仮言命題そのものの真理性とその前件と後件の真理性

内田樹さんの「2006年07月23日 Take good care of my baby」というエントリーに、論理的な観点から見て非常に興味深い記述があった。

『オニババ化する女たち』の著者・三砂ちづるさんは「おむつの研究」をしているという。それは内田さんによれば、「母親にシグナルが読めればおむつは要らない。
ということを科学的に論証しようとする研究だそう」だ。

「日本ではいま「二歳までおむつをとる必要はありません」ということが育児書でいわれているそうだが、三砂先生によると、これはぜんぜん育児の方向として間違っている」と内田さんは語る。それは、後の方の記述を読むと、おむつをいつまでもつけておくことによって、母親が、「子どもが「排便する前に発するシグナル」がどういうものか学習する」ということが損なわれるからではないかと思われる。

おむつを早く取ると言うことを前提にすれば、母親は子どものシグナルに敏感になる。それは、言葉によるシグナルではないので、訓練しなければ間違った受け取り方をするし、微妙な違いが区別出来なくなる。そして、このシグナルを読むという技術が上達することによって、母親と子どもの間に深いコミュニケーションが生まれるという、育児にとって実に大事なことも実現出来る。

これは論理的に整合性を感じる主張なので、なるほど正しいかも知れないと思えるような事柄だ。しかし、この研究に反対する二つの勢力から「微妙な圧力がかかっているそう」だ。

一つは紙おむつメーカーからのものだそうだ。これは論理的によく分かる圧力だ。三砂さんの研究が正しいものであれば、おむつは必要なくなるわけだから、紙おむつが売れなくなるという結果が生まれるのは必然的だ。正しくなければいいのだが、もし正しいという結果が出てしまったら困るから、研究の段階で圧力をかけたいという気持ちはよく分かる。

しかし、これは研究の正しさを巡る展開ではないので、学問の自由から言えば不当な圧力になり、批判するのもそう難しくはない。経済的な利害関係を、学問の自由よりも上位に置くと言うことが間違いであることを指摘すれば批判はそれで足りるだろう。紙おむつメーカーの利害の方が、学問の自由よりも上位にあると主張する人はいないだろう。学問の自由は、ほとんどすべての人の利益になる公共的なものだが、紙おむつメーカーの利害は、一私企業の利益にしかならないことだから、社会的な重要性ということから考えれば、これは圧力をかける方が不当だ。

内田さんは、もう一つの圧力を「ご想像のとおり、フェミニストからである」と語る。こちらは学問的に対立している主張が語られているので、一私企業の利害よりも、その正当性の判断は難しい。そして、ここに論理的に面白いと思われる構造を見ることが出来る。内田さんが批判的に取り上げている

「「おむつはつけたままでいい」という主張がフェミニスト的にPC(Politically correct)とされるのは、「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」からである。
「母親と子どもとのあいだには身体的でこまやかなコミュニケーションが必要だ」というのは、そのようにして女性から社会進出機会を奪い、すべての社会的リソースを男性が占有するための父権制イデオロギーなのである(とほ)。」

という論理が、仮言命題としては正当性を持っているところに僕は面白さを感じる。仮言命題の前件として、「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」という命題を設定すると、次のような推論で一つの結論を導くことが出来る。

  「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」
     ↓
  「母親は四六時中子どもに気を取られてはいけない」
     ↓
  「母親は、いつ行われるか分からない排便に注意し続けるのはいけない」
     ↓
  「母親は、子どもの排便行為を忘れる時間を持たなければならない」
     ↓
  「母親の自由な時間のためにおむつは必要である」

これは推論としては正しいように僕には思われる。だから、推論の出発点の命題を前件とし、最後の結論を後件とするような仮言命題

  「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」
     ↓
  「母親の自由な時間のためにおむつは必要である」

は、この命題全体としては論理的な整合性を持っているように思う。つまり、仮言命題として真理を語っていると僕は思う。だが、僕は内田さんが最後に「(とほ)」とつぶやいたぼやきに共感する。それは、これが仮言命題としては真理であっても、その前件の真理性については大きな疑いを持っているからだ。

仮言命題「A→B」という命題において、それが仮言命題として正しい推論の元に求められたものであっても、実は、それだけでは前件そのものや後件そのものの真理性については何も語っていないと言うことに気をつけなければならない。論理は推論の正しさを証明することは出来ても、AやBの正しさを語ることは出来ないのである。

もし仮言命題「A→B」が正しいものであって、Aが正しいことが確認されれば、Bのことを直接調べなくてもBの正しさを主張することが出来る。それが仮言命題の特徴だ。だから、Bの正しさを直接証明することが難しいときは、仮言命題の正しさをまず語っておいて、前件Aの正しさを証明するという手順で証明を行う。

