新たな「構造的弱者」


内田樹さんの『下流志向』という本の中から気になる部分を抜き出して考えてみようと思う。その一つは、「構造的弱者が生まれつつある」という一節だ。「構造的」という言い方には、個人の努力にもかかわらず、それを越えた大きな枠組みの力によって影響されているというニュアンスがある。個人の責任に帰する以外に、社会的な原因があって弱者になっているというニュアンスを感じる。

そういう弱者は今までもいただろうし、階級社会と呼ばれるところでは今でもたくさんいるに違いない。封建社会は、生まれついての身分に縛られてそこから離れることは出来なかった。典型的な階級社会だっただろう。そこでは、どれほど優れた資質をもっていようと、社会の下層の身分であれば、そこから抜け出ることは出来ない。そして、下層身分ゆえの弱者として生きるしかない運命を持っている。

江戸時代の封建制が崩れて、明治維新によって社会が大きく変わったという点は、最近読んでいる板倉聖宣さんの『勝海舟明治維新』などでも、有能な人物が認められて出世するというところに見ることが出来る。努力し、能力さえあれば誰でも認められるような社会というのは、近代と呼ぶにふさわしいものだと思う。板倉さんの本を読むと、明治のころの日本というのは、当時としては最高レベルの近代民主主義が実現されていたとも感じる。だからこそ明治の日本は、先を行くヨーロッパの進歩に短期間で追いついてしまったのではないかと思う。このことからも、明治維新を市民革命だと言いたくなってくる。

さて、現在の日本も建前上は民主主義の社会になっていて、封建制度的な意味での「構造的弱者」はいないことになっている。今は、親の経済力を元にした新たな階級制が出来ているとも指摘されているので、そのような構造から生まれてくる弱者が内田さんが指摘する「構造的弱者」なのだろうか。それはちょっと違うのではないかと言うのを僕は感じた。

江戸時代のような封建社会では、社会的な弱者であることは、本人の努力・能力にかかわりなく、生まれつきで決まっていた。強者として生まれれば、本人がどれほど弱い資質をもっていようとも、社会的には強者であり、弱者として生まれればその逆に、本人が強者としての資質を持っていても弱者として生きるしかなかった。

今の時代に、親の経済力が子どもに大きな影響を与えると言っても、それを背景にした強者としての資質を保つには、本人の努力を必要とする。努力をしなければ、親の資本を食いつぶして没落することもある。現在の階級制の問題として言えば、経済力という資本を持っている親のほうが、自分の子どもが努力をするというモチベーションを持つのに圧倒的に有利な条件を持っていると言うことだろう。

資本力を持つ階級は、それを保つという動機を持ちやすいが、資本力のない階級は、努力して出世するという動機を持つことが、かつての日本社会よりも弱くなっていることは確かだ。明治維新直後の日本は、立身出世と言うことが信じられていて、どの階級の出身であろうとも、努力と能力によって這い上がれるという希望があったのではないかと思う。現実にはそれは難しかっただろうが、人々の意識の中にはそれを夢見る気持ちがあった。それが日本人の勤勉さの支えだったかもしれない。

今は「希望格差」という言葉にも見られるように、経済的な条件によって、希望をもてるかどうかが決まってしまうところがある。弱者を抜け出して、強者になるための努力をするという動機が、早い段階でなくなってしまっている状況にある。これは、どういう経済状況の家に生まれたかによる影響が大きく、個人の努力を越えているとも考えられる。それは、東大合格者の親の年収の統計を見ると、かなりの高額の水準になっているらしいところからもそう考えられる。

個人の責任に帰することが出来ないところに、今の時代で努力と能力の不足ゆえに弱者となる人々を、「構造的弱者」と呼ぶことが出来る感じがする。これが「新たな」と形容したくなるのは、かつての弱者は資質も高い人々がいたし、何とかそのような状況から抜け出そうと努力していたが、現在の「構造的弱者」は、弱者であることに満足し、あるときは努力して弱者になろうとしているように見えると言うところだ。

