正義の実現と権力


権力というものを抽象的に考察していくと、それが合理的に機能しているときは、われわれはほとんどその存在に気が付かないのではないかと思う。権力がうまく機能していると、われわれはそれを気にする必要がないほど安定した社会が営まれているといえるだろう。

われわれが権力を意識し、権力に注目するのは、たいていが権力がうまく機能していない・合理性を失ったときではないかと思う。だからこそ、権力というものは、われわれを弾圧するだけの悪い存在だという感じがしてくるのではないだろうか。合理的に機能していない現存する権力と、合理的に機能する抽象的な権力とを区別しなければならないのではないかと思う。

抽象的に捉えられた権力は、ある意味では理想的な権力であって、そんなものは現実にはないというふうに簡単に捨てられてしまうかもしれない。それが現実にはありえないことは確かだが、理想的な権力というのは、現存する権力がどれだけ合理的に働いているかの判断基準を与えてくれる。そのような見方が大事ではないかと思う。

いじめ問題を議論しているとき、宮台氏と内藤朝雄さんが、学校に警察権力を介入させろという主張をしていた。このことは、学生運動が華やかだった全共闘の時代の記憶がある人には、生徒を弾圧するために警察権力を利用するのか、というふうに見えるかもしれない。

しかし、宮台氏や内藤さんの主張の根底にあったのは、生徒の自由を奪うという意味での権力ではなく、「正義の実現」を達成するための権力というイメージだった。いじめ問題の根本的な解決は、内藤さんが主張するように、学校における中間集団全体主義の克服にあると思うのだが、緊急の処方箋としては、正義の実現によって今生じているいじめの中のひどいものはかなり収まるのだという。

他者を肉体的・精神的に傷つける行為の中には、犯罪的なものがある。いじめという判断はなかなか難しいが、犯罪的であるという判断は下しやすいだろう。それを処罰することで、いじめがひどくなることを防ぐことができると思う。それは、いじめそのものをなくすことはできないかもしれないが、やり過ごせるだけの軽いものに変えることはできるかもしれない。

犯罪を処罰するというのは正義の実現をすることだが、このためには「権力」というものを必要とする。論理的に考えれば、「権力」なしに正義を実現することの困難が見えてくるだろう。

西部劇映画などを見ていると、そこには無法地帯というものが出てくることがある。無法地帯では正義が実現されていない。最も力の強いものが、暴力的な支配を基に、自分勝手なやりたい放題をするのが無法地帯だ。ここに正義を実現させるには、映画では正義のヒーローを必要とする。支配者よりももっと強いヒーローが出現して、そのヒーローの人格の高潔さで正義を実現する。

映画の中ではヒーローが正義を実現するが、現実の世界ではなかなかヒーローは出てこない。支配者よりも強いヒーローは出てこない。ヒーローの出現を待っていたのでは、いつまでも正義は実現されない。ヒーローがいなくても実現される正義として、権力が合理的に働いたときの正義の実現が考えられなければならないと思う。

教師の資質によっていじめの緊急対策をするのは、教師をヒーローにしようとするものだと思うが、これは西部劇映画のようにはうまくいかないだろう。ヒーローがいなくても実現される正義として、警察権力の合理的な働きに期待したほうがいいと思う。

また、学校における正義の実現として、直接教員に権力を与えてしまえばいいのではないかと考える人もいるかもしれないが、前近代の社会ならいざ知らず、近代社会では分化した機能として権力が働かないとそれはおそらくうまくいかないだろう。犯罪を取り締まる正義の実現の機能は警察権力が担っているのであって、それを教師に担わせると弊害のほうが大きくなるのではないかと思われる。教師は、教育と評価という二点でのみ正義が実現されるような権力をもつべきだろう。

警察権力が、誰もが認める正義の実現をしていれば、社会は安定した状態を保ち、われわれは権力の存在を意識することなく、権力の合理性を感じることができるだろう。しかし、現存する権力はいつも合理的に働くわけではない。私利私欲に駆られて権力を利用する人間もいつでも生まれてくる。現実の権力はいつでもそちらへシフトする可能性が高いのだから、合理的に働く権力などは、やはり現実離れした理想に過ぎないといわなければならないのだろうか。

合理的に働く権力というものが、現実離れのした妄想になるのか、現実が目指すべき理想の姿になるかは、われわれの学習にかかっているのではないかと思う。私利私欲に駆られて、権力の合理性を逸脱して不当な使い方をすれば、結局は支配する人間にさえも不利益が生じるという学習が大事ではないかと思う。正義の実現ができない権力は、一時的には支配者に利益をもたらすかもしれないが、社会そのものの存続を脅かすために、やがてはプラットホーム(存在基盤)の崩壊を招き、支配するべき対象がなくなってしまうのではないかと思われる。

