脱ダムの現場で考える


msk222さんと一緒に、ワインオフ会の二日目を利用して脱ダムの現場を見てきた。ワインオフ会そのものの報告は、他の参加者がしてくれると思うので、それには触れずに、この脱ダムの現場について語ろうと思う。

この現場を見たからと言って、素人が分かることは少ない。検証というような大げさなことは出来ない。しかし、現場を歩くことで感じることのいくつかが、今まで気づかなかったことに気づかせてくれることもある。だから、検証と言うほどのことは出来なかったが、そこを歩いたと言うことは意義深いものだったと思う。

この現場で浮かんできた発想は、脱ダムの考えというのは、極めて論理的な問題で遠い未来を見るものだと言うことだった。直接自分たちにその選択の結果がはね返ってくるものではなく、後の世代の子どもたちにその選択の結果が影響となってかぶさってくると言うことだ。

永井俊哉さんの「脱ダム宣言は間違いだったのか」という文章によれば、ダムは環境を守るという観点からはコストのかかるものであり、恩恵よりも負担の多いものになる。利益よりも不利益が大きいと言うことを論理的に判断出来る。msk222さんによれば長野の大多数の人も、そのような一般論はほとんどが理解しているという。

しかし、この遠い未来の話と、近未来のダム工事が来ることによる経済効果を秤にかけて考えると、近未来の利益の大きさに選択の迷いが出てくるという。経済的な利益という判断は、確証が出来ない環境問題と一緒に判断の秤に載せるのは難しいと言うことをこの現場を歩いて感じたものだ。

経済的利益には確信がある。ダム建設がスタートすれば、それによる利益の大きさは計り知れない。ダムが出来るだけではなく、その資材の調達や、建設に必要な道路の整備など、直接ダムに関わる工事だけでなく、その他の工事もたくさん発注されることだろう。さらに、補助金によって他の施設の建設も出来るようになるという。公的な温泉の施設や、老人医療のための施設などが補助金で作られたという。その隣を通過して脱ダムの現場に向かった。

環境破壊の問題は、一般論としては理解出来るものの、具体的にどこがどう破壊されてどの程度の影響が出るかは、実際に未来になってみないと分からない点がたくさんある。そのことを切実に受け止めるにはやや弱いと言うことがある。脱ダムの方が抽象的には正しいと分かっていても、その抽象的真理だけでは人々は動かないと言う現実がここにはあるかも知れない。

抽象的真理は外部にいる人間には分かりやすい。しかし当事者にとっては、抽象的真理よりも毎日の生活の方が大事だという感覚的・感情的な部分があるだろう。環境を守り、子どもたちの未来にツケを残さないという意識が、ダム建設が来ることによる利益を放棄してもなお大事だという意識を持つのはかなり大変だろうと思う。ダム建設を放棄する利益に対して、他の利益を代替するというものがなければ人々はその利益を放棄することに同意しないかも知れない。

だがmsk222さんの話を聞くと、その代替案としての利益をもたらすだろうビジネス計画は、ことごとく議会の反対によって否決されてしまったという。代替案が一つもなければ、ダム建設による利益を選択せざるを得ない状況にもなる。脱ダムの方向を選択すると言うことは、そこに抽象的な利益があるというだけでは、現実の社会は動かない。現実の社会は、その内部の要素が複雑に絡み合っているシステムとなっている。そのシステムが、行為の選択肢としての「脱ダム」を選ぶというのは、システムの変更というものが必要になってくる。

田中さんが知事選で敗れたというのは、ある意味ではシステムの変更と言うことが挫折したことでもあるのかと思った。あまりにも急激な変更を迫ったので、それについていけない人が拒否反応を起こしたのではないかという、現地の長野の人の見方もあるようだ。しかし、急激な変更という革命的な出来事がなければ、いつまでも脱ダムの方向への舵切りは出来なかったかも知れない。その評価も難しいものがあるだろう。

田中さんは選挙に敗れたとはいえ、得票率ではほぼ二分された結果が現れたと言ってもいいのではないかと思う。その意味では、システムの変更に賛成した人が半分くらいはいたと言うことになるのだろう。代替案が軌道に乗っていたら、システムの変更に賛成した人ももっと多かったかも知れない。

msk222さんから聞いた話で興味深かったのは、かつてゴルフ場建設でmsk222さんが反対運動をした人が、今ではmsk222さんたちの代替案が成功して経済的に成功していると言うことだった。かつてゴルフ場建設を計画していたときは、おそらく日本が景気がいい頃で、ゴルフ場の経営が経済的に見合うという計算があったのだろうと思う。しかし、今の状況を見ると、今ゴルフ場経営をしていたらかなり苦しい経営になっていたのではないかと思う。

それがゴルフ場経営ではない環境を守る事業で、地元の人々にも良いイメージの会社になり、今の状況としてはむしろ経営が安定した優良企業になっているという。ゴルフ場経営をしていれば、その当時は利益を生み出しただろうが、長い目で見たら利益は少なかったかも知れない。このような事実は、脱ダムの方向を考える上で教訓的なものではないかと思った。

脱ダムの方向を選択するというのは、難しい選択ではあるだろうけれど、その選択という「行為」に伴う「責任」を考えると、未来の子どもたちへの「責任」をもっと考えなければならないだろうと思った。この前の考察で、「責任」の主体は、「行為」の主体にある、つまり自由意志による選択行為をした主体こそが「責任」の主体だという考察をした。