近代社会は「自由」が拡大した社会であり、封建制のように生まれつきの家柄に支配されない社会になった。これはたいへん大きな進歩であり、このことによって幸せになった人は多いだろうし、社会は活性化して発展してきただろうと思う。しかし同時に、「自由」というのは自らの意志で選択をすることを意味するので、自己責任というものを生み出し、リスクを引き受けると言う面を生み出した。

リスクと言うのはある種の危険性ではあるが、それを覚悟して引き受けることで大きな利益が得られるから、あえてそれを選択しようとするものだ。株の売買は、銀行に金を預けるよりも大きな利益をもたらす。しかし、銀行預金は金が減ることはないが、株の売買は、場合によっては大きな損をもたらす。危険の大きなものだ。この危険がありながらも大きな利益のほうを選択したいとなったとき、危険性を選び取ることをリスクを引き受けると表現する。

このリスクに対しては、それを「ヘッジする」ということが大事だと内田さんは指摘する。損害が大きいものになりすぎたときに、それから救済されるような何らかの保障を考えておく必要があると言う指摘だ。リスクを引き受けた結果としての危険が生じたとき、その危険を個人だけで引き受けるのではなく、集団に分散させると言う構造を作っておくことが一つのリスク・ヘッジになる。内田さんの表現で言えば、「迷惑をかけ、迷惑をかけられる」関係を作るということになるだろうか。

耐震偽装問題が起こったとき、違反建築マンションが発覚して、そこに住めなくなった住人がたくさんいた。彼らは、そこを住居に選んだということである種のリスクを選択したのだが、それは耐震偽装の結果として住めなくなるというリスクではなかったはずだ。これは個人の責任に帰することはできないので、「ヘッジする」何らかの措置が必要だったと思う。

税金で何とかしろと言う声があがったり、銀行がローン債券を放棄すべきだと議論されたりしたが、実際には何の救済もされなかったのではないだろうか。彼らが受けた迷惑は、彼らだけが引き受けて、他の人間に分散されなかった。リスク・ヘッジの機能は働かなかった。これは僕はおかしいと思っていた。

今の時点で、耐震偽装問題で迷惑をかけられなかった人は、それを運がよかったことといって済ませていていいものだろうか。自分が購入したマンションが違反建築であるかなんてのは素人にはわからないだろう。そのような難しいリスクまで個人に引き受けさせると言うことを、社会的な合意にしたら我々自身のリスク・ヘッジが出来なくなるのではないだろうか。彼らを救済するのは、単純な親切心の発露ではなく、われわれにとってのリスク・ヘッジという意味があったのではないかと思う。

リスクというものがますます前面に押し出されてきている社会であるにもかかわらず、われわれの意識の中ではリスク・ヘッジというものが薄いのではないだろうか。迷惑をかけられる関係をあくまでも拒否する気持ちと言うのが、「構造的弱者」をますます弱者の方向へと駆り立てていく要因になっていると内田さんは指摘している。これは、新しい視点を語る指摘ではないかと感じた。

迷惑の掛け合いというのは、固定した関係のもとにあるのではない。たまたま今は自分が余裕があって、迷惑をかけられても何とかなる状態であれば、他人のリスクを分け合うことが出来るが、それが逆になるときも可能性としてはあるのだから、余裕のあるときに迷惑をかけられることを受け入れようと言うのがリスク・ヘッジになるだろう。自分がいつか迷惑をかけるときのために、今の迷惑を引き受けようと言うのが、相互扶助の精神と言うものだろう。

この相互扶助の美しい表現は、映画「ゴッドファーザー」などに見られる。これは、凶悪な犯罪者を主人公にした映画であるにもかかわらず、心に残る大きな感動を呼ぶものとなるのは、ここでの家族の支え合いの美しさの表現にある。家族の危機に際して、このファミリーは見事なほど結束してリスクを分け合う。それはある種のエゴに通じるものではあるけれども、イタリア系移民と言う社会的弱者が、弱者であることのリスクを引き受けるには、このような相互扶助が必要だっただろう。

