行為の基礎にあるものは善意なのか悪意なのか


母親を殺害した高校生のニュースに比べると「社保庁汚職:指導医療官、東京歯科大同窓会から現金」で伝えられるニュースは、日本社会ではよく見られる現象であり平凡なもののように見える。

しかし、衝撃的なニュースのほうが、その内実は案外と抽象しやすく理解するには易しいかもしれない。犯行を行った高校生個人が特別な存在だと考えるのではなく、その背景となる社会のゆがみが理解できれば、誰がそのような犯罪を行うかというのは偶然的なことであるが、誰かがそのようなことをしてしまうというのは、現代社会の必然性として理解できるのではないだろうか。

社保庁汚職に関する事件は、よくある平凡なものだけに我々はよく理解している気になっているが、その論理性を把握している人は少ないのではないかという感じがする。論理性よりもむしろ日本社会における経験において、よくあることというのは、日本社会はそういうものだというような運命的というかもともとそういうものだったということを言語ゲーム的に了解しているだけなのではないかという気がしている。

報道を見ると、汚職によって逮捕された社会保険庁指導医療官、佐藤春海容疑者(57)は、その汚職収賄)によって私服を肥やそうとしていたとは考えにくい。そもそも保険診療を行う医師や医療機関を指導・監督する権限を持つ指導医療官というものは、開業医や勤務医であった容疑者の収入よりも低かったということが報道されている。つまり、指導医療官になることは、利益になるのではなくむしろ損になることだったのだ。

だから、低くなった収入を補填する意味で、同窓会からの資金提供が行われていたということだ。そのまま開業医や勤務医を続けていれば、汚職などという危ない橋を渡る必要はなかっただろう。しかも、その汚職によって開業医や勤務医であったころをはるかに上回る利益があるのならまだしも、減った分を補填するくらいのものしか得られないとしたら、佐藤容疑者にとってどのような動機からこのような危ない橋を渡ろうというものが出てくるのだろうか。

「東京歯大同窓会汚職、社保庁医療官を収賄容疑で逮捕」というニュースによれば、

「調べによると、佐藤容疑者は、指導医療官として東京社会保険事務局などに勤務していた2002年11月〜05年7月、同大OBの歯科医らとの勉強会の場で、社会保険事務局から監査や指導を受けた時の対処法を教えるなどした見返りに、内山、大友両容疑者から現金2百数十万円を受け取った疑い。」


とも報道されている。この教えた内容に違法性があったかどうかは報道されていないが、テレビのニュースなどでは内部情報を伝えたというような言葉もあったように記憶している。教えた内容に違法性がないのなら、常識を超える謝礼を受け取ったということに収賄の容疑があるということになるのだろうか。

しかし、指導医療官にならなければ、つまりそのまま開業医や勤務医を続けていれば、そのような違法性のある金を受け取らずに安全に医者として過ごせたはずなのに、なぜそのような危険まで冒して指導医療官にならなければならなかったのか。

このような悪事を働いたというニュースが報道されると、単純に受け取る人は、悪意を持った人間が悪いことをしたとすぐに思うかもしれない。そうであれば、論理的な了解はしやすいからだ。悪いことをするのは悪意をもっているからだ、というのは原因-結果の因果関係としては分かりやすい。しかし、この事件の場合、悪意を持っているならもっと不当な利益を得ていていいはずだと思うのだが、そのような報道が見られない。

僕は、この佐藤容疑者という人物は、非常に善意にあふれた人間だったのではないかという感じがしている。危ない橋を渡ったのも、同窓会の仲間を助けるためのものであって、自らの利益のためにそのような行為を行ったのではないような感じがする。

このように考えたからといって、善意があるからこの行為が許されると主張したいわけではない。むしろ、善意からの行為がこのような反社会的なものに結びつくことに、日本社会のゆがみを見て、社会そのものの変革に向かうという思考の方向が必要なのではないかという感じがしている。善意が社会にとっていいものへ向かわずに、むしろ社会にとって損害を与える方向に進むというところに、日本社会の特徴を見なければならないのではないだろうか。

社保庁汚職事件を論理的に理解するには、それが私服を肥やすというような悪意から発したものだと解釈するのではなく、同窓会を中心とする同じ仲間たち、すなわち佐藤容疑者が所属する「共同体」全体の利益のために働いたという善意から発したものだと解釈したほうがいいのではないかと思う。そう解釈することによって、この事件は個別特殊なものではなくなり、日本社会の普遍性を象徴するものとして抽象されるのではないかと思う。

この、日本社会に見られる普遍性の面を、小室直樹氏は『日本資本主義崩壊の論理』(カッパ・ビジネス)という本で、「共同体主義」という言葉で指摘している。「共同体」というのは、社会という大きな集団の中に存在する小さい集団の一つだが、個々の成員の結びつきが強く、個人の尊厳がその共同体への所属感によって保たれているものだ。

