波が伝わるメカニズム


波の本質というのは、振動という運動が、近くの物質に次々と伝わっていく現象として見ることが出来る。波が移動して行くように見える現象は、何らかの物質が移動していくのではなくて、見た目の形が移動していくように見える。移動していくのは形であり物質ではない。波というのは物質の属性ではなく、物質の運動形態を指すものだと理解したほうがいいだろう。

波は、物質の振動運動によって現れるので、それを記述するには「運動の記述」というものが必要になる。この「運動の記述」は、形式論理の範囲内ではパラドックスを引き起こす。形式論理は、対象の静止面を切り取って、対象を写真で写したように、静止画像として扱う。静止画像の表現だから、そこからは「動いている」という運動の側面は記述できない。

運動している物質は、ある瞬間には空間の一部分を占めているが、次の瞬間には違う部分へ移動していなければならない。それを、瞬間だけを捉えている記述では、そこには運動は表せない。静止した写真的な画像があるだけだ。瞬間と瞬間とのつながりを記述できなければ、静止の記述である形式論理は運動を記述することが出来ない。

瞬間と瞬間がつながっているというのは、連続性の記述になる。これがつながっていない離散的な状況であれば、それは運動の記述ではなくなる。映画のフィルムは静止画像の積み重ねであって、決して運動を表現したものではない。それが動いているように見えるのは、瞬間が連続しているように見える人間の錯覚による。映画は、厳密にいえば静止画であり、実は動画ではない。

この瞬間の連続性を形式論理で記述するには、物質はある瞬間に空間の一点に存在するが、同時にその瞬間にもうその一点にはないと言わなければならなくなる。この同時性を形式論理で成立するように言い直せば、「次の瞬間」にはもうその一点にはないともいえるが、「次の瞬間」というのが「連続性」を呼び寄せてしまい、これは「同時」に「存在しかつ存在しない」と言う矛盾律の成立を考えるのと同じくらい難しい、実無限の把握と空間の無限分割という問題を引き起こす。運動の記述を形式論理でやろうとするとゼノンのパラドックスを逃れることが出来ない。

波は運動の形態であるから、その記述を形式論理でやろうとすると、このような矛盾の取扱いや無限の取り扱いというものが必要になってくる。波の表現が理解しにくい原因は、形式論理という観点から考えるとこのようなところにあるのではないだろうか。

波の表現自体の問題は別の機会に考えることにして、今回は波が伝わるメカニズムの記述について考えてみようと思う。メカニズムの記述というのは、因果関係として成立する形式論理的表現の記述になる。これは運動そのものの記述ではないから、形式論理にとっては得意の分野になる。メカニズムというのは、機械的な法則性を語るものであり、「釣り合い=均衡」という観点からそれが捉えられる。これは静止画像として捉えられるので形式論理的には表現しやすい。

カニズムにおける変化は、関数のブラックボックスとして、とりあえずは解明しなくてもいいものとして棚上げされる。原因と結果を、関数の入力と出力として固定した静止画のように捉え、その間に成立する因果関係の必然性がメカニズムとして記述される。この入力と出力の断絶は、関数の中身をもっと細かくして、多くの関数の合成関数として記述することも出来る。そうすれば、静止画の間の変化の様子を想像しやすくなり、静止の論理による運動の表現が、より正確なものに近づいていくだろう。

さて、波が伝わるメカニズムとして最も分かりやすいのは、紐を上下に揺らすという振動運動によって伝わる波だろう。これは絵があると分かりやすくなると思うので、「横波と縦波」の絵を参考にして考えてみようと思う。

紐を構成する物質は、細長い形態の中に互いにつながりあっている。その物質を切り離して自由に配置できるようであれば、それはもはや紐とは呼ばれなくなる。隣同士の物質がつながりあっているというのが基本的な性質で、そのうちの一つの物質が運動していれば、その運動に引きずられて隣の物質も同じ運動をすると考えられる。

これが形式論理的な前提となって、上下に振動するという運動が伝わっていくというメカニズムが語られる。形式論理的な仮言命題は次のようになるだろうか。


  ある物質が上(下)に移動する
        ↓
  隣の物質が上(下)に移動する
 (二つの物質が紐としてつながりあっているから)


この現象を運動として捉えるなら、この仮言命題が無限に多くつながりあって運動の表現となる。そこをブラックボックスに放り込んで棚上げすると、紐のある一点に加えた上下運動という振動運動を入力として、波が紐を伝わって動いていくという出力を得ることが出来る。上下運動の入力の値に対して、その瞬間の波の姿が出力として得られる関数が得られる。それは瞬間の静止画像であるが、波の形が変化していることを、その出力を見比べることで解釈できる。

波の伝わる方向と、振動運動の方向が直行する横波の場合は、基本的には紐に出来る波の連想で同じように考えることが出来る。隣同士がつながりあっているので、そのつながりに引きずられて運動が伝わり、上下に運動する位置情報のずれが、見た目の波という形を生み出す。

