個人の自由を支える国家の権力


『自由とは何か』(佐伯啓思・著、講談社現代新書)という本に大変興味深い記述があった。そこでは3年前のイラク人質事件に関連して、自らの自由意志でイラクに行った彼らの責任が、意志の「自由」というもので論理的に導出できるかと問いかけていた。

佐伯さんは、彼らがたとえ自分の意志で、国家の勧告に反して行ったとしても、どのような事件に巻き込まれようと自業自得で放っておいてもいいのだということにはならないという。近代国家には国民を守るべき責任があるというのだ。彼らがある意味では勝手に行ったのであろうとも、彼らの危機に対して国家はそれを救うのに全力を尽くさなければならない責任があるという。近代国家(民主主義国家ということだろうか)はそうでなければならないということだ。これは僕もそう思う。

これは感情面で同意できるというだけではなく、民主主義というものは、そのような原則を基礎にしなければ国家の安定が得られないのではないかと思うので論理的にもそうでなければならないと思う。もし国家が、守るべき国民と見捨てる国民を差別するようになったらどうなるだろうか。それは、国家を支える国民と、国家を支える必要のない国民を分けることになる。すべての国民が国家を支えるということではなくなる。これは民主主義というものの否定にならないだろうか。

佐伯さんも、「国家は国民の生命や財産の安全に対して責任を持つ」「いかなる心情の持ち主であれ、人質に関しては、可能な限り安全な救出を目指す」と書いている。これは「本人がいかに反国家であり、日本政府に不信感を持っていようと、個人の心情とは無関係に」救出をしなければならないということでもある。それがすべての人が、国家を支える動機を作る民主主義社会の原則ではないかと僕も思う。

このあたりの論理は、かつての「自己責任論」が実に奇妙なもので、国家が責任逃れをしようとする間違った論理であることを改めて納得させてくれるものになる。そしてこれに関連させて、人質になった彼らが、危険な場所であるにもかかわらず、あえて自らの意志でそこに行こうとするような「自由」があるのは、実はその「自由」を国家が支えているからできるのであるという論理の展開が、新たな視点を教えてくれるものとして目にとまった。

僕には左翼に近いリベラルの感覚があるので、国家が「自由」を制限して、「自由」を規制してくるという面は気づきやすいし分かりやすい。しかし、国家にそのような面があるにもかかわらず、安定した生活においては、われわれの「自由」は実は国家という権力がその安定を支えているのだというのは気づきにくい。

国家権力というのは、常に悪としてわれわれに対しているのではない。国家権力の必要性というものも論理的に理解することは重要だ。宮台真司氏は、アナーキズムを「国家を否定する中間集団主義」と呼んでいた。アナーキズムは権力をすべて否定するのではなく、国家のような大きな権力は否定して、中間集団としての小さな権力で市民社会の安定を図る思想だと捉えているようだ。

これに対して、社会学が提出するのは、「国家を否定しない中間集団主義」だと語っていた。これは、基本は中間集団による社会の安定を図ることにあるのだが、中間集団では請け負えない機能を国家という権力が引き受けるのだという考えように感じた。『権力の予期理論』などは、そのような国家権力が社会において果たす役割を分析したものではないかと思う。

国家権力が社会の安定にどのように役立っているかを知ることは重要なことに違いない。それは、ファシズムの分析などにおいても、ファシズムの初期においては、その権力が市民生活の安定のために貢献するという面が見られることが、大衆的な支持の要因になっているのではないかとも感じるだけに、結果的にひどいものをもたらしたファシズムが支持されるという矛盾を理解するのに役立つのではないかと思う。

佐伯さんの次の文章は、実に印象的に頭に残ったものだった。自分では忘れていた視点を教えてくれたものだった。

「国家があってはじめて自由な個人という主体がありうるという、考えてみれば当然のことに、人質事件は改めてわれわれの目を向けることになった。しかし多くの場合、このことは事態の背後に隠されている。普通、われわれは「自由な個人」から出発する。「自由な個人」から出発すれば、国家はそれに対する制約としてしか理解されないだろう。こうして、「権力を行使する国家」に対抗する「自由な個人」という図式が出てくる。
 確かにこの図式が妥当する局面もしばしば存在する。しかしより根底にあるものは、「自由な個人」を支える「権力をもった国家」なのである。この後者をとりわけ注意しておきたいのは、「権力」vs「自由」や、「国家」vs「個人」という図式はあまりに分かりやすいのに対して、「権力」や「国家」が「自由」や「個人」を支えているという側面はなかなか見えにくいからだ。
 われわれの意識はどうしても自明に思われる「個人」から出発する。そうすると、そもそも「個人の自由」が実際にはいかなる条件のもとで成立しているのか、という自らの足元に目をやることが難しくなってしまう。」


