論理とは何か

僕が論理に関心を持ったのは、論理的に厳密さを求めた数学がさっぱり分からなくなったからだった。高校までの直感を基礎にした数学は分からなくなると言うことがなかった。対象がどんなものであるかが分かれば、そこで展開されている論理は整合的なものとして直感されたというふうに感じていた。

しかし、大学に入ってみて、直感で抜け落ちていた部分を論理で補うような議論を学んだとき、その論理が必ずしもすぐに腑に落ちると言うことがなかった。極限においても「限りなく近づく」というイメージは直感的につかめたが、任意の正の数でそれ以下に制限出来ることが極限の厳密な論理になると言うことはまったく直感出来なかった。

数学は論理的に考察を展開していくが、論理はあくまでも道具として利用するもので論理そのものを数学で語ってはいなかった。具体的な計算が正しい答を出すかどうかは、実際にその計算をしてみれば分かるのだが、数学の理論全体が正しいかどうかは、個別的な計算をいくら繰り返しても確証が得られない。それは無限の対象を扱っているからだ。

理論全体の正しさを保証するのはやはり論理の正しさに求めるしかない。数学を個別的な対象の間の法則として捉える段階から、理論全体を俯瞰するような立場に移行したとき、どうしても論理の正しさを知る必要があると感じた。そんなときに出会ったのが数学において論理を対象にしていた記号論理(数理論理)というものだった。

記号論理は、数学において整合性を持っている論理を、その形式面を抽象して展開したものだった。これも直感するのは難しかったが、そこで許されている形式のみを数学的対象の分析に適用しているのであれば、少なくとも論理としての正しさは保証されていると理解することが出来た。すべての数学において、論理面の理解をするにはこれほど便利な道具はないと思ったものだ。

論理的に正しいことだけをしているという基礎があれば、理論の展開についてはかなり安心して進むことが出来る。数学者が、その考え方や立場の違いがあっても、数学に関する限りでは誰もが同じ前提で理論を展開していけるのは、誰もが同じ論理的基礎を持っているからではないかと思う。それほど論理というのは数学において重要なものだと感じた。

二十歳くらいの時に記号論理に出会って、そのころは論理と言えば記号論理を指すものと僕は考えていた。他の論理は考えられなかったのだ。しかし弁証法論理というものがあるというのを知って、これが記号論理(形式論理)とどう違うものかというのに興味を持った。

ところがこの弁証法論理というのは、形式論理こそが論理だと思っている目から見るとデタラメを語っているようにしか見えなかった。特に矛盾の存在を許すというのは、それだけで論理の資格を失うのではないかと感じたものだった。弁証法論理というのは、論理のすり替えをしている詭弁なのではないかと最初は思っていた。

弁証法論理についても、これが論理である、つまり整合的な考え方だと言うことを感じたのは、三浦つとむさんの『弁証法・いかに学ぶべきか』という本を読んでからだった。ここでは、矛盾のとらえ方が形式論理とは違っているにもかかわらず、その展開は整合性を持っていると感じられた。形式論理とは違う視点で世界を捉えているのだという理解が出来た。

弁証法論理を知ってからは、僕は論理というもののとらえ方が変わったような気がする。形式論理は、あくまでも形式を問題にするものなので、論理と言えば推論形式を中心に考えるものだと理解していた。整合性を持った推論形式を抽出し、その推論形式を適用したものだけを定理(真理)だと認め、数学における定理の正しさをその推論形式が論理の法則に従っていると言うことで保証するものが論理だと思っていた。

論理で重要なのは形式面だ。しかし、この形式面が正しいと保証するものはどこにあるのか。例えば形式論理において正しいとされている三段論法などは、どうしてそれが正しいと言えるのだろうか。数学の正しさを保証するのは論理だった。論理が正しければ数学の正しさは信頼出来る。それでは論理の正しさはどうやって保証されるのか。

論理よりももっと基礎的な何かがあって、その正しさで論理の正しさを保証するという道は見付からないように思われる。もしそのようなやり方で遡ることを許せば、永久にその基礎を探し続けなければならないだろう。また、論理は世界の法則を抽象したものとしては、最高レベルの抽象であってこれ以上の抽象はもう出来ないと言う意味で本当の基礎の基礎ではないかと思う。

論理の正しさは他のもので基礎づけることは出来ない。そうすると、これが世界の法則性を抽象したものであるなら、正しさを保証するのは、抽象の過程に存在すると考えなければならないのではないか。具体的な対象に三段論法を適用したとき、その結論は現実にいつも正しかったという経験から抽象されたものとして論理の正しさが保証されると受け止めなければならないだろうか。これにはちょっとした躊躇を感じる。

論理の正しさ、論理における真理というのは、経験を越えた絶対的なものという感じを捨てきれないところに躊躇を感じる理由がある。論理の正しさは、それほど強固なものでなければならないのではないかという感じがするのだ。