その学習にとっていい材料は、不祥事を起こして倒産が確実視されている不二家という会社ではないかと思う。不二家では不正が行われていて、それを隠すという不正義が行われていた。不二家という会社(社会)では、正義の実現をするような権力が存在していなかったと考えられる。青山貞一さんの「格差社会と内部告発〜不二家問題に思う〜」というエントリーには次のような記述がある。

「この不二家問題を見ていて直感したのは、不二家工場でパートとして働いてきた労働者の「内部告発」であり、ここ数年のこの種の不祥事や事件の多くが、「内部告発」がきっかけとなっていることだ。」

「ところで格差社会は、言うまでもなく本来必要とされる社会経済的な規制までとっぱらい、何でも市場にゆだねる市場原理主義のもと、弱肉強食の経済社会を増長していた。とくに、製造業では大企業の多くが日本の伝統的な終身雇用や正規雇用からパート、アルバイト労働に切り替えることで大きな経常利益を上げてきた。

 だが、ちょっと考えれば分かることだが、同じ内容の仕事をしながらボーナスやさまざまな保証もない、日雇い労働者として差別されているひとびとは、会社への帰属意識も従来のようになく、眼前で起こっている今回の不祥事に見て見ぬふりをして辞めてゆくひともいれば、正義感や怒りを持って外部に内部告発するひともでてくるのは自然の成り行きである。」


不二家という会社の中では、他の会社も同じだと思うが、同じ仕事でありながら給料の格差があったりするという不正義が横行していただろう。この不正義は、虐げられた人間の個人的な叫びでは改正されない。正義が実現されることはない。また、正義を実現してくれるようなヒーローが経営者の中に出てくることなど期待できない。ここに正義を実現するには、合理的に働く権力がどうしても必要だろう。

しかし、不二家は合理的な権力を実現できなかったのではないだろうか。不合理な不正義を押し付けて、さらに消費期限切れの原材料を使うという不正が行われていたとき、不正義が行われていないことに不満を持つ人は、どこかでそれをいきなりもっと大きな権力に訴えるということが起きても不思議ではない。それによって、会社というプラットホームが失われることになっても、正義の実現をしてくれないような会社には愛着がないだろう。

不二家が、会社内の不正を正し正義を実現するという合理的な権力をもっていたならば、不二家で働く人間たちは、そのような会社を大事に思い、会社の存続にかかわるような重大な事柄に対しては、会社にとってプラスになるような提言をするだろうと思う。重大な不正が外に出る前に、内部の努力によってそれを正すということができるだろう。内部告発は、正しく内部で処理されるようになるに違いない。

内部告発で不正が明るみになり、そのことによって組織が致命的ダメージを受けるというのは、その組織自体がやはり正義を実現するだけのものを持っていなかったのだと学習しなければならないだろう。もし、組織内で正義が実現されていれば、内部告発はいきなり大きな外に対してなされることはないだろう。正義を実現してくれると信頼される、しかるべき部署にまずその告発がされるようになる。そうすれば、組織としての会社は、いつまでも合理性と健全性を保つことができるようになるだろう。

正義の実現というのは、何か青臭い子供のような理想主義ではないのだと思う。むしろ、組織や社会を安定させるために不可欠の要素なのだと思う。かつて敗戦間近の日本軍においては、組織的な腐敗が蔓延していたと聞いたことがある。物資の横流しが行われ、利権を持っていた人間は、あのような時代であったにもかかわらず不正な蓄財をしたという。正義が実現されなかった軍隊という組織が、本来の任務でも能力を発揮できなくなるであろうことは自明ではないかと思う。権力の座にいる人間こそが、権力による正義の実現というものを学習しないと、組織や社会は崩壊への道を歩むだろう。

日本における最高の権力は、国家を動かす政府権力だろう。果たしてこの権力は正義を実現しているか。ここが正義を実現していなければ、日本社会の行く末は不二家のようになるのではないだろうか。プラットホームそのものの崩壊を招くのではないか。宮台氏が語る真のエリートなら、そのようなことに気づき学習するのではないかと思うが、権力に集まる人間たちは、どうも私利私欲を求めて動いているように見える。

権力の座にいる人間たちが賢くないとき、その社会は崩壊するしかないのだろうか。そのまま権力の構造が変わらないのであれば崩壊するしかないかもしれない。しかし、近代社会は民主主義であるということに一筋の光明が見えるかもしれない。民主主義社会では、形の上では、大衆が最高の権力者になっている。今権力の座にいる人間たちも、民衆の支持を失えば権力の座を失う。正義を実現する権力が、今の権力の座にいるエリートに期待できないときは、民衆が賢くならなければならないとも思う。宮台氏はこれにあまり期待していないようだが、大衆の一人である僕は、こちらのほうにこそ期待をかけたいという願いを持っている。