内田樹的言説と宮台真司的言説


内田樹さんは『ためらいの倫理学』の中で「私は宮台真司という人の書いたものを読んで共感したことが一度もない。どうしてなのか知らないけれど、どこかで必ず違和感のあるフレーズに出くわすのである」と書いている。僕は、内田さんにも宮台氏にも共感し、リスペクト(尊敬)する感情を抱いているだけに、その感覚の違いに興味を覚える。

僕は内田さんには「さん」をつけて、宮台氏には「氏」をつけて記述している。これは年齢的なものから来る感覚がある。内田さんは僕より少し年上なので、何となく敬意を込めて「さん」をつけたくなる。宮台氏は僕より3つほど年下と言うこともあり、こちらも敬意を込めて「氏」と呼んでいるような所がある。

同じように年下の仲正さんは、「さん」と言ったり「氏」と言ったり統一はしていない。「さん」をつけるのは親しみを感じたときで、「氏」をつけるのは、その言説に敬意を込めたいときに「氏」を使うような感じがする。

内田さんと宮台氏に対する、その対応の違いは、内田さんに対しては、その言説だけでなく人間性も含めて敬意を感じているからではないかと思う。宮台氏に関しては、その人間性に対する理解がわからないと言うのを感じる。しかし、その言説の論理的正しさには確信を抱いているだけに、それが共感とリスペクトを感じる原因ではないかと思う。

宮台氏の人間性がわからないのは、宮台氏ほどの頭の良さを持っていると、全ての行動が計算され尽くしているように見えてしまい、何がネタで何がベタか、つまり人間性を正直に表している部分がどこにあるかがわからなくなる。そこのところが、親しみというのを率直に感じることが難しい原因ではないかと思われる。

江川達也さんと宮台氏の議論で、「数学系」と「文学系」という人間のタイプが語られたが、宮台氏は典型的な「数学系」の人ではないかと思う。僕はその「数学系」の部分に共感し惹かれるのだろうと思う。宮台氏が語ることを、よけいな感情で受け止める必要はない。それはあくまでも論理的に理解すればいいのだと言うことを感じる。

それに対し内田さんは「文学系」の人ではないかと感じる。それは、内田さんが非論理的だと言うことではない。論理の明晰さについて言えば、内田さんの論理は宮台氏と遜色ないくらい鋭いものだと思う。ただ、宮台氏の論理が形式論理的に白黒をはっきりさせる展開をしているのに対し、内田さんの論理は、弁証法的に現実の対立を捨て去らないで保ち続けているような展開をしているように感じる。

宮台氏の論理は、結論が出せるものに関してはあくまでも断定的に語る。それは形式論理である限りでは当然のことだ。そして今結論が出せないものは、何らかの情報が得られれば形式論理的に断言出来る可能性があるのか、原理的に形式論理では扱えないものであるのか、それもかなり明確に断言するのが宮台氏の論理の特徴だろう。

内田さんは、現実というものは白黒がはっきり言えないものが出発点になって論理を展開しなければいけないという発想をしているように感じる。鶏と卵の関係にあるものはたくさんある。そういうものは、まずは現在の存在が存在しているという事実を受け入れると言うことから論理を出発させる。現在はこうであるけれど、その起源はいくら考えてもわからないことが存在する。

起源が明確に出来ないと言うことは、宮台氏の論理の中にも見られる。しかし、宮台氏は形式論理的にそれを捨象しているようにも感じる。内田さんは、その起源を、正確にはわからないもののいつまでも意識の底に引きずって忘れないと言う感情的な引っかかりを持って思考するという感じがする。内田さんの思考の方がかなり女々しい感じがする。この女々しさが、僕には、宮台氏よりも内田さんの方を親しく感じさせるものになる。

宮台氏の切れの鋭い抽象と捨象は、潔くかっこいいものだと思う。これぞ論理の展開の醍醐味だと感じるところもある。ある意味では「男らしい」。だが感性的には、女々しいと感じる内田さんの方にも強く惹かれる。この矛盾は、現実というのはそういうものなんだろうと思う。

