ある目的を持った言葉の定義−−概念(抽象化)は、それによって何を明らかにしようとするかという目的によって決められる


宮台真司氏が「連載第一八回:宗教システムとは何か?(上)」の中で宗教を「前提を欠いた偶発性(=根源的偶発性)を無害なものとして受け入れ可能にする機能(を持つ装置の総体)です」と定義している。これは、一般的に考えられている辞書的な定義とはかなり違うのではないだろうか。

宮台氏は、この定義を社会学という学問を説明する「入門講座」の中で語っている。日常的な出来事を語るエッセイの中で「宗教」を語っているのではない。ということは、この定義は社会学という学問の中で「宗教」を考察するのに有効であるように工夫された定義になっているはずだ。

宮台氏が、どのような意図で「宗教」をこのように定義しているのかを考えてみようかと思う。それが分かるようになれば、学問的な考察における定義の仕方というものが理解できるかも知れない。宮台氏は何故に「宗教」を上のように定義したのか。その理由が分かれば、「ファシズム」という言葉の定義をするときも、どのような理由でどのように定義することがふさわしいかと言うことが分かるようになるかも知れない。

宮台氏は、社会を捉えるときに基本的にそれをシステムとして捉える。システムとは、ある集合体をそう呼ぶのだが、それは個々の要素が部分として孤立して存在しているのではない。互いに関連しあっていて、しかもシステム全体としては一つの存在のような振る舞いを見せる。個々の部分的な要素だけでは実現できない動きが、システムの全体としては実現できたりする。

システムのイメージはもっと豊かなものがあるのだが、社会に存在するものはほとんど全てこのようなシステムとして捉えるという基本的な考えがある。そして、もっとも大きなシステムが社会全体と言うことになり、その中に含まれる部分的なシステムがまたいくつかあるというとらえ方をする。

「宗教」も宗教システムとして考えるなら、社会システムという大きなシステムに含まれる一部だと言うことになる。そしてこれは単なる一部ではなく「下位」システムと呼ばれる。それは「システムが、自らの存続に必要な機能的達成を、システムの中に存在するシステムに委ねたものが下位システムです」と定義される。「下位システム」という言葉は、日常語の中には含まれていないだけに、新たに定義された学術語であると言うことが明確なので、これはその意味を受け取るのにあまり迷いは出ないだろう。

「宗教システム」は、社会システムという上位のシステムが「自らの存続に必要な機能的達成」の一部をゆだねたものと考えられる。ここで注目しているのは、システムとしての姿であり、その最も重要な属性は「機能」と言うことなのである。宮台氏が「宗教」の定義に「機能」という面を最重要視したのは、システムとしての解明をすることが目的だったのではないだろうか。

宮台氏はこのエントリーで「宗教」の定義の歴史を振り返っている。それは、現実からの抽象によって概念を作り上げ、その概念によって定義されているのだが、現実のどこを抽象するかという明確な意識はあまり持っていない定義のようにも見える。一つの定義は、「第一は、聖俗二元図式を用いて、聖なるものや聖なる体験を宗教と呼ぶ定義」と語られる。これは、体験の中で最も強く感じるものが抽象されているだけのようにも感じる。何か理論的な要請があって、何かを解明することが目的で設定された定義のようには見えない。

この定義は、「しかし聖なるものとは何かを巡ってこの定義は困難に陥ります。宗教定義の困難を聖なるものの定義の困難に移転しただけです」と宮台氏によって語られる。何か不思議な体験をして目がくらんでしまったことをそのまま定義に使ったように見えるため、何か分からないものを「宗教」と呼んでいるだけだというふうに感じてしまう。抽象されている概念は「不思議さ」「わからなさ」というようなものではないかと思われる。

だからこの定義を用いると、不思議なもの・分からないものが「宗教」の中に入ってきてしまう。「ドラッグによるトリップや、激烈な地上戦下の変性意識状態が、聖なるものとなり、宗教に算入されてしまいます」と宮台氏は語っている。これは、理論的な反省なく、体験の強さという感覚あるいは感情をそのまま抽象して定義したことによる失敗ではないかという感じがする。

体験をそのまま抽象するとどうやらまずいことが起こるので、別の角度からの抽象を考えている。「第二は、究極性や最高性を宗教的なものと見做す定義です」と宮台氏が語っているものを考えてみよう。これは抽象としては、具体性を離れていっているように見えるので何となくうまく行きそうな感じもする。「しかしこの定義にも、先の定義同様、日常的に宗教と呼ばないものが含まれます」と宮台氏は指摘する。

これはあまりにも抽象のレベルを上げすぎたのではないかと考えられる。「究極性」や「最高性」として抽象してしまうと、「宗教」が持っている独自性というものが捨象されてしまうのではないかと考えられる。このように抽象されすぎた「宗教」は、「ケルゼン流の概念法学で把握された憲法は定義に合致するし、俗に言う「科学万能主義」の世界観も定義に合致しますが、私たちは比喩を超えて憲法や科学を宗教と呼ぶのを躊います」と言うことになってしまうのだろう。