経験から得られた真理と言うことでは、科学における真理がある。これは論理的な真理とは違う感じがする。板倉さん的な定義で言えば、仮説実験の論理を経て確かめられた真理が科学的な真理だと言うことになる。つまり、科学における真理というのは、条件付きの真理であり、場合によっては誤謬に転化する可能性を持った真理として定義される。経験から得られる命題に関する真理性は、常に科学における真理と同じ構造を持っているだろう。

それは対象を制限し、言葉の意味を制限して初めて真理であると理解される。対象を広げすぎたり、言葉の意味を多様にしすぎたりすれば真理でなくなる。それに対して論理的な意味での真理は、対象としては形式論理では、現実に存在する具体的対象ではなく、論理的な形式の方が対象にされる。

論理で扱う関係というのは、形式論理では、「〜でない(否定)」「または」「かつ」「ならば」と言う言葉でつながれる形式で現される。そういう意味では対象が制限されているのだが、ここでは現実の具体的な存在は捨象されていて考察の中に入ってこない。科学のように、現実の対象を制限して、その制限の下で任意の対象に対して法則が成立するかどうかという実験をすることが出来ない。

元々が具体的な対象がないので、世界に存在するあらゆるものを対象にしなければならなくなる。そのような任意性を確かめる実験は存在しない。つまり、経験科学的な証明は論理の場合には出来ないのだ。それにもかかわらず、論理の正しさをどうして我々は信じるのか。

論理の正しさが経験的に保証されなければ、それは先験的に受け止めるしかないのだろうか。言語の持つ属性から論理を基礎づけようとする考え方もあるようだ。また論理においては真理性は語ることの出来ないものとして、その形式面だけを問題にすると言う考え方もある。

論理において定理とされるのは、それが真理だから定理になるのではない。論理としての公理を立てて、その公理から生成される命題が定理になるので、真理かどうかは問題にしないという立場だ。また、そこで生成される定理を真理と呼ぶことにするという、真理という言葉に新たな意味を与えることで真理性の問題を片づけようとする。

これは客観的世界の法則性を捉えたものが真理だとする唯物論的な考え方には反するのではないかと思う。しかし、論理においては、客観的世界をすべて対象にするので、原理的に正しさを証明出来ないことになる。今までに知られた事実に対しては成立しても、未知の事実に対して正しさを保証出来るというのは、経験からは得られない。

パラドックスというのは、解決出来ない論理的な間違いのようにも見える。これは経験を越える超越的な対象に対して論理を適用したことによってもたらされたものではないだろうか。

論理は、経験の範囲内では揺るぎない信頼を持つことが出来る。しかし、経験したことのないものを扱うときにはその正しさは分からないと考えた方がいいのだろうか。これは唯物論と観念論にも当てはまりそうな感じがする構造だ。経験したことについては、あくまでも唯物論的に考えることが正しい結論をもたらすように感じる。しかし、経験したことのないものは、その対象が存在するかどうか分からないので、そもそも唯物論的に考える対象に出来ないと言うことになる。

唯物論的な対象に出来ないとしても、人間は何らかのことを考えてしまう場合がある。「人はなんのために生きるか」「幸せはどこにあるのか」「倫理的な正しい行為とは何か」等々のことは、それが唯物論的には扱えないからと言って、人間の思考から消し去ることが出来ないものにも思われる。

これらは唯物論的には扱えないけれど観念論的には考えることが出来る。観念論の意義の一つは、ここにもあるのかも知れない。それは、結論としては「正しい」とか「正しくない」とか真理性を問題にすることは出来ないだろう。確かめようがないからだ。真理性を問題にするには唯物論的に考えなければならない。だが、これらのことは考えることそのものに価値があるというのが哲学の伝統なのではないだろうか。真理性は問題にしないが、考えることそのものの価値に従って考察されるのではないだろうか。

論理についても、それが経験された事実に対して適用されているのであれば、経験された事実の唯物論性から、事実の真理性が問題にされ、事実の真理性を通じて適用された論理の真理性が判定されるという関係にあるのではないだろうか。経験的な事実に関しては、あくまでも唯物論的であることによって真理性が考えられる。

問題は超経験的なものに対する論理だ。これは、それが正しいかどうかの保証をするものがない。それは、考えることは出来ても結論は最後まで分からないものとして考えた方がいいのではないだろうか。神の存在は、考えることは出来ても、存在しているかどうかは論理では結論は出せないのではないか。「無意識」という対象も、超経験的なものであれば、考えることは出来ても存在を確かめることは出来ないのではないか。ただし、それが考えるに値するものであれば、その可能性を与えてくれるものとして論理の素晴らしさもあるのではないかと思う。