理論展開における形式論理的理解と現実解釈における弁証法的理解


ある種の理論的命題を理解するというのは、その理論が前提としていることから、論理的な整合性を持った展開を理解するということである。つまり、理解において必要不可欠なのは、そこに語られている論理を読み取ることになる。僕が、数学の学習においてまずは論理の基礎を身につけようと思ったのも、それは理論の理解において大きな威力を発揮すると思ったからだ。

論理だけでは理論を創造することは出来ない。理論の創造には、何を基本的な前提としておくかという、数学で言えば公理の選択に当たることが重要だが、論理というのは、理屈として整合性を持ったものの考え方の形式を教えるものだから、具体的な対象に関する属性はすべて捨象されている。だから、論理で何かの対象の本質を抽出するなどということは出来ない。論理は、対象が持っている具体性をすべて捨象してしまうので、具体的な理論を展開するような本質はすでに捨てられているからだ。

論理は学習においては、すでに打ち立てられた理論を理解するのに大きな威力を発揮する。しかし、理論の創造には、そこで対象として考えられているものに対する広い見方と、深い知識を総動員して本質を発見することが必要だ。これはある種のセンスにかかわるものになるだろう。このときは、形式論理ではなく、弁証法性を見落とさないだけの注意深さが必要だと思われる。

各種の理論の理解において形式論理がいかに役に立つかということを考えてみたいと思う。対象が複雑な構造を持つときは、その構造の論理を見出すのは難しい。それを形式論理が解きほぐしてくれるだろうと思う。いかにして理論が展開されているか、論理の流れがどうなっているかを、形式論理のメガネを使って理解を図ってみようかと思う。その結論が、いかに常識的に見て違和感があろうと、感情的に受け入れがたいものを感じようと、論理的に正当性があるかどうかの判断をしてみようかと思う。

ポイントになるのは、理論の前提として選ばれている命題は何かということだ。数学における公理に当たるものとして、その理論では何が設定されているのかを確定する。そして、その前提から純粋論理的に導かれる事柄は何かということを考えてみようかと思う。

このときに、論理的に考えると、その前提だけからでは導かれない命題が見つかるかもしれない。そのときは、暗黙の前提として、自明なことが仮定されていることが考えられる。その自明な事柄も、形式論理のメガネを使えば見えてくるだろう。そして、自明性を疑うことから、構造主義的な考察も進み、社会学などで見られる「再帰性」の思考というものも見えてくるだろう。

理解の対象として小室直樹氏の日本資本主義の構造を語る理論展開を見てみようかと思う。日本資本主義に関しては、結果的に高度経済成長をもたらしたことから、それを高く評価する解釈もある。「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」などと呼ばれた時代もあった。しかし、昨今のリストラやサービス残業正規雇用の減少などを見ると、その欠点が露呈したという解釈も出来る。

解釈というのは理論展開ではない。理論展開というのは、あくまでも本質として打ち立てた(抽象した)属性を前提として、論理によって導かれた命題の鎖のことを言う。そこには必然性があるだけで偶然性はない。この必然性は、抽象された対象に論理が適用されるということから得られる。捨象された事柄の影響が無視されるからこそ、例外的に偶然な存在が入り込む余地がなくなり、すべてが必然性として理解されることになる。

解釈というのは、あと付けの理屈のことである。因果関係を逆にたどるのが解釈だ。結果としての現象が目の前にあるとき、その現象を発生させた原因を、いくつかの選択肢の中から、現実的に見出したものが解釈だ。それは現実に見出すことが出来たので解釈として設定することが出来る。だが、そこには必然性はない。偶然時間的なずれがあって出現しただけなのかもしれないのだ。

迷信と呼ばれる解釈は、偶然性を必然性のように解釈した結果起こってくるだろうと思う。スポーツ選手は、試合でうまくいったときに、何回か同じ行為をしていたことに気づくと、その行為が原因となってうまくいったという迷信を抱きやすいようだ。たまたま靴下を右からはいたときには調子がよくて、左からはくと何か調子が悪いというような気がするというように。

本来は何の因果関係もないことなのに、時間的なずれが因果関係のように感じられて迷信は成立する。しかし、この迷信もある意味で役に立つだけになかなかなくならない。スポーツはメンタル(精神的)な影響が強く出るものだが、靴下を右からはくことで精神的に安定するようなら、そこに科学的な意味での必然性はないものの、結果的にうまくいくことが多くなるということになるだろう。このような迷信は、深刻な悪影響が生じない限りでは便利なものだと思う。深刻な悪影響が出るとしたら、本質的な体力の衰えでうまくいかなくなったときにも、靴下のはき方が悪いせいだと、本当の理由でないものを理由だと思い込むときだろうか。

解釈と理論の展開は、そこに形式論理としての展開があるかどうかという区別をしなければならない。演繹的な必然性がなければ、形式論理の展開とはいえない。靴下を右からはくことが、スポーツの調子を上げるということの必然性を論理的に導くことが出来なければ、理論の展開とは言えないのだ。

さて、小室氏の理論展開で難しいだろうと思われるのは、「資本主義の成立においては、それを発生させ、育てる精神が必要不可欠である」という命題ではないかと思う。マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本を書いているそうだが、ここで言われている「プロテスタンティズムの倫理」というものが、資本主義を生み出したものであり、これを発展させたものだというのが、理解したい理論展開だ。

これは、現実の現象として、資本主義国にはすべてそのようなものが見られたという、現実解釈の理解ではない。形式論理の展開として、この種の精神が資本主義を発生させ・育てるのであって、たまたまそれが見出されたことを解釈したというのではないのである。