アリバイによる容疑の否定などは、この論理に該当するだろうか。犯行現場にいなかったということを直接証明することはたいへん難しい。犯行現場を直接見ていた人はいないし、それをそっくり再現することは出来ないからだ。しかし、同じ時刻に別の場所にいたことが証明されれば、

  A地点に容疑者がいた → B地点に容疑者はいない

という仮言命題の正しさから、アリバイが証明されれば容疑も晴れると言うことになる。なお、上の仮言命題の正しさは、一人の人間が同時に二つの場所にはいられないと言うことの正しさから導かれる。もし、同時に二つの場所にいられるような人間がいたら、上の仮言命題は正しくなくなるが、そういう人間はおそらくいないだろう。

上の仮言命題が正しいからといって、その前件がいつも正しいとは限らない。アリバイが証明出来ないこともいくらでもある。アリバイの証明は、この仮言命題とは別に行わなければならないのだ。また、アリバイが証明出来なかったときは、その結論の正しさは保証されない。これは、結論が間違っていると言うことではない。

アリバイがないからといって、それだけで容疑が決定してしまうのではないのだ。アリバイがないとき、つまり上の仮言命題の前件が間違っているときは、結論が正しいかどうかは分からなくなると言うだけのことなのだ。容疑者が本当の犯人である場合もあるし、濡れ衣の冤罪である場合もある。どちらかは、アリバイが見つからないことからは結論出来ないのだ。結論に対しては、アリバイとは別に証明する必要がある。アリバイが証明出来れば容疑は晴れるが、アリバイがないときは、捜査は振り出しに戻るだけのことなのである。

アリバイと容疑の場合には分かりやすいこの論理が、内田さんが語る仮言命題では、必ずしもすぐには分からないのではないだろうか。仮言命題として、論理的な整合性があることが、その結論が正しいという錯覚を起こさせるのではないだろうか。

「母親の自由な時間のためにおむつは必要である」という結論の正しさは、この仮言命題だけでは何も言えないはずなのだが、仮言命題の論理的整合性から、この結論が正しいという錯覚を起こさないだろうか。もし、そう言う錯覚を起こす人が多かったら、内田さんがつぶやく「(とほ)」という言葉に共感する気持ちが分かってもらえるのではないかと思う。

「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」という前件は、僕は短絡的な視点ではないかと思っている。この主張は、一般論として語られているので、どんなばあいでも「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」と主張しているように僕には感じる。だが、実際には、子どもに縛り付けられていることが正しいという場合だってあるのではないかと思う。それが、子どもの微妙なシグナルをキャッチして深いコミュニケーションをするときだと思う。このときは、縛り付けられていることがむしろ正しいのではないか。

僕は、この前件が常に成立する真理だとは思わない。だから、結論の「母親の自由な時間のためにおむつは必要である」ということの正しさは、この前件とは別に証明する必要があると思う。だから、学問の自由から言えば、三砂さんが語る、この反対の主張「おむつは必要ない」と言うことも研究の意義が当然あるだろうと思う。

内田さんが語る「微妙な圧力」が、具体的にはどういうものか分からないが、それが正当な批判ではなく、「圧力」だと言えるものならそこには不当性の匂いを感じる。三砂さんの主張に対して反対なら、それは反対の主張を証明するべく理論を構築すればいいのだと思う。それは、上の仮言命題を基礎にしたのでは弱いだろうと思う。もっと直接的な反論をするべきだろう。

なお内田さんは「フェミニスト」という言葉を使って批判を展開しているが、これは「フェミニスト」一般を批判した主張ではない。内田さんが対象にしているのは、三砂さんの研究に圧力をかけてくる具体的な存在としての「フェミニスト」だ。抽象的に定義された「フェミニスト」について語っているのではない。

だから、そういうものは「フェミニスト」ではないとか、そのような主張をするものは本物の「フェミニスト」ではないとか言う議論は本質をはずれた末梢的なものになるだろう。あくまでも、内田さんが具体的に指摘している対象が批判に値するものなのかということが検討されなければならないと思う。その対象を「フェミニスト」と呼ぶことに反感を覚える人がいるかもしれないが、元々「フェミニスト」という言葉が、まだ定義が明確になっていない流動性のある言葉なのではないかと思う。そういう意味では、言葉の使い方として仕方のないものと捉えなければならないのではないかと思う。

また、僕のこの考察も、「フェミニスト」を批判したものではない。それは、仮言命題の正しさを、そこに現れてくる前件や後件の正しさに直結して誤解するという、誤謬論としての考察をしているだけだ。内田さんが語る人間の成長と深いコミュニケーションの経験の影響も興味深い内容だが、論理という視点に絞ると、仮言命題の構造というものの面白さがまず目についた。他の面白さについてはまた別に考えてみたいものだと思う。