長野県の未来の子どもたちに、ダム建設による不利益がもたらされるようなら、それは今ダム建設を選択した大人たちが責任を感じなければならないだろう。大人たちはその時にはもう死んでいるかも知れない。そうであれば、今この時点でその責任を重く受け止めてもっとよく考えてみる必要があるだろう。

利益享受の当事者が、この考察を客観的に行うのはとても難しいだろう。利益から全く関係のない第三者なら、この判断をするのは容易だが、当事者はどうしても感情的・主観的な見方が生まれてくる。これをどう振り払って客観的な判断をするかということを、我々は考えなければならないと思う。そうでなければ、人間が賢くなると言うことに期待を抱くことが出来なくなるだろう。

当事者が客観的判断を持つと言うことの難しさは、ダムの論議とともに雑談で話が出てきた教育の問題について感じたことだった。教員という職業に就いていて、子を持つ親という当事者でもある立場である僕は、なかなか客観的な判断が難しいと思った。

msk222さんと寄らせてもらった場所では、今の子どもたちがなかなか主体的に動くことが出来ないという話題が出た。これは、しつけの問題であり教育の問題だと言うことでは誰もが同意していたが、どこに原因があって、誰に責任があるかということではなかなか判断が難しかった。

家庭や学校の問題だと言ってしまうには、どうも家庭や学校に重い責任をかぶせているように僕は感じてしまう。もちろん、他にも責任があるのであって、どこの責任が一番重いかという議論になったのだが、それを家庭や学校にするのは酷だというのが僕の感想だった。これは、当事者感覚から来る主観的な受け止め方であって、客観性が薄いかどうかということは考えなければならないことだろうと思う。

僕の感覚としては、特にここが悪いと具体的に指摘出来るような家庭や学校があれば、しつけや教育が低下したのは家庭や学校に原因があるとしても納得出来る。しかし、一般的に子どもたちがどうもしつけや教育がされていないようだと言うことが社会に蔓延しているなら、それを個々の家庭や学校の責任とするのは、社会というものを軽く見すぎてはいないだろうかという疑問がわいてくる。

個人の努力で解決することが出来なくなった問題が発生したなら、それは社会がもっとも重い責任を負うべきなのではないかと僕は感じる。社会が責任を負うというのは、社会のシステムが何らかの選択を迫るようなものとして機能している部分を、変更していくことによって社会の変革をさせると言うことではないかと思う。

全ての子どもたちがどうもおかしくなっているのなら、それは個人の意志を越えた社会の選択肢がどこか間違っているに違いない。それを変更しない限り、個人の努力は、部分的には成果を上げるかも知れないが、根本的な解決はもたらしてくれないだろう。

社会の選択肢は、大多数の大人の選択肢でもある。これを変更するためにどのような努力が出来るか。それは、大多数の大人たちが、今のままではどうも駄目らしい、何とか他の可能性を考えなければならないと気づくことが必要ではないだろうか。それは、早急には同意が得られないだろう。システムの変更をもたらすような革命的な考えがすぐに賛同を得られるはずはないと思うからだ。だが、国民的な議論が巻き起こることが、その変更の方向へ向かう一つのきっかけにはなるだろう。

家庭や学校の責任が重すぎるのではないかと考えるのは、当事者としての主観的な見方なのか、それとも客観的に見て本当に、家庭や学校の責任は今の時代ではそれほど大きくはないと言えるものなのか。立場を離れた第三者で、当事者にとっても納得がいくような論理を展開してくれる人がいれば、それは客観性のある論理展開だと言えるだろう。優れた学者は、そのような立場にいる人間だと思う。学者は、問題の考察においては当事者であってはならないのではないかと僕は感じる。

永井さんが語る脱ダムの論理は、客観的な真理として非常に説得力があるものだと思う。おそらくその範囲では、長野で当事者として存在している人も、その客観性を理解してくれるのではないかと思う。問題は、主観的な問題に関する感情の問題だ。それを解決するのが政治なのかも知れない。優れた政治家は、学問的に正しい抽象論を、多くの人々が心から納得出来るように、感情面の配慮をすることが出来る人間ではないかと思う。

そういう意味では、田中さんはその感情面の解決に失敗したと指摘されるかも知れない。だがこれは評価が難しいだろう。放っておけば大部分の人が感情に流されたかも知れない当事者たちに対して、少なくとも半分近くの人は客観的な判断の方向を選んだとも言えるからだ。これは政治家としてとてもすごいことだと評価出来るかも知れない。

ここで、だがしかしともう一度考えてみると、ダムによって利益を享受する当事者というのは、長野県民の全てだとは言えないかも知れないと言うことがある。つまり、脱ダムの方向を選んだ人々は、ダム建設に関しては当事者ではなく第三者だということが言えるかも知れない。そうであれば、当事者でない人が客観的な判断をすることはある意味では当然と言えることになってしまうかも知れない。

当事者でない第三者の客観的判断というのは、判断によって不利益を被ることのない富裕層だという考えもあるから、強者の論理だという指摘も出来るかも知れない。斯様に、当事者であると言うことには難しい問題が伴う。脱ダムの一番の解決は、今当事者である人たちを、当事者でなくしてしまうことなのかも知れない。この問題の困難さを再確認したのが、現場で感じたことだった。