歴史教育は物語でいいか


小室直樹氏が『悪の民主主義』(青春出版社)という本で戦後民主主義批判を展開している。この戦後民主主義批判というのは、僕は今までは党派性からくる議論だと思っていた。反体制側が戦後民主主義を肯定し、体制側はそれを否定しようとするのは、自分の立ち位置からくる論理であって、それぞれの前提を認めればどちらも成立する論理だろうと思っていた。

だから戦後民主主義批判というものは客観性を持たないものだろうと感じていた。それぞれの立場を認め、その立場の賛成した人間は立場に従って批判するものであり肯定するものでもあると思っていた。しかし、小室氏の議論を読んでいると、党派性の立場ではなく、その立場を越えて客観的にも批判できる部分が存在するのではないかとも感じてきた。

全体としての戦後民主主義批判は、この本の全部を読んでから全体把握をした上で考えたいと思うのだが、一部に関して気になったところを考えてみたいと思う。それは、小室氏がこの本の64ページで「歴史教育は歴史研究とは違う」と語っているところだ。小室氏は、「歴史教育は、民族精神を確立するために行われるべきである」と主張している。

これは一見すると「新しい歴史教科書をつくる会」と同じような主張に見える。僕は「つくる会」の主張に関しては批判的な見方をしていた。だが小室氏の主張には微妙な違いを感じる。それは、「歴史研究」と「歴史教育」を分けているところだ。「つくる会」の主張は、そのどちらも「歴史」というもので一くくりにしていたというのが僕の受け取り方だった。

つくる会」の主張は「歴史は物語だ」というようなものだったように僕は受け取っていた。それに対して小室氏の主張は、「歴史教育は物語だ」というもののように感じる。この違いをどう捉えるかを考え、小室氏の主張に論理的な整合性があるかを考えてみたいと思う。

「歴史は物語だ」と考えてしまうと、歴史は科学ではないという捉えかたになってしまう。科学ではないということは、それは客観的な真理を語っていないということになる。つまり、党派性からの主張はすべて歴史として認めるべきであって、正反対の主張であっても歴史としてはどちらも正しいということになってしまう。

もし歴史を科学だと考えるなら、イデオロギー的にどのような立場にいようと、客観的に正しいといえるような真理が歴史だということになる。僕はこのような考え方をするので、「歴史は物語だ」と考えることに反対している。例えば、江戸時代の農民は米が食えなくて粟や稗を食べていたというのは、江戸時代の農民がいかに虐げられていた存在であるかを実感するには有効なイメージになる。ある立場からは、これが歴史だと思いたいという気持ちが強くなれば物語としての歴史として定着する。

しかしこの物語には客観的な証拠がない。江戸時代の農民が何を食べていたかというのは、それを直接見ることは出来ないし記録にも残っていない。「米を食べるな」という御触れのようなものが記録として残っているようなところはある。しかし、これは普段米を食べていたので、それを禁止する御触れが出たのだと解釈することも出来る。いずれにしろ証拠がないにもかかわらず誰もが信じていたという点で、僕はこのような「真理」は言語ゲーム的な真理ではないかと感じている。

板倉聖宣さんは、人口統計や農産物の統計などを調べ、その数字として信頼の出来る値を算出した。これは、党派性を超えた客観的データとして数字を突き止めたということだ。この数字の正しさの証明は僕には細かいところは分からない。しかし板倉さんを信頼しているということから、この統計データにも信頼を置いている。そして、このデータを元にして考えれば、最もたくさん生産されていた米を食べなければ、農民は食べるものがなくなってしまうという論理から、江戸時代の農民が主として米を食べていたということを歴史科学としての「真理」だと考えることが出来る。

白土三平の『カムイ伝』などにも、白米を食べられずに粟や稗を食べる農民の姿が描かれていたように記憶しているが、農民の悲惨な姿というものを芸術的に描くには、そのようなイメージの方がより感情的なインパクトを高めることが出来る。物語としては、江戸時代の農民が米を食えなかったという「歴史」の方がより面白い(この言い方に違和感を感じる人は、より訴える力が強いと言ったほうがいいだろうか)物語が書ける。

しかし、科学としての歴史は、江戸時代の農民は米を食っていたのであってむしろ生産量の少ない粟や稗は農民の口に入るには少なすぎたという判断が出来る。この事実によって、感覚的には農民の悲惨さを感じる感性が薄まるかもしれないが、歴史科学としては板倉さんの主張が正しいと思う。

歴史は科学でなければならないと僕は思う。そうでなければ、確かな基礎の上に現在を考えるということが出来ないからだ。物語であれば、それは自分の好きなように構成することが出来る。都合のいい事実だけを集めて現在の判断をすれば、それは今後の方向を見誤るだろう。ご都合主義では本当に深刻な問題に対処することは出来ないからだ。

歴史はあくまでも科学として捉え、客観的な真理を追究すべきだと思う。そして、物語のほうは芸術に任せておけばいい。司馬遼太郎は文学として味わうものであって、歴史として過去を理解するために利用すべきではない。過去の偉人が登場していようと、それは脚色された登場人物であって、実在した偉人の実際の行動を語ったのではないのである。