このような印象が正しいのではないかと思うような記述が『ためらいの倫理学』の中にはある。次のような文章だ。

「宮台は「分かっている人」なのである。
 それが彼に共感出来なかった理由だったのである。
 宮台は「私には全部分かっている」という実に頼もしい断定をしてくれる。「事態がこうなることは私には前から分かっていたのです。今ごろ騒いでいるのは頭の悪いやつだけですよ」。冷戦の終結も、バブルの崩壊も、性道徳の変化も、家庭の機能不全も、教育システムの荒廃も……宮台にとっては全て読み込み済みの出来事なのである。それを見て、秩序の崩壊だアノミーだ末世だとあわて騒ぐのは時計の針を逆に回そうとしている愚物だけなのである。
 実に明快だ。
 宮台は「知っている」と言うことで自らの知的威信を基礎づけている。「知っている」と言うことが知的人間の基本的な語り口であると多分思っている。
 ところが、私はそういうふうに考えることが出来ない。
「私には分からない」というのが、知性の基本的な構えであると私は思っているからである。「私には分からない」「だから分かりたい」「だから調べる、考える」「なんだか分かったような気分になった」「でも、なんだかますます分からなくなってきたような気もする……」と螺旋状態にグルグル回って、いるばかりで、どうにもあまりパットしないというのが知性の一番誠実な様態ではないかと私は思っているのである。」


この内田さんの文章に僕は大変共感する。また僕が「女々しさ」という言葉で語りたかった部分が、「私には分からない」という意識を持つ部分でもあることが、内田さん自身の言葉で語ってもらっているように感じる。僕も、内田さんと同じように、自分の知性の出発点を「私は分からない」ということから始めているように感じている。分からないからこそ、それを分かるようにするために論理を学んできたのだという感じだ。内田さんに深く共感する部分は、この感覚にあるのだと思う。

だが、そう感じているからと言って、僕には宮台氏を否定する気持ちは生まれてこない。内田さんも、違和感は抱いているだろうが、否定はしていないのではないかと思う。僕は、違和感さえも、宮台氏に関しては生まれてこない。僕が宮台氏に共感するのは、やはり「数学系」であることが大きいと思う。

板倉さんは科学というものを、限定された範囲での絶対的真理と規定した。ある条件下では、科学の命題というのは、任意の対象に対して成り立つとしたのである。だから、科学的認識を持っている人間にとっては、ある現象が成立するのを断定的に語ることが出来る。

ニュートン力学が成立する範囲の対象に対しては、位置情報と質量・速度などの基本情報を知ることが出来れば、その運動に関する言明は全て断定的に語ることが出来る。科学においては、「〜かもしれない」という言明はあり得ないのだ。知られうることは、全て真理であることが確定している。

宮台氏が、社会の現象について語るときも、それが科学を基礎にしているものであれば、断定的に語ることが当然であって、断定出来ないと言うことは、それがまだ科学ではないということを意味するだけのことなのである。

ただ、科学というのはその限定された条件を理解することは難しい。宮台氏が断定的に語ったことは、どのように限定された対象の間で語れることなのかを理解することは難しいだろうと思う。それが理解出来ないときは、誰でも違和感を感じるだろう。

宮台氏が語ることは、もしかしたら科学としてはまだ確立していない間違いがあるという可能性もある。だが、それは科学として理解した後に、宮台氏よりももっと高い能力で判断する必要があるので、それは極めて難しいだろうと思う。結局は、僕は、宮台氏は天才だと思っているので、僕に理解出来ないことでもおそらくは正しいことを語っているだろうという受け取り方をしているので、宮台氏には共感とリスペクト感を覚えるのだと思う。

それではなぜ宮台氏を天才だと感じるかという理由の問題があるが、これは一言では説明しにくい。これまで宮台氏が語ることを聞いたり読んだりした限りで、それが当たっていると言うことを経験してきた事実性から来るものだろうと思う。今まで僕が知っている宮台氏の言説で、はずれていると思うものがないというのは驚異的だと思う。当たっているか、よく理解出来ないくらい難しいかどちらかだ。

内田さんは、自らも天才的な才能の持ち主ではないと語っている。その文章は、ほとんどが他人の語ったことを受け売りしているだけだとどこかで書いていた。それでも、それを分かりやすく記述する才能はすごいものだと思うが、僕も、内田さんには近づきがたい天才性は感じない。むしろ、分からないことを分かるようにするための努力をし続けているという誠実さに親しみを感じる。

内田さんが語ることは、天才ではない普通の人間にとっても、同じように考え・同じように感じていたけれど、うまく表現出来なかったことを、実にぴったりとそれにふさわしい表現をしてくれていると感じる。そこに僕は大きな共感を覚える。

僕は宮台氏に対しては、その天才性にリスペクトを感じ、論理的正しさに共感する。内田さんに対しては、同士的な、仲間のような親しさのある尊敬感と共感を感じる。全く個性が違う二人で、しかもその二人は、必ずしもそれぞれで共感はしていないように見えるけれども、僕はその二人に同時に共感出来ると言うことの理由があるというのを自分自身に納得させられる。この多様性は、僕の中で共存しうる多様性であるのを感じる。