この佐伯さんの言葉は、宮台氏がよく語る「プラットホーム」の問題を言い換えたもののように感じる。「自由」の謳歌は大切だが、それが謳歌できるプラットホームが存在してこそそれはできるのだということだ。プラットホームが壊れるかもしれない事態が起きれば、今確保されている「自由」が失われる恐れがある。そうであれば、あるときには「自由」の行使よりも「プラットホーム」を守ることが優先される。そのような判断をしなければならない時がいつなのか、それに敏感になる必要があるだろう。

佐伯さんの本は、自由を支える国家権力という視点の新鮮さで面白さを感じるた。そしてそれともに冒頭で語っていた、若者にとっては、もはや「自由」はあたりまえのものであり、ことさらそれを求めると力をこめて言わなくてもいいものになっているのではないかという、現在に対する現状把握に、今の時代がやはり「近代成熟期」ではないかという感じがしてまた面白かった。

佐伯さんは「自由に対する切実感がなくなった」と語っている。むしろ自由をもてあましているようにも見えると語っている。かつてなら「自由はいつも脅かされ、自分が本当にやりたいことができず、何かによって縛られていると感じるのが」当たり前だったという。もし、自由が何かの制限を受けているという「不自由感」によって分かりやすいものになるのであれば、「自由」を求めるという態度もとりやすい。

これは、「近代過渡期」の「不自由」ではないだろうか。それは、何かが不足しているという「不自由」なので、不足を埋めれば「自由」になれる。目標がはっきりしており、その目標に向かって意欲的に突き進んでいける「自由」だ。「近代過渡期」における学生運動の高揚などを考えると、単純に価値のある「自由」に突き進むことができた幸せな時代だったのではないかと感じる。

それが今の「自由」は、とりあえず「したいと思えばだいたいすることはできる」という自由になっている。もちろん物理的条件によってはできないこともあるが、そういう場合はむしろ、それをしたいという「自由」を抱かないのではないかとも感じる。選択肢を設定しなければ、それができなくても「不自由感」はない。

オタク的な若者は、恋愛においては弱者であり成功することが少ないという。しかし、最初から恋愛などに意欲を持たなければ、それができないという「不自由感」に悩まされることなく、「自由」が得られないことに悩む必要がなくなる。「萌え」という対象を求めるのは、現代的な「自由」の処理のしかたとしてまことに合理的な行動なのかもしれない。

現代社会においては、選択肢を持とうと思えばかなりのところで選択肢を持てる。しかし、どの選択肢を選べば自分にとってっは幸せなのかを決定することが難しくなっていないだろうか。オタク的に、あえて選択肢を捨てることによって「不自由感」を克服するというパラドックスも起きてくるのではないだろうか。

何をすれば幸せなのかがわからないので、とりあえず何かをしてみるのだが、どうもあまり幸せになれないという感じがしている人が多くはないだろうか。考えるよりも前に、自分の選択肢はこれしかないという状況にいる人は果たして多いだろうか。何を選択してよいのかがわからない、自分の好きなものが自分でよくわからない、という「不自由感」が今の一番大きい問題であれば、それはまさしく「近代成熟期」だと言ってよいのではないかと思う。

国民の「自由」を支えるプラットホームとしての国家権力という視点で、国家の選択を見直すことはなかなか役に立つものになるのではないかと思う。政治的な選択については、自らの個人的な立場から、それが利益になるのか損害になるかが分かれてくる場合がある。この利害関係で、国家の選択に対する自分の判断というものが出てくる場合もあるだろう。だが、そのような個別的な利害関係を離れて、国家権力が、国民のどの面の「自由」を支えるためにそのような決定をしているのか、ということを考えられるのではないかと思う。

具体的には、教育基本法の「改正」をはじめとする教育改革において、それによって何が「自由」になるかを考えてみたいと思う。その「自由」は、果たして「近代成熟期」における「自由」としてふさわしいものになるだろうか。それがふさわしいものであれば、教育改革はよい方向へ進むのではないかとも思える。しかし、「近代過渡期」における「自由」の問題を引きずるような古臭いものであれば、その「自由」はかえって「不自由感」を増すものになるのではないだろうか。

最近話題になっているホワイトカラー・エグゼンプションについても、これはいったいどのような「自由」を保障するものであるのか、という視点で捉えるのは面白いのではないかと思う。それは、働く立場から、創造性を発揮する「自由」を支えてくれる制度になりうるだろうか。今の状況は、まったくそういうものではないように感じるのが正しいのではないかと思うが。それは、今のところはいくらでも給料を下げられるという「自由」に役立つものになるらしい。

近代民主主義国家は、大多数の国民の「自由」を支える方向で、政治的な意思決定をすべきだろうと思う。現政府が果たしてそのようなプラットホームを守る方向で動いているのか、よく考えて見ていきたいものだと思う。