想からの応用問題として考えてみようと思う。野矢さんの解説によれば、ウィトゲンシュタインが真に存在するとして考えたのは、指し示す…

不可知論と物自体

「不可知論」というものを、認識には限界があることを主張するものだと定義している人がいるかもしれない。「〝学習通信〟040710 ◎「ほんとうのことは分からない」……。」には次のように書かれている。 「不可知論の考え方 「私たちの知識に原理的に限界があ…

ウィトゲンシュタインの「論理空間」

僕は、最初「論理空間」というものを見たとき、その言葉のイメージを数学的な空間のイメージと重ねていた。数学的な空間は、点の集合を意味する。それは座標軸を設定したときに、座標の数字の組で表される。3次元空間であれば、3つの数字の組(順序の違い…

ウィトゲンシュタインの「世界」

ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の最初の命題で 「1 世界は成立している事柄の総体である。」 と書いている。「成立している事柄」とは、現実に成立している事柄のことである。これを「事実」と呼んでいるので、世界は「事実」の総体であるというの…

真理の客観性について−−客観的真理は存在するか

数学の基礎教養の一つに集合論というものがある。これは、ものの集まりというものを抽象して数学的対象にするものだが、単純に何かが集まっていれば集合になるというものではない。基準のはっきりしないものはいくら集まっていても、数学的対象としての集合…

究極的な存在の考察

観念論の再評価のために『カント入門』(石川文康・著、ちくま新書)を読んでいるのだが、その中に興味深い記述があった。それは「空間・時間は主観的なもの」という中見出しで語られていることだ。我々は、具体的に存在するものは、物質として客観的に存在…

ウィトゲンシュタイン的世界と論理空間−−哲学の応用について

学生の頃はさっぱり分からなかったウィトゲンシュタインの哲学が少し分かりかけてきた。これは、はてなダイアリーの方のわどさんのコメントをヒントにして気づいたのだが、年をとるとそれなりに経験を積むことが出来るので、見えるものが増えてきたことによ…

「無意識」は存在するのか

「無意識」という対象は、人間の心を解明する上で非常に重要な役割を果たしたものとして、その発見が賞讃されているものだ。人間の言い間違いや物忘れ、その他理解が難しい行動に対して、それが「無意識」というものを原因としていると解釈すると、合理的な…

唯物論・観念論という哲学的考察と日常感覚との関係

唯物論・観念論というような高度に抽象的な対象について考えていると、それが日常感覚とは別世界のことを考えているような気がしてきてしまう。これを何とかごく普通の現象と結びつけて、哲学的な空想論として終わらせるのではなく、役に立つ知識として利用…

「馬は動物である」という判断は唯物論的か

唯物論的な意味で認識というものを考えると、それは物質的存在が人間の脳に像として反映してその存在を捉えるというものになる。唯物論はまず物質的存在の方を第一義に考えるので、認識はその存在の反映というものとして捉える。決して、人間の方に何か認識…

世界観や立場と真理性の問題

僕は若い頃に三浦つとむさんに出会い、その見事な論理の展開に魅了されて、すっかり唯物弁証法の信奉者になった。これこそが現実の真理を発見する方法だと思ったものだった。数理論理学も真理に至る一つの道だとは思ったが、それは数学という限られた対象の…

論理の適用範囲を広げることの危うさと普遍的真理を求める哲学の魅力

仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんは、「バカの一つ覚え」という言葉で科学に対する絶対的な信頼感を語るときがある。それは常に成立する絶対的真理であり、常に同じ主張が出来ると言うことから、「バカの一つ覚え」のように繰り返せるものだという主…

カントの一流性

僕が初めてカントの名前に出会ったのは、三浦つとむさんの「物自体」に関する批判の文章の中でだった。それがどこに書かれていたのか探したのだが見つからなかった。記憶を頼りに考えてみると、それは、科学的認識に関わる文脈だったように思う。「物自体」…

「論理」とは何か

僕は「論理」というものの定義を、世界の持っている法則性を捉えたものと考えている。世界というのは、自分が存在している環境の一切を含む対象だ。この環境は具体的な物質的存在もあるし、主観の中の存在も自己と区別出来るものは環境という世界として捉え…

他人の痛みが分かるか

野矢さんの哲学エッセイ『哲学・航海日誌』(春秋社)は「他者」の問題から、まず入っている。他者をどのようにして認識出来るかというのは、哲学にとっては深刻な問題だ。しかし、哲学に関心がない普通の人からは、何でそんなにこだわるのだろうと、その厳…

無限の面白さ

最近、野矢茂樹さんという哲学者にはまっている。何でこの人をもっと前から読まなかったんだろうかとちょっと悔やんでいる。論理やウィトゲンシュタインなど、僕が関心を持っていることをこれほど面白く語る人なのに、どうして若いころに出会わなかったんだ…

ノーミソの目

「ノーミソの目」というのは、仮説実験授業研究会の徳島の小学校の先生の新居信正さんが使っていた言葉だ。この目は、現実の目が見えないものを見ることの出来る目で、想像力で、見えないものを見る目と言えばいいだろうか。 この「ノーミソの目」が発達して…