社会の規範と共同体の規範が調和的に存在している場合には問題は何も起こらない。共同体の利益はそのまま社会の利益になるので、共同体を大事にすることは社会を大事にすることにつながる。しかし、両者の利益が相反するものとして出現する場合は、論理的に正当にものを考える人間なら、社会あっての共同体なのだから、社会の利益のほうを優先させるように考えるだろう。そういうものを現代的な意味での「市民」と呼んでいる。

しかし「共同体主義者」と呼ばれる人間は、社会の利益が共同体の利益に反する場合、常に共同体の利益を優先させる。社会あっての共同体ではない。共同体が存在し得ないようであれば、社会があっても仕方がないのである。共同体の存続のためには社会は、ある意味ではどうなってもかまわないというのが「共同体主義」を徹底した考えだろう。

これは日本社会における普遍性の一つだ。内輪の人間には非常にゆるい規範を適用し、外の人間には厳格に規範を適用するということは、日本中どこにでも見られる現象だ。そして、その基準は論理的正当性ではなく、共同体の存続というものが最も重要なものになる。論理的な不当性を持っていても、それが共同体の存続に役に立つならそれが選ばれる。

小室氏が挙げている例では、旧軍隊の内務班のリンチというものが書かれていた。軍隊におけるリンチは、映画などでも描かれていて普通にどこでもやられていたのだと僕はイメージしていたが、小室氏に寄れば当時の東条英機陸軍大臣がリンチを禁止していたという。つまり広い社会での規範ではリンチをしてはいけないことになっていた。だが、内務班ではそんな規範がないかのようにリンチがやられていたという。

このリンチの実態を調べたことがあったそうだが、内務班では、リンチをしたほうもされたほうも一切その実態を外にもらさなかったそうだ。外の社会の規範よりも内務班の規範が優先したものであって、リンチの存在は内務班という共同体の存続に必要だと誰もが了解していたことを意味する。

共同体というのは一つの集団であるには違いないが、社会と比べれば小さいものであり、その利益は一つのエゴとして全体を傷つける可能性がある。共同体主義が社会にとっては害になるといえるのは、それがエゴとして全体を傷つける可能性を免れないからだ。また、このエゴを守るため秘密主義になる恐れもある。

小室氏によれば、日本の軍隊は個々の兵隊の強さは世界一だと誇れるものだったという。それは、死を恐れない、ある意味では武士道的な思想が基礎にあったからだという。普通の兵士であれば、負けると分かっているような戦争では戦意が衰え、全滅する前に降伏するのではないかと思う。それが合理的な考え方だ。しかし、たとえ全滅するような局面を迎えようと、日本軍は降伏するというようなことを考えなかったようだ。これは、相手をするほうとしては恐ろしいことだったに違いない。

しかし、軍隊という全組織の問題として考えると、それぞれの軍隊が共同体をなしており、一つの組織として統制の取れた指揮形態が取れなかったそうだ。陸軍の内部情報は海軍へは伝わらず、それ以外でも同じだった。このような組織では、全体の戦略を立てるときに、情報の誤りから決定的な失敗をする恐れがある。小室氏は、先の戦争について、日本軍のそのような失敗を数多く指摘しているが、これは共同体主義の弊害の現われではないかと思われる。

日本というのは、敗戦前までは、おそらく国全体が一つの巨大な共同体として機能していたのではないかと思う。これは、共同体の規模としては大きすぎるものだったのだろう。しかし、国をまとめるということを目標とした当時の統治権力にとっては、共同体的な資質を持った国民にはそれが有効だと考えたに違いない。

だが、この共同体主義の弊害は、内部の小さな共同体の利益と、国全体の利益とが対立したときに、指導性の欠如として露呈した。戦後しばらくの間は、国民全体の利益や目標が重なるものがあったので、この共同体主義の弊害は現れなかったが、その共通の目標が失われた現在、その弊害があちこちに現れているのではないだろうか。

今週のマル激では社会保険庁のでたらめさが指摘されていたが、これなども大部分の国民にとっては有害無益な存在であるのに、社会保険庁から利益を得ている共同体にとっては、国民に損害を与えようとも自分たちの利益を守るほうが優先されるという共同体主義が現れているように見える。

小室氏は、資本主義というのは合理的・目的的な思考の元に利益を追求するという原則がなければ、存続・発展し得ないと指摘する。合理性と目的性に最も反するのが「共同体主義」だろう。これを克服しない限り、日本資本主義は崩壊への道を歩むというのが小室氏の本で展開している論理だ。

共同体の利益を守るために合理性が否定されるようなことがあれば、共同体主義の克服は難しいだろう。共同体の理不尽な規範が押し付けられているような場面を一つずつ正していくというような、気が遠くなるような努力を続けることが克服への一歩なのかと思う。そのためにも賢い市民がひとりでも多く出現しなければならないと思う。共同体を超える視点を持つことが出来る視野の広い市民が賢い市民となるだろう。