宮台真司氏の論理展開 3


宮台真司氏が語る

「不安こそはすべてのバックラッシュ現象の背後にあるものです。」

という判断が、いかにしてもたらされるかという論理の流れをたどってみたいと思う。これは直感的にはそうだと思うものである。バックラッシュ現象というものが、そもそも正当な批判活動に当たるものではなく、的はずれのバッシング(攻撃)に過ぎないものだと受け止めれば、それが冷静に行われる可能性が薄いというのはすぐに分かる。つまり何らかの不安があるだろうということも予想するのは難しくない。

だが、これを直感ではなく論理的な帰結として構築するのはなかなか難しいのではないかと思う。物が上から下に落ちるという現象はすぐに分かる。しかし、落下運動がどういうメカニズムで起こるのかという論理的な解明は、ガリレオニュートンという天才の出現を待たなければならなかった。現象をそのまま記述するのは易しいが、それを理論化するのは難しい。

理論化するというのは、特定の現象の中にある普遍性を抽出することになる。ジェンダーフリーに対するバッシングという特定の現象に不安を見つけるのは、現象を眺めることですぐに分かる。そして、それが「再帰性」という概念の無理解から生じる不安だったということも、特定の現象だからこそ導かれるものだった。これを、バックラッシュ一般に対象を広げた場合、どのような不安と結びついていると判断することが出来るだろうか。

宮台氏が使うキーワードは「自明性への疑い」というものだ。「自明性」というのは、当然そうなっているはずだという前提で考えるので、それを疑うことなど考えもしない。それをあえて疑わなければならない状況が生じたと言うことは、「こんなはずではない」という思いが生まれることを意味する。「こんなはずではない」という思いが不安の源泉になるのではないだろうか。

このように見えるものを宮台氏は、「前提不在による混乱」と呼び「アノミー」という言葉で表現している。今まで当たり前のようにあると思っていた前提を疑うというのは、前提が消えてしまったのではなくても、それが確実でないと言うことから「不在感」を抱くものだ。それが当たり前だという思いが強ければ強いほど「不在感」は大きいものになり、「アノミー」は強いものになるだろう。

このような不安に対処するには、選択対象になった「選択前提」を、今一度深く考えることで克服するしかない。もう一度「選択前提」を選び直すことが必要になるわけだ。しかし、そのような選び直しが出来ないと、「選択前提」に疑問を投げかけたものが、社会を混乱させるものとして非難されるもののように感じるかも知れない。この感情的な思いが不安につながるものになるのだろう。

「選択前提」について考えると言うことは、ジェンダーフリーの時に考察したような「再帰性」に通じるものだ。バックラッシュに通じる不安は、「再帰性」の理解と深く結びついているのを感じる。「選択前提」が当たり前のものでなく、あえて選択する対象になると、それを選択することの正当な根拠というのを探さなければならない。それはほとんどの場合見付からないのではないかと思う。当たり前だと思っていた事柄というのは、当たり前だと思うこと以外に選ぶ理由が見つからないのではないか。

それにあえて選択理由をつけるというのは、自己責任で選んでいるのだという意志の問題にもなってくるのではないだろうか。靖国参拝問題ではまだバックラッシュ現象は起こっていないようだが、世論調査によれば小泉さんの参拝を支持するものが多数を占め、そこには何の問題もないと思っている人が圧倒的に多いようだ。

この支持する人たちの論理は、それに反対する人の論理をほとんど無視しているように感じる。外国が口を出す問題ではないという言い方をする人は、これが外交問題かも知れないという前提を完全に無視している。選択前提の中に外交問題はまったく入っていないわけだ。それがなぜ無視しうるかと言うことについて説得的な論理を展開したものは無いように思う。

小泉さん自身も「心の問題」を前面に立てて、これだけが「選択前提」であり、これが当たり前だからこそ参拝したのだという感じがする。この「選択前提」に疑問を差し挟むことは可能だと思うのだが、参拝賛成派にはそれがまったく伝わらないのを感じる。これは「心の問題」を否定するのでなく、「心の問題」と同じくらい重要な「選択前提」として外交問題を立てようという発想だ。

「心の問題」と「外交問題」のどちらを重視するかという選択は、絶対的にどちらかが正しいという結論は出ないだろう。まさに、自己責任で選び取るしかない選択ではないかと思う。しかし、この自己責任を自覚するには、どちらも同等な「選択前提」なのだという理解が必要なのではないかと思う。一方を「選択前提」としてまったく考えていなかったら、それは「自明性への疑い」から「アノミー」へと成長していく可能性があるのではないだろうか。

