起源を考察する際のパラドックス性


内田樹さんは『私家版・ユダヤ文化論』で、ユダヤ人とは誰のことかということを考察した際、それは誰かをユダヤ人だと思いたい人の主観に判断の基準があるということを論じた。おまえがユダヤ人だと言うことは、俺がそう思うからだ、ということで証明される。これは全く不当なことだ。なぜなら、相手をユダヤ人だと思うことは、それを根拠に差別する意図があるからだ。合理的でないことを差別の根拠にするのだから、これは不当な差別につながる。

この考え方の先駆者として内田さんはサルトルを挙げる。サルトルは次のように語っているようだ。

ユダヤ人とは他の人々が『ユダヤ人』だと思っている人間のことである。この単純な真理から出発しなければならない。その点で反ユダヤ主義者に反対して、『ユダヤ人を作り出したのは反ユダヤ主義者である』と主張する民主主義者の言い分は正しいのである。」


内田さんは、この解釈を正しいものと受け取っているが、この解釈が正しいとしても社会からはユダヤ人に対する差別がなくならないという現実がある。それはどうしてだろうか。

現状を正しく認識することと、現状を改革すると言うことは違うからではないだろうか。マルクスは、哲学者は現実を解釈するだけだったが、大事なのは変革することだとかつて語っていた。それは、哲学者が変革が出来なかったと言うことを語っていたのだと思うが、解釈するだけではそれがいくら正しくても変革には結びつかないと言うことでもあったのだろう。

変革には現実の正しい解釈という、正しい現状認識が不可欠だが、有効な変革に踏み出すには、その他に重要な要素があるのではないかと思う。その要素の一つに「起源」というものがあるような感じがする。現状にいくら不合理な面があろうとも、それが存在していると言うことに別の種類の合理性があることも確かだ。その合理性を支えるのは、不合理であるにもかかわらず発生した「起源」にその合理性を求めることが出来るのではないだろうか。

その「起源」を正しく捉えることが出来れば、原因に当たるものを取り除くという変革によって、現実の不合理を取り除く可能性が出てくるのではないだろうか。これは論理的に展開出来る方向をもっているのではないかと思う。

そこで「起源」というものを考えてみるのだが、これがいくつかのパラドックス性を持っていることで論理の展開が行き詰まってしまうのを発見する。かつて日本の身分差別は天皇制を起源として発生したという説を聞いたことがある。だから、差別反対闘争の究極の目的は天皇制の打倒というものになっていたように記憶している。

これは、身分差別の起源が天皇制にあるということなら、起源を取り除く・つまり原因を取り除いたときに身分差別の問題が解消されると言うことは論理的に納得出来る。天皇という位置は、究極の最高位の身分であるから、最高があるということから、反転して最低の存在を要求すると言うことが論理的に導かれる。これが身分差別の起源となるということだったのではないかと思う。

天皇制打倒が差別撤廃にもつながるというのは、スローガンとしては分かりやすいが、実際の運動としては大きな困難があるだろう。天皇制打倒が簡単に出来るとは思わないからだ。そうすると、これがある限り不当な差別はなくならないと考えると、不当な差別の存在の根拠が現実にあり続けると言うことを認めなくてはならない。ある意味では、ほぼ永久的に不当な差別はなくならないという主張にもつながってくる。これは一つのパラドックスとして人々を悩ませるだろう。

もう一つ「起源」に伴うパラドックスとして、それが発生する以前と以後の分岐点で、どのような飛躍があったのかが解明出来ないと言うものがある。鶏と卵の議論のようなものが発生するのである。天皇制がある日突然発生してそれが身分差別を生んだと考えたとき、その天皇制はどうして発生したかと言うことが整合的に説明出来ない。

むしろ、天皇にふさわしい身分の高い存在というものがすでにあったので、それを社会全体に広げて周知させる意味で天皇制が発生したと考えることも出来る。天皇制以前に身分差別というものがあったと考えることも出来るだろう。どちらが根源的なものかということの決着がつけられないパラドックスがある。

これは、差別が存在する現実の中にいる我々が、差別が存在していなかった状態をうまく想像出来ないことにパラドックス性が生まれる原因がある。これを性差を巡る議論に置き換えて考えると分かりやすいかも知れないと言うことで、内田さんは次のように語る。ちょっと長いのだが引用しよう。