弱者にとって相互扶助がリスク・ヘッジだったと言うことは、貧しかった時代の日本社会を思い出してもよく分かる。あの時代の日本人は、ほとんどすべての人が自分は社会的弱者だと言う自覚があったから、あのような相互扶助というリスク・ヘッジが出来たのだろうか。今の日本は非常に豊かになったので、弱者を自覚する人が減り、相互扶助でリスク・ヘッジをするよりも、自由を制限する迷惑の掛け合いを拒否する気持ちのほうが強くなったのだろうか。

内田さんは、「論理的に言えば、リスク社会には自己決定・自己責任を貫けるような強者は存在しない」と語っている。現代日本では、すべての人が弱者であることを自覚するほうが正しいと言うことだ。それは、現代日本社会でリスクを引き受けて利益を得られる層が、実は相互扶助のネットワークを持っている階級であって、そのネットワークゆえに強者でいられるからだと言う。

相互扶助というネットワークなしに生きている人々は、リスクの損害をもろに受けることになる。そうであるのに、その人々はなぜ相互扶助という考えを受け入れることが出来ないのだろうか。小泉さんのネオリベ的な政策は、弱者のリスクを高めて、弱者を切り捨てる政策であるにもかかわらず、ネットワークを持たない弱者がそれを支持すると言う逆転現象が起こった。それは、どのようにして整合的に理解できるのだろうか。

内田さんの次の文章がそれを理解するヒントになるのではないだろうか。

「僕たちは多分「自己決定・自己責任」でリスク社会に単身で泳ぎだしていけると信じられるくらいに豊かで安全な社会に住んでいます。それだけで豊かで安全な社会に生きていられることは幸福なことです。しかし、だからと言って、相互扶助・相互支援のシステムが働かなくてもこの先も大丈夫かどうか、それはわかりません。
 そういう種類の「迷惑」は、親族や友人たちではなく、行政が引き受けるべきだと言うことをほとんどのメディア知識人たちは声高に主張します。
 例えば、フェミニストたちは親の介護や育児が女性に押し付けられてきたせいで女性の社会的進出は妨害されてきたと主張してきました。そのような「迷惑」を専一的に引き受けたので、女性が社会的上昇のチャンスを逃してきたと言うのは事実でしょう。社会的弱者の救護は行政が引き受けるべきだと言うのも合理的な主張でしょう。けれども、「迷惑をかけ、迷惑をかけられる」関係が現に機能していると言うのは「リスクヘッジが果たされている」ということであるという考え方はここには見られません。それでよいのでしょうか。
 僕が言いたいのは、相互扶助・相互支援と言うのは、平たく言えば、「迷惑をかけ、かけられる」ということなのだから、「迷惑をかけられる」ような他者との関係を原理的に排除すべきではないだろうと言うことです。」


この主張は、保守的な匂いを感じてしまうかもしれない。しかし、基本にあるのは、弱者にとって国家にゆだねたリスク・ヘッジは信用できるかと言う問題ではないかと思う。それが信用できないものであった場合、自ら相互扶助のネットワークを建設しておくことが弱者にとってのリスク・ヘッジではないかと言うことではないだろうか。これは、宮台氏が語る真性右翼の思想に近い。「ゴッドファーザー」のファミリーを守ると言う考え方にも通じるものだ。

僕は、家族に関しては、どれだけその行為が自分に迷惑として及ぼうとも、それを分け合うと言う気持ちがある。それはリスク・ヘッジという意識ではなかったが、家族というのはそれだけ大事なものだと言う意識がある。自分と同じ階層の弱者に対して、この家族に対すると同じような気持ちを持てれば、それが内田さんが語る相互扶助になりリスク・ヘッジになるのではないかと思う。