言葉の定義と法則性――数学的公理と定理の関係との類似性


萱野稔人さんの『権力の読み方』(青土社)という本は、読み方によっては法則性をたくさん読み取ることが出来る、法則性の宝庫のような本だ。だが、この法則性をよく見てみると、それは法則性を利用してある言葉の定義をしているようにも見える。この法則性を語っていると思える文章を、ある言葉の定義と考えると、その法則性は実は論理法則としてのトートロジー(同語反復)を語っていると解釈することも出来る。

萱野さんは、話の出発点として「権力」の概念について語っている。これは、「権力」というものを論じようとしたとき、その意味(概念)が違っていたら、論理的な帰結が違ってしまうので、それをまずはっきりさせようということだ。萱野さんは、ハンナ・アーレントを引いて「権力を手に入れる」ということを「一定数の人たちから、彼らに代わって決定したり行為したりする機能を与えられるということである」と語っている。

これは、「権力」の概念として、多数を代表する行為が出来る源泉というもので捉えていることになるだろう。これは「権力」の概念を語るという受け取り方をすると、「権力」という言葉の定義をしていると解釈できる。しかし、その定義を支える・定義の正当性を保証するものとしての、ある法則性を語っているとも解釈できる。

その法則性は、「権力をもつものは、一定数の人たちを代表して、彼らの代わりに決定する機能・権限を持っている」という命題で語れるだろう。ここで語っている命題を法則性として捉えた場合は、「権力」という言葉は、この法則性で語るものではない何らかの属性で定義されなければならない。もし、「権力」という言葉の定義を、この法則性と同じ表現をして、しかもこれが一つの法則性であることを主張すれば、それはトートロジー(同語反復)を語ることになるだろう。それは「<権力を持つ者>は<権力を持つ者>である」という表現と同じものになる。<権力を持つ者>という言葉の定義が、例えば<もっとも強い暴力を持つ者>とされていれば、その暴力が、何らかの因果性を持って「一定数の人々を代表して、彼らの代わりに決定する」という行為を導き出すなら、それは法則性として解釈できる。トートロジーではなくなる。この場合は、現象論としては、<もっとも強い暴力を持つ者>が、確かにそのような機能・権限を実現しているかを観察することになる。そして、<もっとも強い暴力を持つ者>であるにもかかわらず、そのような決定に関与していない現象があった場合、それが捨象できるような例外であるかどうかを判断して、これが法則性として成立するかどうかの判断がされる。

トートロジーであれば、それは現象を観察して判断をするというような、現象論的段階の考察は必要なくなる。トートロジーは論理法則として、言葉の上だけでそれが正しいことが直ちに知られる。同じ文章表現であるのに、ある視点からは定義と判断され、その場合は法則性を語るものとしては受け取られない。しかし、違う視点からは、それは法則性を語ったものとして、現象を観察することによってその法則性が成立するかどうかが考察される。

これは、数学における公理と定理の関係によく似ているように感じる。数学における公理は、理論の出発点になるもので、証明の対象になるものではなく、他の命題の主張を証明するための基礎として設定されるものだ。ユークリッド幾何の公理は次の5つのものとして提出されている。

  • 1 勝手な点と、これと異なる他の勝手な点とを結ぶ直線は、一つ、そしてただ一つ引くことができる
  • 2 勝手な線分は、これを両方へ望むだけ延長することができる
  • 3 勝手な点を中心として、勝手な半径で円をかくことができる
  • 4 直角はすべて相等しい
  • 5 一直線が二直線に交わるとき、もしその同じ側にある内角を加えたものが二直角より小さかったならば、二直線はこの方向へ延長してゆけば、必ず交わる


これらは、現実の観察抜きに・証明なしに正しいものと前提して、理論の出発点とするものである。1などは、観察によっても2点間を通る直線はただ一つしかないようには見えるが、それが「どんな場合であっても」そうなるかどうかは、原理的には確かめようがない。人間が経験するどのような場合でも、おそらくそうであろうが、これから経験するであろうすべての場合を含めて、完全にこの1の命題が成り立つかどうかは確かめようがない。その完全さを設定するのが数学だということになるだろう。

しかしそれでも1などは、蓋然的にこの命題が成り立つとして、成り立たない場合がたとえ見つかっても、それは何かの間違いであるか・誤差として処理できると考えられる。つまり何らかの法則性を語っているとも考えられる。しかし、5の命題に関しては、その蓋然性を確認するのも難しい。

後になってこの5の命題は、これと違う視点で平行を定義した場合、ユークリッド幾何とは違う幾何の世界が構築できることが分かった。つまり、非ユークリッド幾何と呼ばれる世界では、ユークリッド幾何とは違う法則性が成り立つことが知られるようになった。言葉の定義が違うと、その定義によって構築される世界は、法則性の違う世界として認識されるのである。

