無限の考察あれこれ


「2006年03月03日 実無限と可能無限」というエントリーのコメント欄で武田英夫さんという方が幾つかの疑問を提出しているが、これに対して数学的にどう答えるかということを考えてみたい。無限ホテルのたとえと無理数である円周率の有限小数表現については以前の「現実存在である人間が無限を捉えることの限界」で触れておいた。残りのコメントで語られているものについて考えてみようと思う。

まずは、紙幣と現金の問題について考えてみようと思う。財布の中身を、紙幣の種類として考えれば、どんなにたくさんの現金があっても、1000円札、5000円札、10000円札の3種類しかないと語ることが出来る。しかし、これを現金の問題として、いくらあるかということに対する答として考えれば、2枚の1000円札は2000円という額になる。紙幣の種類として考えるか、現金の額として考えるかで、答が違ってくる。

この矛盾は、形式論理的な矛盾ではなく、「紙幣として見るか」「現金として見るか」という視点の違いによって、1(紙幣の種類としての1000円札)であるか2(1000円札という元気が2枚)であるかの違いが生まれる。ここには、「1であって1でない」という矛盾があるように見える。しかし、この矛盾は、視点の違いからもたらされるものであって、その視点は同時にはもつことが出来ないので、形式論理的には前提の違う命題になり、矛盾律に反することはない。紙幣としてみれば、それは1種類であると結論することは何ら矛盾ではない。

この視点の違いは、抽象化された形では、数学において無限集合にある種の構造を導入し、その構造の下での同値類を同じものとみなすという視点で有限集合にしてしまうということによく似ている。例えば、自然数の集合において、3で割ったときのあまりによって、無限にある自然数を分類すると、あまりが0であるときを<0>、同様にあまり1のときを<1>、あまり2のときを<2>と表現すれば、自然数全体の集合は、<0>、<1>、<2>という3つの有限集合に分類される。

これは、自然数の集合が、無限集合であったものが有限集合になってしまったということではない。個々の自然数は、抽象的ではあるが実体的にイメージしてそのものを対象とした認識が出来るが、上のように分類したものを寄せ集めた<0>、<1>、<2>という対象は、集合につけたラベルとして受け止めなければならないもので、これは、それ自身が無限集合なのである。つまり、自然数という無限集合の無限性は、この分類した対象の一つ一つが無限集合であるという点で保存されているのである。無限が有限になってしまったわけではない。

田英夫さんの疑問は、視点の違いから得られた弁証法的矛盾を、視点の違いという条件を無視して形式論理的な矛盾のように受け取ったことから発生したものと思われる。視点が違うときに、矛盾したように見えるのはこれは問題はないのである。むしろ、視点が違うのに同じように見えてしまうほうが問題だ。視点の違いを了解することでこの疑問は解消されるだろう。

二つの整数の和が、また整数となるかという問題は、これがそうなるかどうか分からないというのが、まさに実無限が認識できるかどうかという問題になるのだと思う。整数というものを、数学的に定義できる集合として考えているなら、これは可能無限の対象として人間に把握できることになる。

負の数は正の数の逆方向として同様に考えればいいので、自然数の和がまた自然数になるということを考えてみようと思う。自然数は、歴史的にはものを数えるときに使われる数として発生した。これを数学的に、論理的考察の対象になるように定義すれば、ある自然数の次の自然数というものが必ず存在することによって、その無限性を表現し、次の自然数を構成的に作れるということが可能無限としての取扱いになる。

1を足すということと次の自然数とを結びつけると、自然数の和というものも構成的に作ることが出来る。+1をするということは、次の自然数を指定することと同じことにするわけだ。そうすると、二つの自然数の和は、その前の自然数に1を加えたものとして、どんどんさかのぼることが出来る。そして、個々の自然数そのものは有限な数字なので、そのさかのぼる回数も有限回で終わる。つまり、自然数の和は、究極的には1+1を定義しておけばいいことになる。これは自然数の1の次の数である2になる。このことから、自然数の和は自然数になるということが有限回の手順で、どの自然数に対しても言えるのだから、可能無限の集合である自然数の集合全体に対して、その和がまた自然数になるということが、数学という形式論理の範囲で言えるということになる。

以上は、自然数の集合を可能無限として捉えたときに言えることなのだが、これが実際に現実に存在する無限であると解釈して考えると、その実際に存在する自然数の無限集合から任意に二つの要素を拾い出してきたとき、これが元の集合に属するかどうかを個別的に判定するということになる。これは、すぐに判定できる場合もあるだろうが、いつまでたっても終わらないという可能性もある。実無限の場合は、実際にそれを確かめるための実験が終了しないというときに、結論が出せないことがある。ゼノンのパラドックス状態だ。

従って、これは武田さんが言うように、「元の整数集合に含まれない整数が生じる」と結論するのではなく、それが決定出来ないことがあるのが実無限の集合だと考えたほうがいい。決定出来ないので、考察はそこでストップしてしまう。だから、数学的には実無限というものを対象にした時は、理論展開がそれ以上できなくなってしまう。これが数学において実無限は排除されるということの理由になるのだろう。