資本というのは、物理的なメカニズムとしては、それが蓄積され一定の量になったときに資本としての機能を発揮するようになる。しかし、蓄積されただけでは資本にならない。これが自然科学的な対象であれば、存在する物質のメカニズムだけでその変化をつかむことが出来るのだが、資本というような社会的存在は、物質だけのメカニズムだけではなく、人間の精神というもののメカニズムにも依存しているという発想になるだろうか。

もし富が蓄積して、その量の変化が資本への転化をもたらすという単純な法則が成り立っているのなら、封建制のもとでの権力者も金持ちであったことは確かだろうから、そこで資本が発生してもよさそうなものだが、そうはならなかった。封建制という時代が終わらなければ資本主義の時代にはならなかった。

資本というのは、単に富が蓄積されるという静止した属性を持っているだけでは駄目なのである。資本は、それが独自の運動によって増殖するという性質を持たなければならない。増殖しない資本は、やがて資本の機能を失って消滅してしまう。資本が資本であるためには、そこから利益が生まれ増殖するという運動が必要なのである。

それでは資本の増殖はどこから生まれるか。それは労働者の労働から生まれると考えるしかない。萱野さんの指摘にもあったが、資本は、労働者の上前をはねて、それによって自らを増殖するという運動をしなければならないものなのである。資本が資本であるためには、それを支える労働者が必要である。そして資本を支える労働者は、資本主義の精神を身につけた労働者でなければ、それを支え・発展させることに寄与することが出来なくなる。それが基本的な理論展開ではないかと思う。

封建制のもとでの奴隷も、権力者である領主のために労働をし、領主の富を増殖させることが出来る。これと資本の運動としての富の増殖とはどこが違うのだろうか。それは、小室氏が指摘していた「目的合理性」というものにあるのではないかと僕は感じる。資本主義の維持・発展のためには目的合理性というものが必要不可欠であるという主張も小室氏の中にはあった。

資本主義における労働者は、奴隷と違って身体の拘束までは受けない。契約によって時間の拘束は受けるものの、どこで働くかということを選ぶ自由はある。封建制の時代と比べて、資本主義の時代は、一般民衆の自由は飛躍的に拡大した。それは、自由が拡大したほうが、労働者の労働効率がずっと上がり、奴隷的な状態にいるよりも社会全体の富が増大するということがあったからだろうと思う。これは解釈だ。

しかし、資本主義の物質的豊かさは現実が証明しているものだろう。そして、その豊かさが、資本主義がそれまでの時代を打ち破る強さももっていたものだと思われる。この自由な労働者に対して、目的合理性を持たなければ、その資本は選ばれるべき対象にならないだろう。経営者が恣意的に目的を追求したり、ばかげた判断で利益の増加に失敗したりすれば、労働者はそのような資本を見捨てるだろう。目的合理性を持った資本は、労働者にも富を多く還元し、結果的に自らの資本の増殖に成功する。それが資本主義の健全な発展に寄与しただろう。

プロテスタンティズムの精神は、労働することを宗教的な救済に結び付けたと小室氏は指摘する。現世において労働に勤しむことは、そのまま宗教的な救済にも結びつくという思想だ。よく働くことが、結果的に幸せな宗教生活に結びつく。このような精神を持った労働者を雇い入れることにより、資本は、安心して仕事を任せて利益の追求を目指すことが出来る。この精神を持った労働者と資本という量が結びついて資本主義が発生し発展したというのが小室氏の語る命題ではないかと思う。

僕は資本主義社会で生まれて育っているだけに、資本主義的な精神というのは自明の感性として身体の中にあったような気がする。「働かざるもの食うべからず」というような言葉は疑問を感じず、そのとおりだと思うようなメンタリティを持っていた。しかし、そのようなことが正しいという時代や立場は普遍性のあるものではなく、資本主義になってからのものではないかと思う。

たくさん働いて豊かになるというようなメンタリティも資本主義社会を発生させ・発展させたものではないかと思う。そのようなメンタリティを持てば、資本の増殖に有効に働くというのは、論理的な帰結として導けるのではないかと思う。そのような理解が理論展開の形式論理的な理解ではないだろうか。

このような理論展開の前提として違うものを立ててみようかと考えるのは弁証法的発想ということになるだろうか。たくさん働いて豊かになるのはもういい、むしろ必要なだけ働いて余暇をもっと自由に自分のために使いたいという個人主義的な発想も出来るのではないかと思う。そのときは、もう資本主義の「発展」に寄与することは出来なくなるのではないだろうか。理論展開としてはそう言わざるを得ないのではないかとも感じる。

資本のメカニズムとしては、資本の増殖のために必要以上に働く労働者がどうしてもいなければならない。必要な労働しかしたくないという、先進資本主義国の労働者が、資本主義の発展に寄与できないとすれば、後発資本主義国の労働者にそれを押し付けて、より多くの上前をはねることが必要だろう。南北の富の格差は、人間の心の問題ではなく、資本のメカニズムの問題かもしれない。そのように理解すれば、単に心情的な活動だけでは解決しないのではないかとも考えられる。

理論展開の理解は、時にそのメカニズムに抗することのむなしさを感じて、心情的な動機が薄れてしまう危険がある。しかし、その危険があってもなおかつ、理論展開の理解なしに心情だけで動くことの弊害のほうが僕は大きいのではないかと思う。資本主義の精神については、さらに具体的な面の理論展開を詳しく考えてみたいと思う。