竹中大臣の議員辞職の直感的理解と論理的理解


河野太郎衆議院議員「ふざけるんじゃねえ」という文章が賛否両論を呼んでいるらしい。この文章は、竹中大臣議員辞職を批判したものだが、これを材料にして、そのことの正否に対する直感的理解と論理的理解について考えてみたいと思う。

竹中大臣の辞職が間違っていると直感的に理解すると言うことはどういうことになるだろうか。それは、まず感覚的にそうだと感じると言うことだ。その理由は後から考えられるかも知れないが、最初の印象としては、これは間違えていると感じることが直感的な理解になるだろう。

ではなぜ、理由を考える前にそう感じてしまうのだろうか。理由を充分に考えた後に結論を出すのなら、それは論理的理解と言うことになるだろう。理由をよく考えずにそうだと思ってしまうのは、単なる思い込みと言うことになるのだろうか。直感が間違えていた場合は、それは単なる思い込みであると言える場合が多い。だが、直感的に理解したことが結果的に正しかったと言うこともある。この場合は、たまたま運良く正しいことと重なっただけだと解釈する方がいいのだろうか。

人間は、直感的な理解をする際にも、全く理由なく思い込みでそのことを正しいと判断することは出来ないのではないかと思う。何らかの理由はどこかにあるのだが、直感的理解においては、その理由をすぐには説明出来ないという解釈が正しいのではないかと思う。

直感の正しさはセンスというものに関わっているように感じる。僕は、数学の計算においてどこかで間違いをしたときに、直感的にこの計算はおかしいと感じることがよくあった。数学の計算というのは、どこかで見間違えたり見落としたりと言うことがよくあるもので、たくさん計算をすると少しは間違えるというのが人間的なものだ。しかし、自分の間違いというのはなかなか自分で発見するのは難しい。それが僕には直感的に「おかしい」と感じることがしばしばあって、しかもその時はたいていどこかで間違えていたことを発見した。

このときの直感の理由は、なぜそう感じるのかは分からないが、とにかく何かを感じるという直感だけは生まれてくる。これはおそらく経験がセンスを磨くのだろうと思う。紙を扱う商売をしている人は、その手触りだけで紙の厚さが直感的に分かるという話を聞いたこともある。なぜ分かるのかは説明が出来ないが、直感として分かることだけは確かだ。

直感というのは、その理由は分からないがとにかくそういうふうに分かる・判断出来るという時に見られるもののように感じる。河野さんの文章を読んで、理由は分からないけれど、この竹中大臣批判が正しいと直感した人は、何らかの自分の経験が、そういう直感を生み出すようなセンスをもたらしていると考えられるだろう。この直感を論理的に分析して論理的理解にしてみたいと思う。まずは直感の論理構造だが、それは次のようなものだと思われる。

竹中大臣議員辞職をした> → <それは間違った行為である>

この前提から導かれる結論は、論理的にはすぐに明らかになるもののようには思えない。しかし、これを直感的に正しいと感じる人は、この前提と結論を直結したものを正しいと受け止めるのではないだろうか。

これは「風が吹けば桶屋が儲かる」というものと同じような論理構造を持っているように感じる。「風が吹く」という前提と「桶屋が儲かる」という結論は、論理的にはすぐには結びつかない。これを論理的に結びつけようと思えば、もっと細かい論理の鎖を見つけなければならない。それは、

<風が吹く> → <埃が立つ>
       → <埃が目に入り目が悪い人が増える>
       → <目が悪い人が三味線を弾くようになる>
       → <三味線の皮に猫を使うので猫が減る>
       → <猫が減るのでネズミが増える>
       → <ネズミが増えて桶をかじる>
       → <桶が壊れるので桶がたくさん売れる>
       → <桶が売れるので桶屋が儲かる>

というようなものだ。この論理の鎖においては、すぐ前の条件から導かれる結論については、一応もっともだと思えるような理由をつけてある。直感のように、論理的な結びつきが薄いというようなことはない。もっとも「風が吹けば桶屋が儲かる」という直感は、直感としては間違えているので、この論理の鎖にはかなり論理的な無理がある。その前提からは必ずしも100%確実に導ける結論になっていない。

直感的理解と論理的理解の違いは、論理の鎖の細かさにあるように見える。直感的理解は、論理の鎖に飛躍があるので、直感出来ない人にとっては理解が難しいものになる。それをもっと細かくほぐしてやれば、直感するセンスを持たない人にも何とか理解可能な論理になってくる。

竹中大臣議員辞職をした> → <それは間違った行為である>

ということを直感出来ないときは、それをもっと細かく論理的なつながりを構築し直せばいいと言うことになる。そして、その時に論理の鎖に無理があるようなら、「風が吹けば桶屋が儲かる」という直感と同じように、その直感は間違いだということも言えるだろう。論理の鎖は、形式論理の鎖であるから、その前提からは結論が100%確実に導かれなければならない。そうでないときは、結論の蓋然性がどの程度かという判断しか出来ない。論理の鎖に無理がある場合は、竹中大臣の行為は、間違っていると言えるかも知れないし、間違っているとは言えないかも知れない。どちらが妥当かは、確率的な問題になる。そうなれば、この意見に反対の人がいても仕方がない。