靖国参拝問題に関して、ここには外交問題が含まれているという発言をしたものに、「おまえは外国の味方をするのか」とか、「日本人の心を理解出来ないやつ」というようなバッシングが見えるようだと、ここにもバックラッシュ現象が現れるのではないだろうか。本来なら、外交問題が間違いだと批判するのなら、その判断自体を分析して批判しなければならないはずだ。それを、相手の人格攻撃と結びつけて「外国の味方」だとか「日本人の心情が理解出来ない」というレッテルを貼るのは、全くの的はずれのバッシングになるだろう。今後、そういうものがたくさん目につくようなら、バックラッシュ現象を理解するのに役立つのではないかと思う。

この「自明性への疑い」は、「流動性不安」=「過剰流動性による不安」から生まれると宮台氏は語っている。これは論理的に理解するのがちょっと難しいのを感じる。「流動性」というものをどう捕らえたらいいかに迷うからだ。何が流動するのだろうか。

宮台氏がよく語っていたのは、人間の流動性に関するものだった。生まれてから死ぬまでだいたい同じメンバーで過ごすような社会は流動性が少ない。そのような社会では、今まで当たり前だと思われてきたことは、社会の中で教育されることによって当たり前として伝統が受け継がれていくだろう。「選択前提」に疑問を差し挟むようなものが生まれる可能性は薄い。むしろ、そのようなものが、そのような流動的でない社会に生まれたら、その社会から排除されるだけではないだろうか。

近代成熟期においては、この人間の流動性が大きくなる。生まれてから死ぬまで同じところで過ごす人の方が少数派になる。地域共同体の共通感覚は失われていくことになるだろう。「選択前提」としての「自明性」は限りなく薄くなっていく。

自分が当たり前だと思っていたことを当たり前だと思わないような人間が目につくようになる。得体の知れないやつが増えてきたと言うことが「流動性不安」という言葉で語られる内容だろうか。「流動性」というのは、人間が流動していくと解釈していいのだろうか。他のものは流動しないのだろうか。

人間の流動性なら、それが自明の前提を疑わせるきっかけになるという論理の流れは納得出来るものだ。違う習慣・違う育ち方をした人間は、違う感覚を持っているだろうから自明の「選択前提」にも違いがあるだろう。それを見せられると「選択前提」に対する疑問が芽生えてくるものだと思う。

この不安に対して、あくまでも旧来の「選択前提」を守る立場に立ち、「選択前提」の違う人間を攻撃することがバックラッシュにつながるのだろう。この時代の流れにあらがう行為は成功するだろうか。時代の流れに客観的な整合性がある場合は、いくら感情的に否定したくなろうとも、現実に否定出来ない事実が現れてくるに違いない。

いろいろなバックラッシュ現象で、それが時代の流れにあらがうものなのかよく考えることは、バックラッシュに現にさらされている側が落ち着くためにはいいことではないかと思う。長野県知事選においては、田中康夫さんは長野県におけるマスコミによってバックラッシュ現象のさなかにいたらしい。それは攻撃のための攻撃で、論理的に正当性を持ったものはほとんどなかったようだが、田中さんがそれまでの自明な「選択前提」を壊したことに対する非難は相当なものがあったようだ。

田中さんは、結果的に選挙には負けてしまったが、これは田中さんを攻撃する側にいくらかでも正当性があったのか、それとも時代の流れに逆らった側が、たまたまいくつかの偶然が重なって選挙には勝利してしまっただけなのか、その評価によって心構えが違ってくるだろう。

相手の側に何らかの正当性があると判断するなら、こちら側の間違いを深く反省するという道を選ばなければならないだろう。だが、時代の流れの中での偶然が作用しただけだという判断なら、その時代の流れが、古い体制を守るにはもはや役立たない努力が矛盾をさらけ出すのを待っていればいいことになる。時を待つことによって反撃をするという形になるだろう。

過剰流動性から生まれる「自明性の疑い」が不安につながるようであればこれはバックラッシュ現象をもたらす。だがそれが、自明だと思われていた「選択前提」を再考するための視点を与えるのだと理解すれば必ずしも不安は生じない。時代の流れとして、過剰流動性が治まるような方向へ行くとは思えない。そうであればそれを不安につなげないような工夫をした方がいいのではないかと思う。

なお過剰流動性から生まれる不安は、必ずしも右翼的な人に限られた現象ではないと思う。左翼的な人間も、左翼的な意味での自明な「選択前提」はたくさんあるだろうと思う。その「選択前提」に疑問を挟んだだけで自分が否定されたように感情的に感じるとしたら、それはバックラッシュ現象と同じ不安が生じているものだと思われる。

バックラッシュ現象は社会に広く起こるものなので、保守的・右翼的な人々が中心となって起こることが多い。しかし、仲正昌樹さんが『ラディカリズムの果てに』で批判した左翼的な人々は、同じような不安のバックラッシュ現象を起こしていたのではないかと僕は感じる。