内田さんのフェミニズム批判の意味を考える 2


瀬戸さんの「母親と保育所とおむつ」で主張されている内容に立ち入る前に、もう少し長い前置きを書いておきたいと思う。これは、内田さんが直接論じていることではないのだが、僕が内田さんの言説を肯定的に受け取る素地として考えておいた方がいいと思うことだ。それは、僕が持っている「フェミニズム」というものに対するマイナスイメージというものだ。

僕は三浦つとむさんの「官許マルクス主義」批判によって「マルクス主義」に対するマイナスイメージを持っている。マルクス主義には様々のバリエーションがあるので、これを十把一絡げにするのは論理的な厳密さという点で問題だとは思うのだが、崩壊した社会主義国家のイデオロギーとして知られていたものが、一般的な意味では「マルクス主義」と考えられていると思うので、三浦さんが言う「官許マルクス主義」を「マルクス主義」と捉えて考えていこうと思う。

この「マルクス主義」の間違いはいくつかあるのだが、もっとも顕著に見えるのが「教条主義」と呼ばれる間違いだろう。マルクスの言説というのは、その意味を文脈に沿って受け取らなければ正しく受け取ることが出来ない。マルクスの言説が正しい命題となるのは、それを主張する条件とともに考えなければならない。

条件が違えば主張が間違いになる場合もあるものとして、同じ命題が違う意味になるということを厳密に考える必要がある。もちろん、マルクスはその言明が正しくなる場合の条件を文脈的に語っていると思う。当時の最高の頭脳の持ち主と見られていたマルクスは、当時の出来事に対しては正しく捉えていただろうと思う。

だが、時代を経てマルクスの言説を応用する人間は、マルクスの時代との条件の違いを吟味して、マルクスの言説がそのまま通用する部分と、それに修正を加える部分とを、時代の条件に整合性を持ったものとして考察する必要があるだろう。しかし「教条主義」と呼ばれる間違いは、この修正を許さない。修正をするものは、修正をしただけで「修正主義者」として弾劾される。これは全く科学的な態度ではないだろう。

教条主義」は、ある種の信仰のようなもので、対象に関係なく真理が確定している。現実の対象に対してはその真理を適用する問題が残されているだけなのである。もし現実が理論が示す真理のようにならなかったら、それは理論の間違いではなく(理論は絶対的な真理なのだから)、現実に誰かが邪魔をしているから理論どおりにならないだけのことになる。この「教条主義」からは恐ろしい粛清の論理が導かれていくことだろう。

確定している絶対的真理は、その条件を考慮しない。つまり「全て」の対象に対してその真理が成り立つという観点を持っている。「教条主義」に毒された「マルクス主義者」は、その真理をいついかなる場合にも機械的に当てはめて現実を捉えていくようになるだろう。

教条主義」の間違いを悟った賢明な人々がむしろ、旧社会主義国では国家の反逆者として弾圧された。「教条主義」の恐ろしいところは、正しい人々が、その「教条主義」国家の中では間違った人にされてしまうことだ。「無理が通れば通りが引っ込む」という諺の正しさを実証してしまったことになる。

マルクス主義」の「教条主義」の間違いの中でも弊害の大きかったものは、「存在は意識を決定する」という命題ではないかと思う。どのような環境に生まれるかは、生まれる当人に選べるものではない。当人には責任のないものだ。しかし、その責任のないものによって「意識」という人間の性格を決めるものが決定されてしまうと、どのように行動しようともその人間がどのような人間であるかが生まれで決定されてしまう。これは恐ろしいことだ。

これが「教条主義」であることは、「マルクス主義」の創始者であるマルクスのことを考えればすぐに分かるのではないかと思う。マルクス自身はプロレタリアートの出身ではなく、ブルジョア階級の出身だろうと思う。そうでなければ、当時の状況の下で学問など出来るものではない。だから、「存在が意識を決定する」という命題は、そのようなときもあるし、そうでないときもあると理解しなければならない。結局は、この命題が正しくなるのはどのような条件の時かと言うことを深く考えなければならないのだと言うことになる。当たり前の平凡な結論だが、それが大事なのだと思う。

この「教条主義」はマルクス主義にも多くの害をもたらしたが、他の場面でも「教条主義」は恐ろしい結果をもたらすもののように感じる。僕が拒否感を覚えるものに「差別糾弾主義」というものがあるが、ここでも<差別する側>と<差別される側>は、すでに存在として確定しているという「教条主義」があるのを感じる。だから、糾弾する側は安心して糾弾出来るし、糾弾される側は、その存在が<差別する側>であることが証明されれば、他の条件を一切考慮することなく糾弾することが正しいものと結論されてしまう。