ジェンダー論では、生物学的性差(セックス)と文化的・歴史的性差(ジェンダー)は使い分けて用いられる。ただし、近年のジェンダー論によれば、生物学的性差は自然的事象でも科学的事実でもない。自然界に存在するのは、性ホルモンの分泌量の差異というアナログ的連続だけであり、デジタルなセックス・ボーダーは存在しない。あたかも自然的性差なるものが存在するかのように私たちに信じさせているのは、男性に社会的リソース(権力、財貨、情報、教養など)を独占させることを目的とする父権性イデオロギーなのである。マルクス主義フェミニズムの立場からクリスティーヌ・デルフィはそう断言した。
「手短に要約するならば、私たちは、ジェンダー−−女性と男性の相対的な社会的位置−−がセックスという(明らかに)自然的なカテゴリーに基づいて構築されているのではなく、むしろ、ジェンダーが存在するがために、セックスが関連的事象になり、従って、知覚対象のカテゴリーになったのだと考える。(……)ジェンダーが解剖学的セックスを作り出したのである。社会慣行が、しかも社会慣行のみが、一つの自然的事象(あらゆる自然的事象と同じく、それ自体には意味がない)を思考カテゴリーに変化させるのだ」
 デルフィの文章の中の「ジェンダー」を「反ユダヤ主義」に、「セックス」をユダヤ人に置き換えると、社会制度と自然的事象(と信じられているもの)の倒錯についての構築主義的主張はそのままサルトルユダヤ人論として読むことが出来ることがわかる。
「女性」とは「女性」と呼ばれる人間のことであって、それ以外の何ものでもない。そして、「女性」というカテゴリーを構築したのは、それによって社会的リソースを独占しようとする「男性」たちなのである……という命題は、だいぶ前から「政治的に正しい命題」の常套句に登録された。今では、大学のジェンダー論の授業で教科書的に教えられてもいる。
 だが、私はこのような構築主義的言明を目にする度に、小さな疑問が頭上に浮かぶのを禁じ得ない。わからないことが一つある。それは、父権性的な社会慣行が「男性/女性」というジェンダーを作り出したというのが本当だとしても、「性化された社会の起源において父権性的な社会慣行を作り出したのは性的に誰なのか?」という問いに実は誰も答えていないからである。
 男性に社会的リソースを集中させるための抑圧的構築物である父権性社会が成立するためには、それに先だって性差がすでに優位なものとして意識されていなければならない。男女の性差がすでに存在している社会でしか、一方の性集団に選択的に利益をもたらすような社会システムは構想され得ないからである。だが、デルフィによれば、性差は父権性社会が生み出した幻想に他ならない。
 ここで私は当惑してしまう。性差は社会の性化の原因なのか、それとも結果なのか?残念ながら、この問いに私にもわかるような仕方で答えてくれた人はまだ一人もいない。」


長い引用になったが、考えたいのは最後の結論の部分だ。この鶏と卵のような関係にある、「原因」と「結果」については、どちらが先なのかということが決定出来ない。このパラドックス性がどんな影響を与えているかを考えたい。

現実の世界で、ジェンダーと呼ばれる性差が、父権性社会のイデオロギーによって生まれるという、現実の「原因」と「結果」に関する考察は多分正しい。これは、目の前に見ることの出来る現象であり、何よりも有限の範囲で考察出来ることだからだ。

しかし、究極的な「原因」と「結果」というものを考え始めると、パラドックスの原因となる「無限」というものが頭をもたげてくる。現実の性差を考察するには、いくつかの有限の原因に遡ればいいが、究極的な「起源」を求めたければ、次々と永久的な原因に遡って、それが常に同じ原因の繰り返しになるという、可能無限の段階にして考察しなければならない。

父権性社会のイデオロギーが、どこまで遡っても見出せる究極の原因になるだろうか。これは歴史的に考えた場合に、そう言えなくなるのではないか。もし、父権性社会のイデオロギーが、どこまで歴史を遡っても見出せるものなら、人間は人間として発生した瞬間から父権性社会のイデオロギーを持っていたのでなくてはならない。しかし、それは不可能ではないだろうか。

父権性社会のイデオロギーを作り出す「男」という者がいなければならないのだが、その「男」の性はどのようにしてつくられたのだろうか。その「男」は父権性社会のイデオロギーによって作られるものではないのだろうか。ここで「原因」と「結果」は循環論に陥って結論が出せなくなる。

「起源」の考察に関するこのパラドックスは、どのようなものを考察する際にも見出すことが出来る。内田さんは次のようにまとめている。

「私たちがその中に産み落とされた社会制度は、貨幣も言語も親族も労働も、どうして「そういうもの」がそう言う仕方で存在するのか、その起源を私たちは知らない。例えば、貨幣というのは私たちの経済活動の根幹にある装置であるが、貨幣の要件は「すでに貨幣として流通している」と言うこと以外にない。分割可能で均質的で耐久性があれば、貴金属でも紙切れでも電磁パルスでも、どんなものでも貨幣になりうる。「貨幣が貨幣であるのは、それが貨幣であるからなのである」。」


ある種の現実存在に関しては、それが存在するのは、まさに今存在しているからだという、同語反復でしか語れない。起源の合理性を求めることが出来ない。そうすると合理的な理解をあきらめなければならないのだろうか。現状を受け入れて仕方ないものとする、保守的な姿勢しか取り得ないのだろうか。

その解答のヒントを内田さんは提出している。それがどうして生まれたのかの「起源」は我々にはわからない。しかし、生まれたことによる効果は想像出来る。その効果が、ある意味では社会に進歩をもたらすようなものだったかも知れない。不合理な差別が進歩をもたらすというのは、暴言のような主張だが、現実に存在しているという合理性を理解するためには、一度そのようなことを考えてみる価値もあるのではないかと思う。内田さんの本をヒントに考えてみようと思う。