被害感情が判断の基準になる危うさ


今週配信されたマル激の議論の中で、いじめ問題を巡って宮台氏の次のような発言があった。それは、いじめに限らずセクハラ問題などでも、被害者がそう感じたと言うだけでそこに「いじめ」や「セクハラ」があったと判断するような議論があるが、これをどう考えるかという問題だった。

このことは僕も以前から考えていたのだが、この「だけ」ということを前提にすれば、それは論理的には間違いだろうと思っていた。それは、感じるという主観のみに判断をゆだねていて、とにかく被害者が感じた「だけ」で、他のことを二の次にして判断していたら、それは恣意的なものであり客観的な正しい判断にはならない。

そもそもいじめという現象は、それが客観的に判断できるものなのかどうか。極端な現れ方をするものについては誰もが一致していじめだと判断できるかも知れない。しかしそれでも、いじめる当人たちはそれをやめないと言うことは、もしかしたらいじめる方はいじめと感じていないのかも知れない。そんなとき、いじめられていると感じていれば、そこにはいじめがあったと判断していいかというのは難しい問題になるだろう。

いじめにしろセクハラにしろ、被害者と加害者だと想定される人間は、互いに異なる感覚・判断をしているのではないかと思う。被害者感情としては、確かにそのような不当な扱いを受けたと言うことを思っているだろう。だが、加害者とされる人々は、そのようなつもりではなかったと、単なる言い訳ではなく、心底そう思っていることもあるのではないか。こんな時に、第三者が客観的にいじめやセクハラを判断することが出来るだろうか。

いじめ問題がニュースになったときに、文部科学省の基準で調べると、そこにはいじめはなかったと判断されるケースが多いというようなことが報道された。自殺するほどの深刻な思いを抱いている子どもがいたというのに、文部科学省が提出する「客観的」基準ではいじめがあったと判断されなかったりする。

これは基準が間違っているのだろうか。基準を正しく設定し直せばいじめは客観的に判断できるのだろうか。僕はそう思えないのだ。いじめというのは実に複雑な構造を持っている現象で、グレーゾーンとなるものがたくさんあるだろうと思う。その全てを正しく判断できる基準などは存在しないのではないかと思う。いじめを客観的に判断することなど、原理的に不可能ではないかと感じるのだ。

文部科学省が提出する基準を探したら、「いじめに関する総点検結果」に次のようなものがあった。

「※いじめの定義
【従前】
 「いじめとは、自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。」
【今回の調査におけるチェックポイント(留意点)】
 「個々の行為がいじめに当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うことに留意する。」


従前の定義ではこの判断において、「自分より弱い」「一方的」「深刻な苦痛」などはとても客観的に判断できるとは思えない。わずかに客観性を持つのは「身体的・心理的な攻撃」があったという判断だろうか。暴力や暴言というのは、外から見ていても分かりやすいからだ。しかし、暴力や暴言というのは、それ自体で不当なことが言えるものであり、わざわざいじめだという必要がない。いじめの重要性は、このような目に見える不当性の告発ではない。隠された不当性によって深刻な結果を招くことだ。

新たな定義の方は、目に見えない不当性の判断に「いじめられた児童生徒の立場に立って行う」と言うことが入っている。これは循環定義になっているのではないかと僕は感じる。もしいじめられている児童生徒というのが、本当にいじめられていることが分かっているのなら、それを基準にしていじめを判断するというのはおかしいのではないか。いじめかどうか分からないからこそ、基準を設けて、その現象がいじめかどうかを判断するのではないか。それなのに、どうして判断の前にその児童生徒がいじめられているという予断の元に、その子どもの立場に立つことで判断をしようとするのか。

これらの基準は、客観的に正しいものだとはとても思えない。僕は、そもそもいじめを裁こうという発想そのものが間違いではないかという気がしている。それは、裁くことが正しいという判断をもたらすことが出来ない、冤罪を招く可能性の強いものになるのではないか。裁くならば、客観的に判断できることを対象に裁くべきだ。暴力や暴言は、いじめであろうと無かろうとそれだけで不当性が証明できる。それは、いじめと関係なく違法行為として裁かれるべきではないかと思う。

いじめは裁く対象ではなく、制度改革でその深刻化を防ぐものではないかと思う。マル激のゲストだった内藤さんの主張が分かりやすく共感できるものだった。戦時中に作られた隣組制度というものがなくなると、それを利用してのいじめが出来なくなり、いじめをしようとする気持ちが起こってもそれを実現する手段を奪うことで深刻化を防ぐことが出来る。

隣組制度があれば、そこでの権力関係や、異分子と思われている人間を指摘することで、恣意的ないじめ感情にいじめの手段を与えると言うことが制度的に行われる。学校においても、いじめをしたくなるような子どもが出てきても、それが出来るような手段を与えないような制度的改革をすれば、いじめの深刻化は防げる。いじめ感情というのは、今までなくなることはなかった。これからも決して無くなることはないのではないかといわれている。問題は、それが深刻化をすることを防ぐことではないのか。それは制度改革に答があるのではないか、と言う内藤さんの主張には共感する。