実際には、その存在状況よりも、どのように行動しているかと言うことの方に「差別」というものの問題の本質があるのではないかと僕は思う。もし存在状況によって「差別」というものが固定されるものなら、少数者の「差別」は、永久に解決されない「差別」になってしまうだろう。不当な「差別」を解決したいと願う人は、論理の問題としても「差別」を存在に直結することなく、「教条主義」に陥らないように気をつけなければならないのではないかと思う。

さて、この「教条主義」的な間違いだが、「フェミニズム」と呼ばれる「イズム(主義)」の中にもかなりのものが潜んでいるように思われる。僕が「フェミニズム」批判に共感しやすいのは、この間違いを指摘しているような言説を読んだときだ。内田さんの指摘にもそれを感じるし、次のような主張にもそれを感じる。

それは「2006年11月09日 笑っちゃうクレーム」というエントリーで語られているものだ。ここで笑われたクレームというのは、あるマンガ表現につけられたクレームだという。それは

「仕事というのはマンガなんですが、そのマンガの主人公は男性です。脇役にもうひとりの男性と女性がいます。表紙には、主人公の男性が大きく前に立つ位置に描きました。その左右に脇役の男性と女性。後ろに位置しているわけですから、主人公に比べて小さく描いています。」


と説明されている。このマンガ表現の意図は、論理的に整合性を理解することが出来る。主役だから大きく描いてあると言うことは合理的だ。さらに、その主役は前に立っているのだから、遠近法としても合理性を持っている。主役の男性が大きく描かれていることと、脇役の女性が小さく描かれていることには、合理的な意味を読みとることが出来る。そこには何の悪意も不当な差別もない。

しかしこの絵に「ジェンダーフリーに関するエライ人から、女性が小さく描かれているのは、男女差別につながるというのです」というクレームが付いたそうだ。これは「教条主義」というものの典型的な例になるのではないかと思う。

これは、よく考えれば大きさに差があるのは合理的だと理解出来る。しかし、その合理性を考慮の外に置いて、「小さく表現されたのは、存在価値を小さくしているからである」という「教条主義」に毒されていると、このようなとんちんかんな批判が生まれてしまうのだろう。ここでは文脈的な理解がされていないのである。

このエントリーを読んだとき、このクレームをつけた人物が「ジェンダーフリーに関するエライ人」だったというのを見てさもありなんと思ったのは、僕の持っている「フェミニズム」というものに対するマイナスイメージのせいだ。「イズム(主義)」のエライ人であればあるほど、「イズム(主義)」の害に毒されている可能性が高いだろうというイメージがここにつながっている。

このエントリーに対して、それは「ジェンダーフリーに関するエライ人」個人の問題であって「フェミニズム」の問題ではないという受け取り方もあるだろうと思う。「マルクス主義」の問題の時も、それはマルクスをちゃんと理解していない個人の誤謬の問題であって、「マルクス主義」は正しいのだという主張があったように思う。だが、これはどうだろうか。

どこかに正しい「マルクス主義」というものがあるかもしれないとは思う。しかし、現実には社会主義国家という大きな存在がもっともひどい間違いの「マルクス主義」を体現していた。どこかに知られていない正しい「マルクス主義」があるかも知れないと言う可能性を持ってくることで、社会主義国家が持っていた大きな間違いを相対化出来るものだろうか。

社会主義国家が大きな間違いを犯したと言うことは、その時代に最も優れていると思われる人でも大きな間違いを犯す可能性を「マルクス主義」が持っていたと解釈する方が現実的ではないのだろうか。同じように「ジェンダーフリーに関するエライ人」が「教条主義」的な間違いをしているということは、そのようにエライ人であっても大きな間違いをする可能性を「ジェンダーフリー」(これが「フェミニズム」とイコールになるかどうかは議論の余地があると思うが)というものがはらんでいると解釈する方が現実的なのではないだろうか。

僕は、内田さんの言説の中で、「フェミニズム」が持っているであろうマイナス面の方に注目してその批判を読みとろうとしている。そして、瀬戸さんは別の視点でそれを読みとっているようにも感じる。この視点は、論理的に矛盾するものなのか、矛盾はしないが現実的な対立になっているものなのか。二つの前置きを経て、ようやく瀬戸さんの言説そのものを理解する段階に来たのかなと思う。