言葉が現実を切り取って意味づけていくと言うことについて


亀田選手の世界戦については、その判定結果が問題になり、多くの人がそれに対して意見を語っていた。亀田選手を擁護する人は少なく、批判する人が多いというのが図式だったようだ。僕は、亀田選手の試合そのものよりも、その後の日本中の反応の方が面白かった。

この問題は、いろいろなことが複雑に絡み合っているので、なかなかどれが正しい判断かということを言うのが難しいだろうと思う。視点の違いによって様々な意見が出てくるのもやむを得ないことだと思う。だが、その様々な意見が、ある言葉から生まれてきたように見えるものがあるのは、言語と論理の関係に関心がある僕にとっては面白い現象だと思った。

八百長」という言葉であの試合を語っている人が大勢いたのだが、この言葉の使い方に僕は違和感を感じた。八百長というのは、辞書的な意味は次のようになる。

「《相撲会所に出入りしていた長兵衛という八百屋(通称八百長)が、ある相撲の年寄と碁(ご)を打つ際に、いつも1勝1敗になるように手加減していたことからという》

1 勝負事で、前もって勝敗を打ち合わせておいて、うわべだけ真剣に勝負すること。なれあいの勝負。「―試合」

2 なれあいで事を運ぶこと。「―の質疑応答」」

普通のイメージでは、事前に勝敗が決まっている試合に対して、それを悟られないようにうまく試合を運ぶようなことをすることが「八百長」のイメージではないかと思われる。そうすると、「八百長」というのは、お互いに打ち合わせをして、最初からストーリーを作ると言うことがもっともやりやすいものになる。

また、絶対的に強い方が手加減をして、第三者に悟られないようにうまく負けるという方法もある。これは圧倒的に強い方がそのように細工しないとうまくいかない。試合をコントロール出来る人間が、本来は勝って当然のはずなのに、うまく負けると言うところに「八百長」と言うことの現象的な面が見られる。

さて普通の意味での「八百長」というイメージで亀田選手の試合を振り返ると、事前に打ち合わせた通りに試合をした「八百長」であれば、相手のランダエタ選手も一枚かんでいなければ「八百長」にならない。僕は実際にテレビであの試合を見ていたのだが、お互いに了解済みの「八百長」には見えなかった。もしそうであれば、もっとうまくやっていたのではないだろうか。

ランダエタ選手は、初めて対戦する相手で、しかも適地日本での圧倒的な人気を持っている亀田選手の姿からは、かなりのプレッシャーを感じたのではないかと思う。そういう意味では、相手の出方を見ながらのパンチを出すという点では、決定的なものが出せなかったとしても仕方がないような気がする。それでも最後はK.O.寸前まで追い込んだと言うことは、ランダエタ選手はそれなりの実力の持ち主で、その実力を発揮したと言えるのではないだろうか。もし「八百長」としてランダエタ選手も一枚かんでいるのなら、あのような微妙な試合にはならなかったのではないかと思う。

それでは、普通の意味で「八百長」と呼ぶのなら、本当は強い方の亀田選手が手加減をして、ワザと危ない試合を演出して負けたかのように装うと言うことが、本来の「八百長」という言葉の使い方にふさわしいように思う。しかし、そのように見た人はほとんどいなかっただろう。亀田選手は、圧倒的な強さを見せつけて勝ちたかったはずで、ワザと危ない試合をする必然性はどこにもないからだ。

実際の所は、ランダエタ選手が、亀田選手の予想を超えて強かったと言うことだったのではないかと思う。元世界チャンピオンの具志堅用高氏が語ったように、今までの相手は、亀田選手の力からすれば弱すぎたので圧倒的な強さを見せつけて勝つことが出来たと言うことだったのではないかと思う。今までの相手に比べてランダエタ選手は、ある意味では本当に強かったので、圧倒的な強さを見せつけるどころか、下手をすれば負けるかも知れないと言う試合になってしまったのではないかと思う。

そう言う相手と初めてぶつかって、しかも初回にダウンを喫していながら、よく12回まで持ちこたえたと言うことでは、亀田選手はボクシングに非凡な才能を持っていることは確かだと思う。しかし、経験のあるうまい選手にかかれば、未熟なときに苦い敗戦を味わうのは普通に良くあることだと思う。その普通によくあることが出ただけなのに、それがヒーローの傷になると思って何らかの配慮が働いてしまったのかな、というのが試合の後に僕が感じたことだ。

スポーツ評論家の二宮清純氏が語っていたように、あの試合で勝ちはないと思った。せいぜいドローだろうと思ったが、ドラマのためにはドローというような中途半端な結果ではなく、むしろ苦い敗戦を味わって、そこからはい上がるという方がヒーローにふさわしいと思ったものだ。圧倒的な強さで勝つだけのヒーローというのは、あまりにも単純すぎて、むしろドラマとしては二流の駄作なのではないかと感じた。