紐のような細長い形態をしていないものでも、固体のように、物質の基本単位である原子がつながりあっている物質は、原子と原子の間にばねがあるような形を想像して、そのばねが運動を伝えるというメカニズムを設定することが出来る。物質がばねとしての性質を持っているという前提を据えることによって、形式論理によって波が伝わるという現象を理解することが出来る。

個体の場合は、波が伝わる方向と振動の方向が同じになる縦波を想像することもしやすい。これは、紐の波のように見た目の形で直感的に理解することは出来ないが、原子がばねでつながっているという形を想像することで、ばねが隣の原子を押したり引いたりする振動の運動が伝わっていくという想像が出来る。押された原子は押されっぱなしでどこかへいってしまうというのは個体の場合は出来ない。振動という運動であれば、どこかで引き戻されるという運動も生じる。そうすると、振動という運動が次々と隣の物質に伝わっていく様子も想像でき、それが波が伝わっていく現象として理解できる。

縦波の場合は、押された状態では原子同士が近づいた状態になるので、その空間での原子は密の状態になる。また、引っ張られた時は、その空間での原子は疎の状態になる。密の状態と疎の状態を繰り返すという現象が波として捉えられる。この場合は、形として波が目に見えるというよりも、周期的な現象が目に見えて、それが波を表現していると考えられる。周期性のある現象を波として捉える観点が必要になるだろう。

さて、個体ではない液体や気体の場合は、となりの原子とくっつきあっているのではないから、となりに引きずられて振動運動が伝わるということは想像しにくい。液体や気体の分子はかなり自由度が高い。押されたら押されっぱなしでどこかへ行ってしまってもかまわない。

風のように一方向へ流れていく運動になったとしても、気体である空気の場合はかまわないだろう。この時は振動運動ではないので波は生じないことになる。波が生じるためには、振動運動が伝わるということがなければならない。押されっぱなしではなくて、引き戻すという運動も伝わっていくのだろうか。押される運動は、衝突によって伝わると考えてもいいだろう。だが、つながりあっていない気体分子は、引き戻すという運動が伝わるのだろうか。

これは、気体の分子が振動という運動をしていたとき、それが振動をして動いた後に出来る空間がどのようになるかを想像することで解決できるのではないだろうか。分子が存在しない空間というのは真空という状態になる。真空というものが、空間のある部分に偏って存在することができないという前提を立てられるなら、その真空を平均化するために、真空の部分に空気の分子が引っ張られるという運動が引き起こされると考えられるのではないかと思う。衝突によって押される運動と、真空が引き起こす引っ張るという運動で、振動という運動が伝わっていくと想像できるのではないだろうか。

空気において、このような分子の疎の状態と密の状態が繰り返されるなら、そこには空気の波があると考えられるのではないかと思う。この波は、紐のように形として見える波ではないが、繰り返される周期的な運動として波の性質を持っていると考えられるのではないかと思う。

紐や個体、気体である空気などは、波を伝える媒体として、振動運動を伝えていくという性質を持っている。波の場合は、波を伝える媒体というのが、周期的な運動が広がっていくという現象を説明するのにどうしても必要だろうと思う。何もないところに波が生じるというのは想像できない。波というのは物質の形態であるから、物質がないところに波が見えるというのは、形式論理的には矛盾ではないかと思う。

しかし、光を波として捉えたときに、それを伝える媒体として考えられた「エーテル」という物質は、とうとう存在しないことが確認されたという。光は、媒体なしに伝わる波だということだ。これは、現実に存在する現象であるあるから、形式論理的な矛盾だから許されないということは出来ない。これが整合的に形式論理で説明されなければならないだろう。この矛盾は弁証法的な矛盾として説明されなければならない。

一つのヒントは、周期的な運動そのものが波として捉えられる可能性がないかということだ。波という現象を目で見ようとすれば、そこには媒体がどうしても必要になる。媒体なしに、真空で波を見ることは出来ない。だから、波の本質から「伝わる」という性質を捨象してしまって、「周期的に運動する」という性質こそ波の本質だと捉えると、媒体なしの波も想像できるのではないだろうか。

周期的な運動というものを振動として捉えることが波の本質だと考えるなら、原子という存在は本質的に周期的運動をしていると考えることが出来ることから、そこに現れる波を見ることが出来るのではないだろうか。原子は、電子が原子核の周りを回っているという周期的な運動をしていると考えられる。この周期的な運動がなくなれば、原子は崩壊してしまう。

波は、それが伝わるメカニズムを考えるには媒体というものが必要になる。だが、周期的な運動である振動こそが波の本質だと考えるなら、媒体を捨象できるだろうか。それが伝わるということを捨象できる、つまり伝わらなくてもいい波というのを想像できるだろうか。伝わらなくてもいい波という矛盾した存在を形式論理で捉えられるかどうか。真空中を伝わる波は、媒体のない波として捉える必要があるのだろうか。

物理では、「場」という考え方もあるそうだ。これは真空中でも想定できるもので、波を伝える媒体を、もう一段抽象度を高めたものとして捉えることが出来るものだろうか。「場」が、媒体の発展したものであれば、やはり波は何らかの媒体を通じて伝わるものだという考え方は維持されるものとなるだろう。「場」についても調べてみようかと思う。