萱野さんの「権力」の概念も、それを定義として理論の出発点にすれば、数学的な論理の世界が一つ構築され、そこでは論理的な法則性が導かれる。数学のように、形式論理の中での完結性を求める理論であれば、完結して矛盾さえなければこの「権力」論は完成だと言えるだろう。

しかし、この「権力」論が、現実の「権力」現象を語ったものであると主張するためには、論理法則として展開された(これはある意味で実体論的段階といえるのではないか)理論が、現象論的段階でも妥当であると証明されなければならないだろう。数学ではない、現実を対象にした科学においては、それが社会科学でも自然科学でも、定義を支える法則性の認識が、現象論的段階に妥当するものであり、それが妥当するがゆえに現象論的段階を越えて実体論的段階という論理による展開が可能になるということが証明されなければならない。

さて、萱野さんが語る「一定数の人たちから、彼らに代わって決定したり行為したりする機能を与えられるということである」という「権力」現象が現象としていつでも妥当だと主張できるものになるだろうか。これはかなり難しい問題のように感じる。その難しさは、「権力」という概念そのものを決定することの難しさに伴うものであるように感じる。

ある現象が、「権力」の現れであるというのは、何か漠然と考えることが出来るが、それは誰が判断してもそうだと言えるほどの客観性を持っているかどうかという判断は難しい。表向きはまったく権力をもっていないように見える人が、実は強大な権力を持っていたということは、自分自身の経験でも思い出すことが出来る。「権力」の現象というのは、そのような場合「現象」として捉えることが難しい。

しかし、そこに「権力」があるように見えないのに、その人物の言動は他の人々を拘束し、「彼らに代わって決定している」ように見えることがある。それは、解釈をすれば、正しいことをいっているから、他の人々は自らの意志でその正しさを理解して、その人間に言われたからそうするのではなく、自らの意志でそうしているだけだと解釈することも出来る。

だが、その言葉に従うことに何か釈然としないものを感じ、それが自分にとっては不利益になるという判断もあるのに、それに従うというのは、そこにある種の「権力」を感じるのも確かだ。いやいやながらそれをしなければならないのは、それが正しいからだということで理解できるものになるだろうか。

このような場合、その決定に、自らの意志で進んで従おうと、いやいやながらそれに従おうと、誰かが代表して決定するという機能を担っていて、その誰かが「権力」を持っているのだ、といつでも理解することが出来れば、論理としてはすっきりしてくる。「権力」とはそういうものなのだと解釈することにすれば、その解釈の元に「権力」の現象を構造化することが出来る。その世界での法則性の考察が出来る。

萱野さんが語る「権力」の定義を、定義として妥当だと理解するのも、実は「権力」の現象がいつでもこの定義が語るような観点から解釈できるという現象論的段階を通ることによって本当の理解になるのではないだろうか。ただし、この場合は、「権力」という言葉の本当の意味が分からないままに現象を解釈することになる。何しろ、本当の意味は、萱野さんの定義を確定した後に初めて分かるものになるので、現象論的段階を観察している間は、何となく「権力」の現象だと思えるものは全部考察の対象にしなければならない。

その現象の観察において、萱野さんが語るように「一定数の人たちから、彼らに代わって決定したり行為したりする機能を与えられるということである」ということがいつでも確認できるなら、これは「権力」の法則性としての妥当性を持っていると言えるだろう。また、これはどうも違うケースのように見えるという時は、それが例外として処理できるかどうかで、その法則性が確立するか、法則性としては否定されるかということが判断される。

正しいがゆえにその決定に従うという人々の判断は正当なものだと思われる。しかし、それは現象的に見れば、その正しい決定を下す人の代表的な意見に従うようにも見える。そうすると、萱野さんが言う意味での「権力」がそこに働いていると考えなければならないのではないだろうか。これすらも「権力」と呼ぶことに何らかのためらいを感じる人は多いのではないだろうか。

例えば、専門家が語ることはたいていの場合は正しいことを語っている。だから、専門家というのは、その専門家としての振舞いによって「権力」を行使していると言って納得できるだろうか。これは、そう捉えたいという気持ちも湧いてくるし、それも全部「権力」だと捉えたら、人間社会での現象は、ほとんど「権力」が絡んでしまうので、ことさら「権力」を考えることに意味があるのかという疑問も浮かんできてしまう。

人間の行為が、ほとんどすべて「権力」の行為であるなら、その「権力」行為の正当性は果たして判断できるのだろうか。また、「権力」が人間にとって普遍的なものであるなら、誰かが誰かを支配するということは、人間にとって避けられない運命になってしまうような気がする。久間元防衛相ではないが「しょうがない」と言わなければならないものになってしまうのではないか。

「権力」の現象論的段階は、現象論的段階としてもかなり難しいのではないかと感じる。しかし、それを正しく捉えられなければ、萱野さんが語る定義の意味を本当に理解することは難しいのではないかと、そんな印象を持ってこの法則性を僕は読んだ。