この二つの定義は、いずれも多くの「宗教」が持っている属性を抽象して作られている。しかし、それはどうも「宗教」の本質をぴったり捉えている定義とは言いがたいものになっているようだ。どのような定義をすれば、「宗教」としての独自の性質をも表現し、具体性にベッタリ張り付いた感覚的なものにならない、抽象された概念となるのだろうか。

これには唯一の正しい定義の仕方というのはおそらく無いだろうと思う。宮台氏の定義の仕方も、「宗教」をシステムとして、より大きな社会システムの中に位置づけるという目的を持つという条件の下で正しくなる定義なのだろうと思う。そのような条件を意識しないで機能を本質と考えた場合は間違いになることもあるのではないかと思う。

マルクス主義的な言説では、かつては機能を本質と見る見方は「機能主義」と呼ばれる誤りだと考えられていた。これは、マルクス主義が「唯物論」が正しいという前提で考えられているからだろうと思う。ものの存在が第一義で、認識はその物質的存在から得られると考えるなら、本質は物質的存在という実体の方にあるのであって、機能の方は人間の受け取り方という「観念」に左右される。

機能というのは数学的には関数を意味する。何を入力として、何を出力とするかで関数のとらえ方は違ってくる。機能というのは、人間のものの見方という「観念」に左右される。しかし、ある場合には観念を基礎にした見方の方が本質であると言うこともあり得るだろう。無条件で唯物論的なものが正しくなるのではなく、真理は常に条件付きなのだと考えられる。

宮台氏の定義は、「宗教」を外から眺める第三者的な視点だ。「宗教」を内側から生きるような信仰の観点ではない。だから、これに対して、「宗教」を冒涜するものだと反発する人がいるかもしれない。「宗教」を内側から生きる人にとっては、それにふさわしい定義があるだろうと思う。そして、それもある条件下では正しいのだろうと思う。

「宗教」を内側から生きる人にとっては、信仰の対象である「神」が必要なのではないかと思う。対象なしに信仰することは出来ないのではないだろうか。そうすると、「前提を欠いた偶発性(=根源的偶発性)を無害なものとして受け入れ可能にする機能」というのは、神の能力として信仰する対象であり、神という実体の属性(これはフィクショナルな実体だと僕は思うのだが)として機能が捉えられるようになるだろう。

「宗教」を信仰として考える人にとっては、それは聖なるものとして映るだろう。それは信仰するがゆえに聖なるものとして映るのだが、信仰する人間には逆に見えるかも知れない。聖なるものとして存在する神がいるからこそ、自分の信仰が生まれたように。

信仰という面から「宗教」を考えると仏教というのは奇妙な存在に見える。仏教は信仰する対象を持たないからだ。仏教では「悟り」というものをひらくことを目的とする。「悟り」に関しては、その本質を考えることが難しいのだが、ある種の諦念(あきらめ)が「悟り」と呼ばれるのではないかと思う。世の中の全ての出来事に対して、それはそうなっている、いわば運命なのだと了解することが「悟り」のようにも感じる。

そうすると、これは「前提を欠いた偶発性(=根源的偶発性)を無害なものとして受け入れ可能にする機能」を持つだろう。宮台氏の定義からすると十分「宗教」としての本質を持つと考えられる。

「宗教」をシステムとして捉えれば、システム理論として抽象的に捉えた論理を応用することが出来る。宗教システムの発展というものを、論理的に追うことが出来る。社会が複雑化したときの、それに対応する下位システムとしての「宗教」がよりよく理解できれば、宗教的な「狂信」ではない方向での「前提を欠いた偶発性」の処理が出来るようになるのではないだろうか。

かつてはパニックを収めるために有効だった「宗教」が、複雑化した社会では、「狂信」という形で社会の存在を脅かすようにもなっている。それはオウム真理教という「宗教」の地下鉄サリン事件などに端的に表れているのではないかと思う。この「宗教」を単に「狂信」として、「宗教」にあるまじき邪教として排除するだけでは問題の解決にはならないのではないかと思う。システムとして「宗教」をとらえる視点が、問題の本当の解決につながるのではないだろうか。

さて「ファシズム」の定義は、どのような目的の下に考えられるだろうか。「ファシズム」の被害を受けた人々が、その体験の深刻さを抽象するだけでは本質を捉えたかどうかは分からないだろう。深刻な体験をした人々は、本質は体験した人にしか分からないと言うようなことを語るときがあるが、抽象化した理論として本質を求めるときは、逆にあまりにも体験のイメージが強いときは抽象化が難しくなる。

ファシズム」の属性であるものは、非論理・非理性・非合理・暴力的・差別的・抑圧などいろいろと考えられる。これが不当なものとして退けられるだけの市民社会であれば「ファシズム」の脅威は少ない。だが、このような属性が権力を持ったりすれば、それは大部分の人にとって暗黒のような世界だった第2次世界大戦を思い出させるのではないだろうか。「ファシズム」にとってこれが重要になるのは、権力との関係をどう見るかと言うことではないのだろうか。それを考察するのに最も有効な定義というのはあるのだろうか。考えてみたいと思う。