あの試合の印象としては、勝敗の判断がおかしいというものであって、亀田選手の勝ちが「八百長」によってもたらされた、というふうに僕は感じなかった。「八百長」という行為が行われた結果のようには見えなかったからだ。勝負はスポーツとしてある程度正当に行われた。ランダエタ選手には、適地で戦ったり、会場の雰囲気など不利な面はかなりあったと思うが、勝負そのものはその中でも出来る限りの力を発揮して行われたように感じた。ランダエタ選手の方が亀田選手よりも強かったとしても、手加減して勝たないようにしようとしたというふうには見えなかった。

判定がおかしい、その結果に納得しないと言うことでは、多くの人は意見が一致すると思われるのに、それを「八百長」と呼ぶ人が多いというのは、その判断の根拠はどこにあるのだろうか。僕は、「八百長」という言葉の意味が、その本来の意味を離れて単純化され、その意味で現実のあの試合を切り取って判断しているために、「八百長」という言葉であの試合を呼ぶ人が多かったのではないかと感じている。

八百長」という行為は、試合をする前から勝負を決めておくことを前提とする。この前提だけが「八百長」の意味になってしまっているのではないだろうか。亀田選手の試合は、試合をする前から、すでに勝つことが決まっているかのごとくに次の予定などが語られていた。しかし、それはあくまでも予定であって、既定の事実のように打ち合わせてあるのだという感じはしなかった。だから「八百長」とは呼べないのではないかと感じた。「八百長」というのは、馴れ合いによってあたかも真剣勝負のように振る舞って結果的には亀田選手が勝つように打ち合わせておいたときに「八百長」と呼ばれることがふさわしい。

実際の試合では、とても亀田選手が勝ったとは思えないようなものになってしまった。これは「八百長」の条件を満たしていないように感じる。もしどこかで亀田選手がK.O.されていたら、最初から勝つように決めておいたとしても、それは絶対に出来ないものになってしまう。どんな形にしろ、勝ったという結果を出すには、最後まで立っていなければならない。しかし、ただ立っているだけでは、とても勝ったとは言えないので、それは「八百長」にもならない。単に不正があったと言うだけのことではないかとしか感じない。

あの試合は「八百長」という言葉で語るのではなく、単純に審判のジャッジに不正があったのではないかという疑惑で語ることがふさわしいのではないかと思う。「八百長」という言葉で語ってしまうと、試合そのものまで馴れ合いでストーリーが決まっているかのような印象を持ってしまう。「八百長」という言葉であの試合を切り取ってしまうのはまずいんじゃないかという違和感を僕は感じている。しかし、この言葉を知っている人は、この言葉で現実を切り取ってしまった。それはどうしてかと言うことが、言葉に対する関心として実に大きなものになっている。

馴れ合いというイメージで言えば、亀田選手の陣営と審判団との間にそれを感じた人がいたのかもしれない。試合そのものの「八百長」ではなく、審判団と陣営との馴れ合いを「八百長」と感じたのかも知れない。しかしこれは「八百長」と呼ぶにふさわしい関係になっているだろうか。

八百長」が問題になるのは、勝負を争う当事者の間でのことではないだろうか。もし相手に関係なく「八百長」という言葉を使うとしても、それは圧倒的に強い方がワザと負けると言うときに限られるのではないだろうか。

八百長」という言葉の使い方が気になるのは、亀田選手の試合において、もし不正があるとしたら、その不正は「八百長」によるものなのか、審判のジャッジにおけるものなのかということは、不正の処理の仕方に大きく関わってくるのではないかと思われるからだ。

もし「八百長」が行われたとしたら、それは本来真剣勝負であるはずのスポーツを冒涜したものとして、「八百長」に関わった人間のすべてがそのスポーツから追放されるくらいの重大な罪になるだろう。かつてのプロ野球での「黒い霧疑惑」はそういうものではなかったかと思われる。

しかし、ジャッジの不正と言うことになれば、選手にはまったく関係ないことになる。これは、そのジャッジに関わった人間に対して不正の処理を行うことになるだろう。

また、上の考察は、「もし不正があったなら」という前提で行っているものなので、この前提がないということであれば、誰も処分される人間は出てこないだろう。考えられる可能性としては、審判がジャッジのミスを犯したというものだ。ミスを犯したのであれば、これはミスの責任は問われるが、それ以上の責任を問うことは出来ないだろう。

亀田選手は、圧倒的に強いヒーローというストーリーからは、この試合ではずれてしまった。幻想がなくなった今は、本当に強いのかどうかと言うことを証明しなければならなくなったと言えるだろう。現実を直視せずに、あくまでもストーリーを作り続けようとすれば、それはマンガになってしまうだろう。現実がマンガになってしまったら、ヒーローは墜ちた偶像になってしまう。「八百長」というネガティブイメージで語られてしまったのは、マンガ性を見た人が多かったことにもよるのではないかとも思う。

八百長」という言葉が、たとえ正確さを欠くとしても、ネガティブイメージの方を伝えることが目的であれば、それはかなり成功したとも言えるだろう。だが、感情に流されることなく、物事の客観的側面を見たいと思っている人は、ネガティブイメージに惑わされることなく、客観性を捉えるよう努力しなければならないと思う。社会的な現象における、この試合での「八百長」という言葉に対応するような言葉は多いのではないかと思う。正確さよりもネガティブイメージを助長する言葉には敏感でありたいと思うものだ。