空集合がすべての集合に含まれるということを形式論理的に理解するのは非常に難しい。空集合というものが、そもそも言語の概念からいうと矛盾した表現に見えてしまうからだ。集合というのは、素朴にはものの集まりとしてイメージされる。何かが集まっているはずなのに、何ももたないものをも集合と呼ぶことに、形容矛盾という感覚を感じるところがこの空集合の概念の難しさだ。

形式論理である数学では、集合は、ものの集まりではなく、数学的操作の対象となるようなものとして概念化されている。何も要素をもたない、集合という名にふさわしくないものであっても、それが数学的思考の操作の対象として扱えるなら集合と呼ぶのである。

これは数字における0とよく似ている。もともと数字というのは、対象が何か存在しているとき、その量を示すものとして考えられた。存在を前提にして考えられたので、存在しないものを数として扱うのは非常に難しかっただろうと思われる。0を含んだ計算は、インド以外ではなかなか発達しなかったといわれているが、何もないという無に、0という量が存在するという概念を持たせるのは難しかったのではないかと思う。

あるものが「ない」という捉え方をするのは自然だが、「0という量が存在する」という言い方は、「無いけれど在る」という弁証法的な表現になるからだ。空集合にも同じような難しさがある。これは、ものはないのだが、集合としてはあるのだ。0は、量としては存在しないのだから、本来は大小関係を判断できないはずなのだが、すべての有限の量である自然数よりも小さいものとして考えられる。同じように、空集合は、すべての集合に含まれる最小の集合として捉えられる。

0がどの自然数よりも小さいということが整合的であるということは、次のような想像をすると分かる。ある有限の自然数の量だけのものがあったとき、それをだんだんと減らすことを考える。リンゴが10くらいあったとき、それを少しずつ食べて量を減らすことを想像する。

そうすると、量が減った自然数は、その減った分だけ量としての表現である自然数が小さくなったと考えるのが整合的だろう。そして、どんどん減らしていくとやがては何もなくなり、0という数で表現できるところに落ち着く。そして、量はこれ以上減らすことが出来ない。だから、0という量は、最小の量を表す数としてふさわしい、整合性を持っているといえる。

同じようなことを集合で考えてみる。ある有限集合に対して、それの部分集合を考える。その部分集合は、元の集合に含まれるが、部分集合には含まれないものがあると考える。つまり、元の集合より本当に小さい集合を作っていくことを考える。リンゴを食べて減らしていくことと同じようなことを考える。これは、有限集合であるから、そのうちに限界に突き当たる。要素が1個しかない集合から、本当に小さい集合を作ろうとすると、要素が何も無い空集合を作るしかない。

数の場合が、量として最小のものとして0に行き着いたように、その中に作られる部分集合で最小のものとして空集合に行き着く。0が大きさとして最小になると考えるのが整合的であったように、部分集合として作っていって行き着くものとしての空集合は、任意の有限集合に含まれると考えるほうが整合的だ。そして、出発点が無限集合の時は、そのときに適当な有限集合を作れば、そこから最終的に最小の集合としての空集合に行き着く。

最小の集合として、すべての集合に含まれるというイメージは、形式論理的には次のように語られる。もし空集合が、すべての集合に含まれているわけではないとすれば、空集合を含むことの出来ない集合Aが存在することになる。この集合Aは、空集合を含むことが出来ないので、Aに含まれない要素bで空集合に含まれる要素がなければならない。しかし、空集合は要素が一つも無いのだから、bが空集合に含まれるというのは矛盾である。従って、空集合がAに含まれない(部分集合ではない)という仮定は否定される。

これは、対偶を取れば次のような命題の真理性を主張するものだ。


  要素bが空集合に含まれる →(ならば) 要素bはAに含まれる


これは、空集合がAの部分集合であることの定義である。この仮言命題の前件の部分を見ると、それは空集合の定義に矛盾する偽の命題であることが分かる。つまり、この仮言命題は、前件が矛盾しているとき、任意の命題が導かれるということを意味する。これは、形式論理の法則なのだが、仮言命題で真理を語る時は、前件に矛盾した命題を置くことは無いので、感覚的に了解することが困難になる。

空集合がすべての集合に含まれるというのは論理法則だ。だから、これを感覚的に了解しようとすると難しさを感じるのだろう。観察の結果得られる感覚的なものではないからだ。また武田さんが指摘するように、全体集合の補集合は空集合になると論理的には考えられるが、その空集合を全体集合にも含まれると考えると、補集合としての空集合は全体集合の外にあるのに、含まれる空集合は全体集合の中にあると考えられているので矛盾ではないかと思えてくる。

この二つの空集合は、違うものではないかという指摘は、認識的にはそれが正しいと思う。違う視点から見ている違う空集合だと考えたほうがいいだろう。しかし、空集合は、あらゆる無の現象は量的には0で統一できるが、個々の現象は違うものであるという数字の0と同じように、要素が無いという空集合の状態はすべての空集合で同じであるが、その空集合が存在している場所においては、0と同様に個別的な状況の違いがあると考えられるのではないかと思う。「含まれている」と「含まれていない」の矛盾は、やはり視点の違いから導かれる弁証法的な矛盾ではないかと思う。