内藤さんは、嫁姑の関係を持つ「家制度」というものに対しても、その制度が崩れたおかげで嫁に対するいじめも手段を失ったというふうに解釈しているようだ。「家制度」の崩壊を嘆く人もいるようだが、嫁いじめに関する限りでは、この制度改革はいい方向へ向かったのではないかと思う。ドメスティック・バイオレンスについても、「家制度」の崩壊によってその犯罪性がよく分かるようになっているのではないかと思う。

学校における制度改革について言えば、同一の学級に所属することを強制されるという制度の改革が、いじめに関してはかなりの効果を生むように思う。同一の学級に所属して、同級生と仲良く、いい関係を持って生活しなければならないと言うことが、いじめの手段を制度が与えることになるのではないかと思う。いじめられていると感じた子どもが、自由に所属学級を離れて、いじめられないような集団への所属の変更を簡単に行えるなら、いじめの手段が一つ無くなるのではないかと思う。

いじめがあったか無かったかの判断は難しい。だから、いじめを理由に人を裁くのはそれが不当だったりすることが考えられる。被害者がいじめられたと感じていても、加害者とされる人間はいじめだと思っていなかったりするからだ。だが、そのいじめだと言われている行為に、暴力や暴言が伴っているのなら、その暴力や暴言は、それだけで裁かれる理由になる。この場合は、それがあったということが証明されれば、裁かれることは正当性を持つ。

人は、裁かれることに正当性があることのみによって裁かれるべきではないのか。その正当性が、原理的に証明できないことで裁かれるべきではないのではないかと思う。暴力や暴言で裁かれるべきであって、いじめで裁かれるべきではないと思う。そして、いじめは、制度改革という工夫で深刻化を防ぐものではないかと思う。

内藤さんは、個々の具体的ないじめのケースでは、制度の問題に加えて実存の問題がケース・バイ・ケースで関わって来るという。ここでは、被害者感情としての、いじめられているという感覚が重要になってくる。制度によってそれが深刻化するのを防いでいるとはいえ、その感覚を強く感じる子どもにとっては、実存の問題としてそれが重要になってくる。

これは、僕もケース・バイ・ケースの問題だと思うが、それ以上に重要だと思うのは、自分がいじめられていると感じている人間がいたら、それを簡単に告発できる環境というのを設けることも大事だと思う。その告発が間違いである場合もあると言うことを前提にして、告発自体は簡単に出来るという状況が必要だと思う。それを、じっと心に秘めて我慢するという形を強いているのが今の日本の状況ではないかと思う。

このような状況では、よほどひどい状況に追い込まれない限り告発がされないようになる。だから、告発されたいじめはたいていがひどいものになるのだが、それほどひどくなければいじめでは無いというような逆転した感覚も生まれたりする。いじめの中にも、ひどいものもあれば軽いものもあるという感覚を持つことが必要なのではないかと思う。そして、軽いものであっても、相手がいじめだと深刻に受け止めているようであれば、そのいじめに関わった人間が反省するというきっかけを与えることにもなるだろう。

いじめにしろセクハラにしろ、今まではそれが見過ごされてきたものが多かっただろう。だから、告発されたものはたいていがひどいものだったかも知れない。しかし、だからといって、告発さえすればそれがあったとすぐに判断されるようなら、やがてはこれが逆の方向に振れてしまうだろう。

これは、かつての差別糾弾主義が主流になってしまった「差別反対運動」の末路を連想させる。差別される側が差別だと感じればそこには差別がある、と言うのが「差別糾弾主義」の論理であり、被害者の告発によって加害者を断罪するのがこれらの運動の常だった。だが、そのような運動は、不当な差別を解消することに寄与することはなかった。むしろ、「差別反対運動」に対する嫌悪感を招いただけだった。

いじめやセクハラが、被害者感情だけで判断されて裁かれていくようになったら、同じような末路をたどるのではないかという感じがしている。これらは判断が難しい問題であるから、人を裁くのなら、判断が客観的に出来るような対象で裁くように変えていくべきだと思う。そして、制度変革によって深刻化を防ぐべきだろう。セクハラについて言えば、生殺与奪の権限を、単に仕事や立場の関係だけで大きくするようなことを防ぐ制度改革をすべきだろう。仕事上の地位などで不当な扱いを受けたときに、すぐに告発できて改善されるような制度の設計が望まれると思う。

宮台氏は、フランスでのエピソードだっただろうか、大学教授と女子学生の関係でのこんな話を紹介していた。大学での行き過ぎたセクハラの告発は、女子学生が大学教授と恋愛する権利を侵害するから間違いだという議論があると言うことだ。いじめやセクハラには、このような柔軟な視点からの考察が必要なのではないかと思う。