さて、この論理を埋める鎖として河野さんが提出している命題にはどのようなものがあるだろうか。それを拾い出して、その論理の結びつきの妥当性を考えてみたい。河野さんは、参議院選挙での竹中大臣の応援を、自民党がいかに頑張ってやったかをまず語っているが、これは論理的にはさほど重要ではない。感情的には、これだけ頑張って応援した人間を裏切るのかという気持ちが働いても仕方がないが、それは応援した人間だけに通用する感情的な側面であって、一般化した論理としてはつながりを見つけることは出来ない。

感情的な直感としては、非難したい気持ちは分かるが、論理としては取り上げるほどの重要性はない。しかし、

竹中平蔵参議院議員のバッジは小泉総理がつけたものではない。有権者からいただいたものだ。」


という命題は論理的検討に値するものだ。参議院議員としての公的存在は、それを辞するときも公的な理由があるべきだという論理がここにはある。参議院議員という立場が公的なものであるということに反対する人は多分いないだろう。それは自分の私的都合でやめたり出来るものではないということは誰もが賛成することではないかと思う。

竹中大臣が議員を辞職する理由としてあげているのは、小泉内閣が終わるので自分の役割も終わるからと言うものだった。これは、果たして公的な理由になるかどうかが、竹中大臣議員辞職という行為が批判に値するかどうかを決めるのではないか。これは、果たして公的な理由だと言えるか、それとも私的な理由だと判断出来るかと言うことだ。河野さんは、これを私的なものだと理解しているように感じる。

「六年の任期であることをわかっていて立候補したわけだから、その任期を勤め上げるのは義務だ。
総理が任命する行政府の大臣と国民が選ぶ立法府の議員を混同してはいけない。
小泉総理にも、議員を辞めます、はいどうぞ、などという権利はない。」


と語っているからだ。大臣というのは総理が任命するというものであれば、もし大臣を辞職したいときは、任命した総理の承認があれば大臣を辞することが出来ると考えてもいいだろう。その時も、その理由が公的なものか私的なものかと言うことが微妙に関わっては来るだろうが、判断をするのは総理であって、国民に信を問うたり・責任をとったりする必要は論理的にはない。その任命と辞職に責任を負うのは、任命した総理であり、その判断が間違えていたときに批判されるのは総理と言うことになる。

しかし、国会議員というのは、選挙民から選ばれたのであり、辞職をするならその選挙民が納得するような公的な理由が必要なのではないかと思う。小泉総理が総理を辞めると言うことは、議員辞職をするだけの理由として選挙民は認めるのだろうか。大臣を辞めることと議員を辞めることの間には、論理的な必然性はないと思われる。だから、論理的にこれを理解することは出来ない。そうすると、理由としては変だという直感は生まれてくる。

だが、選挙民がそれを承認して受け入れた場合は、選挙民から選ばれたという民主的な意味を、辞職も民意が支持すれば民主的には問題ないと判断してもいいだろうか。これは、民主的な結論としては仕方がないという感じはする。だがどうも論理的にすっきりしない。民意の方が論理的な間違いを犯しているような気がしてならない。

小泉内閣が終わるとともに大臣を辞することが、国会議員を辞することの理由になるということに公的な面を発見出来ないことが、どうも論理的にすっきりしないものを感じる理由だろうと思う。公的な理由としては、例えば次のようなものがあるのではないかと思う。一つは健康上の理由があって、その任務を遂行するだけの条件が失われたときだ。これは、健康というものが私的なものであっても、任務の遂行能力が失われるという点に公的側面があるように思う。

また多くの辞職議員に見られるように、公的な立場におけるミスを犯したときは、その時も任務の遂行能力に関わって辞職する相当の理由になる場合がある。大臣を辞めるからという理由は、どのように考えても議員辞職とつながる論理の鎖が見つからない。つまり、

竹中大臣議員辞職をした> → <それは正しい行為である>

という直感的理解を、論理的に正当化することが出来ないので、その反対の「間違っている行為である」という判断の方が正しいのではないかという直感が生まれてくる。これはまだ今の段階では消極的な論理的理解で、「正しいのではないか」という理解だ。積極的に「正しい」という断言はまだ出来ていない。

河野さんのブログでは、河野さんに反対する直感の方が正しいという意見もたくさん書かれているようだ。この直感が論理的な正当性を持っているかを考えることで、この判断をさらに深く考えてみたいと思う。どちらの直感的理解の方が論理的な妥当性を持っているのか、もっとよく考えてみたい。