歴史そのものを物語だと考えるのは、その弊害が大きすぎる。しかし、歴史教育なら物語だと考えても問題はないだろうか。小室氏の主張はそのような主張のように読めるのだが、それは果たして正しいだろうか。これは、物語性の捉え方によって弊害の大きさが左右されるのではないかと感じる。物語性を、芸術的なフィクション、つまり演出された嘘というふうに捉えると歴史教育の場合はまずいのではないかと感じる。

芸術であればかなり大胆な嘘でも許されると僕は思う。芸術は、最初からフィクションという嘘を利用することを宣言しているからだ。しかし、歴史教育の場合は、あからさまな捏造というフィクションはまずいように感じる。歴史教育の場合の物語性は、フィクションとしての嘘を語る物語性ではなく、何を教えるかという選択にかかわる物語性ではないかと思う。

小室氏は、アメリカの歴史教育を取り上げて次のように語っている。

歴史教育の目的は、民族精神の涵養にある。
アメリカ、よい国、民衆の国、みんなを幸せにする平等の国、人権の国」
と、国民みんなに思わせるにある。
 民族精神の涵養を目的にする限り、アメリカ史の汚点は伏せておくに限る。伏せられなければ、ぼかしておく。ぼかさないまでも、周辺において正面には出してこない。正面には、あくまでも、アメリカの理想。この理想実現のために献身した英雄、リンカーンは、子どものころ、聖書とイソップ物語とワシントンの伝記しか読まなかったそうである。前二者は母が選んだもの、後一者は彼自身が選んだもの。しかも、彼の教養はこれで十分であった。しかも、彼の行動と演説とは、全米を感奮興起させた(例。ゲディスバーグの演説)。
 英雄の伝記こそ、まさに、後世の人々を奮い立たせる。
 歴史教育は、栄光の教育でなければならない。」


歴史科学として考えたときは、アメリカ人はアメリカ史の汚点である奴隷制度の問題や人種差別、先住民虐殺などを科学として「真理」を求めるという態度で研究をする。しかし、歴史教育という観点で考えれば、そのようなアメリカ史の汚点は歴史教育では、事実を捻じ曲げることはしないが、中心ではない周辺に追いやるということで物語性を出すのだという。

また、アメリカの栄光の歴史というものも、作り話としての栄光ではなく、ちゃんとした事実としての栄光を物語ることで歴史教育としている。これは歴史というものを紐解けば、栄光を感じさせるような事実は必ず見つかるのであるから、それを選ぶということが物語性を持たせるということになる。

物語性というものを、嘘でもいいから気分を高揚させるものを利用するというのでは、歴史教育ではなくて政治的なプロパガンダになってしまう。歴史教育の物語性は嘘を語ることではない。それは事実を語るのだが、その事実は栄光の歴史を感じさせる事実を選び、汚点を感じさせる事実は、教育の段階ではあまり語らないということを意味しているのだ。

このような意味で「歴史教育は物語だ」ということは果たして肯定できることになるだろうか。小室氏が前提としている「歴史教育の目的は、民族精神の涵養にある」ということを認めれば、論理的には認められることになるのではないかと思う。問題は、この前提に賛成できるかどうかだ。

僕は、自分が受けた歴史教育をほとんど記憶していないくらいなので、歴史教育の影響というものをまったく受けていないといっていいかもしれない。だから、僕にとっては歴史は科学であることが重要なことであり、日本人としての気分を高揚させるかどうかということよりも、それが本当に正しいことか、本当に事実としてあったことだったのかどうかということが気になる。

個人的にはそのような思いを抱いているのだが、社会全体、あるいは日本の国にとって歴史教育はどうあるべきかを考えた場合、小室氏の主張のほうが、社会にとっては利益となることであるといえるだろうか。これは簡単に結論が出せることではなさそうだ。

日本の歴史の栄光の部分を知る人が多く、汚点となる部分を知る人が少なければ、日本に対するイメージはよいものとして抱かれるだろう。自然に愛国心が育つに違いない。しかし、そのイメージは国際的イメージとしてはどうなのかというものがある。日本人自身が抱いているアイデンティティーが、国際社会から見られている姿とまったくかけ離れているようだと、国際化が進んだ現代という時代ではまずいのではないかとも感じる。

しかし、「自虐史観」と揶揄されるような、ことさら自分たちの汚点を穿り出して教育されるのも困ったものだとは感じる。自分に対する自信が持てないような、自分の頭でものを考える人間に育つことが難しくなるという弊害が生まれるのではないかという懸念も感じるからである。

小室氏の主張の前提は重要なものには違いないと思う。だが、それをバランスよく判断することが難しいのではないかと思う。「民族精神の涵養」が、他国を無視した独善的なものになるのではなく、しっかりした自己を確立することのできる自信を与えてくれるものであって、客観性のあるものにするにはどうしたらいいかという問題が残る。このバランスの問題が解決されたとき、小室氏の主張が正しいものになるのではないだろうか。「つくる会」の活動の方向は、このバランスの問題の解決に失敗したのではないかと思う。